ヨウェリ・ムセベニ 革命政権

ヨウェリ・ムセベニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 04:01 UTC 版)

革命政権

政治と経済の再建

ウガンダのアミン以降の政権は腐敗、派閥抗争などで秩序回復の困難さを示し大衆的な合法性を得られなかった。ムセベニは、新政権が同じ目に遭わないために同様の誤ちの繰り返しを避ける必要があった。NRM は前任者達より幅広い民族的基盤を形成した上で、4年間の暫定政権であると宣言した。それにもかかわらず、様々な派閥の代表がムセベニによって精選された。ウガンダのそれまでの歴史に陰を落とした派閥間の暴力は政党活動と政党が民族的に異なる支持基盤を持つことを制限することを正当化させた。無党制により政党そのものは禁止されなかったが直接選挙で候補者を選ぶことはできなくなった。ムセベニが全てのウガンダ人に従うことを求めたいわゆる「抵抗運動」体制がこの20年間のウガンダ政治の基礎となった。

村レベルから直接選出された抵抗議会(のち地方議会)制度は地方の問題を扱うために設置され、固定価格商品の公正な分配も行う。抵抗議会議員の選挙は多くのウガンダ人にとって様々なレベルでの権威主義的であったこの数十年間で初めての民主的な経験となり、県レベルまでの同様の構造が5段階繰返される仕組みにより人々のよりハイレベルでの政治への理解を助けた[14][15]

新政権は外交的にも広範な支持を得て、内戦による経済的な損失やハイパーインフレなどに対し国際収支統計などの経済概念を導入して対処した。マルクス主義思考を捨て、IMF世界銀行新自由主義の構造調整を受け入れた。1987年からはIMFの経済復興計画 (ERP) を導入した。成長、投資、雇用、輸出の拡大のためのインセンティブの回復、輸出拡大のための貿易の多角化、私企業の成長促進のための規制緩和公企業の民営化、あらゆるレベルでの貿易の自由化などが行われた[16]

外交と紛争

1987年、ホワイトハウスロナルド・レーガンと会談するムセベニ
2003年、ワシントンD.C.を訪問するムセベニ

政権獲得後もムセベニは NRA の総司令官の地位を維持した。ケニアのモイ政権は当初新政権がケニアの反政府勢力を支援している疑惑を持った。緊張が高まり1987年末には国境のブシアで軍事的な衝突のない睨み合いが起った。内陸国でインド洋へのアクセスをモンバサ港に依存しているウガンダにとってはいかなる国境封鎖も経済に打撃となった。

オボテ政権へのゲリラ闘争の間 NRA は国籍を問わず戦闘に参加する兵士を集めた。オボテ政権による亡命ルワンダ人への迫害は彼らの NRA 加入の弾みになった。ムセベニ政権の始めの数年間には数千人のルワンダ人がその地位を維持していた。1990年9月30日の夜NRAの4千人のルワンダ人兵士が密かに兵舎を離れ、他の部隊と共にルワンダ領へ侵入した。ルワンダ愛国戦線 (RPF) はNRAの内部で細胞を用いて多数の成員を行動させていたことが後に判明している。

RPFはジュベナール・ハビャリマナ政権に反対するルワンダ人亡命者の組織で、ムセベニ及びNRMと結び付いていた。アンコーレ人のヒマであったムセベニは、ハム仮説により「ウガンダのツチ」として自らをツチと結びつけ、同胞が苦難の中で慰めを得られるように中心的な役割を果たした[17]。RPFの指導者の中にはフレッド・ルウィゲマやポール・カガメがいたが、彼らはNRMの創設メンバーでもあった。侵攻当初、ムセベニとハビャリマナは共に米国での国連サミットに参加していた。このRPFの動員タイミングは、RPFを止めるには遅すぎる、となるまでムセベニが現地を離れていられるように図られたものだという説がある。ルワンダ軍はベルギーフランスザイール軍の助力を得てようやく RPF を撃退した。

1990年9月の侵攻に関し、ムセベニはこれを共謀したかまたは軍の統制を失っているか、もしくはその両方であるとして非難された。RPF はルワンダとウガンダの国境に跨るヴィルンガ山地に溶け込んだ。ハビャリマナ政権はウガンダが RPF に領土を後方基地として使わせていると非難し、ウガンダの国境付近の村を砲撃した。ウガンダも反撃したと広く信じられているが、これは多分RPFの拠点を守ることになったと思われる。この戦闘で6万人以上が家を逐われた。両国間で安全保障条約が結ばれ、両国はお互いの国境沿いの治安維持について協力することで合意したが、再起した RPF は1992年までにルワンダ北部の多くを占領した。

ムセベニは1991年及び1992年アフリカ統一機構 (OAU) の議長に選出された。

1994年4月ハビャリマナとブルンジシプリアン・ンタリャミラ大統領の乗った飛行機がキガリ国際空港上空で撃墜され、80万人以上が殺害されたルワンダ虐殺の引き金となった。RPFはキガリを制圧しウガンダ軍の協力を得て政権を握った。

1995年4月ウガンダは神の抵抗軍 (LRA) への支援を理由にスーダンとの外交関係を絶った。スーダンは逆にスーダン人民解放軍への支援を非難した。これら二つのグループは共に穴だらけの国境を行き来して行動している疑いがあった。ウガンダとスーダンの不和は1988年には始まっていた。アミン政権及び第二次オボテ政権時代にはウガンダ難民は南部スーダンで保護を求めた。1986年に NRA が政権を握るとこれら難民は西ナイル岸戦線や後の LRA に加わるようになった。長期間にわたりムセベニ政権はスーダンをウガンダの安全にとって最大の脅威と看做した。

治安と人権

NRM は治安と人権の回復を掲げて権力を得た。10項の目標の内にも挙げられており、ムセベニは就任演説の際にも、

「我々の計画の2点目は人と財産の安全保障である。全てウガンダ人はどこであれ[絶対に]安全に暮らさなくてはならない。我々の安全を脅かす者はいかなる個人及び集団も容赦なく討ち果される。ウガンダの人々は我らの国土の内の仲間の人間からではなく我々を超えた自然に従って死ぬべきである。」

と述べた。しかし NRM がカンパラに新政権を発足させて以降も反乱と戦闘が続きこの目標が全土に及んだことはない。就任当初ムセベニは支持基盤のバントゥー系の多い南部及び南西部から強い支持を得た。ムセベニはこれまで政治的な発言の少なかった北東部の半遊牧民のカラモジョン族とも手を結んだ。しかしスーダンと国境を接する北部地域では混乱が続いている。西ナイル地方ではカクワ族とルグバラ族のかつてのアミン支持者らによるUNRFとFUNAが活動していたが、モーゼス・アリが第二副首相になることで戦闘を停止した。南部出身者による政府が立てられたことで北部出身者は不安を覚えた。ランゴ族、アチョリ族、イテソ族の反乱軍は NRA の強さに驚き、スーダン南部へと逃れた。アチョリのウガンダ人民民主軍 (UPDA) はアチョリランドのNRA による占領を阻止できず、自棄的な千年王国説を唱える聖霊運動 (HSM) を招いた。UPDAとHSMの敗北により兵力は神の抵抗軍 (LRA) へと引継がれ、LRAの被害はアチョリ自らに及んだ。

ムセベニは評判を回復するために人権の尊重を訴えたが、NRM も少年兵の使用[18][19] を非難された。NRA は公正さを認められるよう努めたがすぐに失墜した。ある村人は「ムセベニの部下が最初に来たとき、よく活動し私たちも彼らを歓迎した、しかし、彼らは人々を逮捕し殺し始めた。」と語った。

1989年6月アムネスティ・インターナショナル"Uganda, the Human Rights Record 1986–1989" [20] と題したウガンダの人権報告書を発表した。それは NRA の部隊により遂行された数多の人権侵害を報告した。戦闘の最も激しい局面の1つの1988年10月から12月の間に NRA はグルの町とその周りの約10万の住民を強制移住させた。兵士は強制移住の際に家や穀倉を焼き数百人を超法規的に処刑した[21]。しかしながらアミンやオボテ政権の間に行われたような系統的な拷問の報告はほとんどなかった。結論で報告書は

NRM 政権の人権の履行状況は政権獲得後4年間で初期の数ヶ月よりどう見ても悪化している。しかしながら、複数の評論家と観測者が「大量の人権侵害へ逆戻りする傾向がある」として、「ウガンダは悪い政府の手で苦しめられるよう運命づけられている」と言うのは事実ではない。

としていくらかの希望を伝えた。


  1. ^ “Uganda: Targeting 40 Years in Power, Who Is Candidate Museveni?”. AllAfrica. (2020年11月3日). https://allafrica.com/stories/202011030780.html 2021年1月20日閲覧。 
  2. ^ Oloka-Onyango 2003 Project MUSE.
  3. ^ "Fanon's Theory on Violence: Its Verification in Liberated Mozambique", Yoweri Museveni, from Essays on the Liberation of Southern Africa, ed. Nathan Shamuyarira (Dar es Salaam: Tanzania Publishing House) 1971, pp. 1–24
  4. ^ Self-Determination Conflict Profile: Uganda Archived 2006年7月11日, at the Wayback Machine., J. Clark; and Causes and consequences of the war in Acholiland, O. Otunnu, Accord magazine, 2002
  5. ^ Chronology, from "Protracted conflict, elusive peace - Initiatives to end the violence in northern Uganda", ed. Okello Lucima, Accord issue 11, Conciliation Resources, 2002
  6. ^ "Causes and consequences of the war in Acholiland", Ogenga Otunnu, from Lucima et al, 2002
  7. ^ "Profiles of the parties to the conflict", Balam Nyeko and Okello Lucima, from Lucima et al, 2002
  8. ^ CIA The World Factbook - Uganda
  9. ^ Uganda, 1979–85: Leadership in Transition, Jimmy K. Tindigarukayo, The Journal of Modern African Studies, Vol. 26, No. 4. (Dec., 1988), pp. 619. (JSTOR)
  10. ^ "Kampala troops flee guerrilla attacks", The Times, 23 January 1986
  11. ^ "Troops from Zaire step up Uganda civil war", The Guardian, 21 January 1986
  12. ^ "Kampala troops flee guerrilla attacks", The Times, 23 January 1986
  13. ^ "Museveni sworn in as President", The Times, 30 January 1986
  14. ^ 第141回アフリカ地域研究会・LORC 第4班 2006年度 第6回研究会
  15. ^ アイ・シー・ネット 「PRSP/公共財政管理に係る基礎調査 報告書」 2-23,24 pp.83,84
  16. ^ "Structural Adjustment in Uganda"
  17. ^ S. B. Bekker, Martine Dodds, Meshack M. Khosa, Shifting African identities, vol2, p.156, HSRC Press, 2001. ISBN 9780796919861
  18. ^ "Africa’s child soldiers", Daily Times, 30 May 2002
  19. ^ "Uganda: A Killer Before She Was Nine", Sunday Times, 15 December 2002
  20. ^ ISBN 978-0939994441
  21. ^ Uganda:Breaking the Circle" Archived 2003年6月5日, at the Wayback Machine., Amnesty International, 17 March 1999
  22. ^ "Uganda: Heavily Indebted Poor Country Initiative (HIPC)", World Bank
  23. ^ "Gender implications for opening up political parties in Uganda" Archived 2012年1月18日, at the Wayback Machine., Dr. Sylvia Tamale, Faculty of Law, Makerere University, from the Women of Uganda Network
  24. ^ Uganda Leader Stands Tall in New African Order, James C. McKinley, New York Times, 15 June 1997
  25. ^ "Explaining Ugandan intervention in Congo: evidence and interpretations", John F. Clark, The Journal of Modern African Studies, Vol. 39, pp. 267–268, 2001 (Cambridge Journals)
  26. ^ ibid. pp. 262–263 (Cambridge Journals)
  27. ^ "Uganda and Rwanda: friends or enemies?", International Crisis Group, Africa Report No. 14, 4 May 2000
  28. ^ New Vision, 26 and 28 August 1998
  29. ^ "L'Ouganda et les guerres Congolaises", Politique Africaine, 75: 43–59, 1999
  30. ^ ピエール・アブラモヴィシ「アフリカにおける米国の軍事政策再編」『ル・モンド・ディプロマティーク』2004年7月号
  31. ^ "Armed Activities on the Territory of the Congo (Democratic Republic of the Congo v. Uganda)", ICJ Press Release, 19 December 2005
  32. ^ 山口ひろみ 浅霧勝浩 訳 エヴァ・ウェイミュラー「秘密裏に国外へ持ち出されるコンゴの鉱物資源」『JANJAN/IPSJapan』2006年1月4日/26日
  33. ^ 大統領選、5期目を目指す現職が優勢、抗議デモでは死傷者も”. JETRO (2020年12月25日). 2020年12月30日閲覧。
  34. ^ “Uganda's Museveni declared winner of presidential poll: election commission”. ロイター. (2021年1月16日). https://jp.reuters.com/article/us-uganda-election-results/ugandas-museveni-declared-winner-of-presidential-poll-election-commission-idUSKBN29L0FQ 2021年1月17日閲覧。 
  35. ^ "Uganda social media row raises question over regulation in Africa". BBC. 14 January 2021. 2021年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月17日閲覧
  36. ^ Bavier, Joe (14 January 2021). Clarke, David (ed.). "Uganda orders internet blackout until further notice - MTN". ロイター. 2021年1月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月17日閲覧
  37. ^ Swails, Brent; McKenzie, David; Busari, Stephanie (14 January 2021). "Uganda internet shutdown causes polling problems as ex-popstar takes on veteran President". CNN. 2021年1月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月17日閲覧
  38. ^ “「2週間でナイロビ占領」 ウガンダ大統領、息子のツイートめぐりケニアに謝罪”. CNN.co.jp. CNN. (2022年10月7日). https://www.cnn.co.jp/world/35194328.html 2022年10月7日閲覧。 
  39. ^ “Ugandan leader’s son announces candidacy for president, before withdrawing tweet”. アフリカニュース. (2023年3月16日). https://www.africanews.com/2023/03/16/ugandan-leaders-son-announces-candidacy-for-president-before-withdrawing-tweet/ 2023年3月31日閲覧。 
  40. ^ “Ouganda: le président Museveni nomme son fils à la tête de l’armée”. ラジオ・フランス・アンテルナショナル. (2024年3月22日). https://www.rfi.fr/fr/en-bref/20240322-ouganda-le-pr%C3%A9sident-yoweri-museveni-nomme-son-fils-%C3%A0-la-t%C3%AAte-des-forces-arm%C3%A9es-du-pays 2024年3月29日閲覧。 






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヨウェリ・ムセベニ」の関連用語

ヨウェリ・ムセベニのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨウェリ・ムセベニのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヨウェリ・ムセベニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS