メジャーリーグベースボール
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歴史
「メジャーリーグ」の誕生
1850年代後半、ニューヨークスタイルの「ベースボール」は南北戦争を期にアメリカ北東部を中心に各地に普及し、野球の最初のアマチュアリーグとなる全米野球選手協会(NABBP)が生まれた。NABBPは12年間続き、最も拡大した1867年には400以上のチームがメンバーとなっていた。1860年代前半には選手の中に報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が登場しはじめていたとされる。プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定され、翌1869年に結成されたシンシナティ・レッドストッキングスは、プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、地方各都市を巡業してその名を馳せた[1]。レッドストッキングスの成功をうけ、あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生したが、次第にプロ選手とアマチュア選手の間で内部分裂がおき、全米野球選手協会はアマチュア組織とプロ組織に分割することとなった。こうして、1871年には最初のプロ野球リーグ、全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション、NA)が創設されたが[2]、リーグ運営は5年で破綻してしまった[3]。この時、現在に残るチーム、シカゴ・ホワイトストッキングス(のちのシカゴ・カブス)とボストン・レッドストッキングス(後のアトランタ・ブレーブス)が誕生している[4][5]。
翌1876年、現在まで続くナショナルリーグ (NL) が発足。このリーグが最初のメジャーリーグとされる。1876年4月22日フィラデルフィアにあるジェファーソン・ストリート・グラウンズで最初の試合が行われた。ナショナルリーグは所属選手の契約を強制し高額報酬によるライバルリーグへの流出を防ぎ、これまでは頻繁に起きた優勝を逃したチームの消化試合の中止をなくし全てのスケジュールを予定通り行うなど、ナショナル・アソシエーションの欠点を改善していった[6][7]。契約に「リーグ間の移籍禁止条項」を設けたことで初期には選手との対立もあったが結果的にこれが功を奏し、ライバルリーグはユニオン・アソシエーション(UA、1884年)、プレイヤーズ・リーグ(PL、1890年)といずれも短命に終わった。最も成功したアメリカン・アソシエーション(AA、1882年 – 1891年)とは1884年から1890年にかけてナショナルリーグとリーグ優勝チーム同士の対戦(現在のワールドシリーズ)が行われた。
解体した2つのリーグにいたチームは1892年にナショナルリーグに統合されたが、12球団あったナショナルリーグは1900年から8球団へ統合・削減し、ボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンD.C.から球団がなくなる。一方でウエスタンリーグというマイナーリーグが1900年にアメリカンリーグ (AL) へと改称し、ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減でメジャー球団がなくなった都市へ進出。翌1901年にアメリカンリーグは自らを「メジャーリーグ」と宣言したが、ナショナルリーグがそれに反発、シカゴのレランドホテルで他のマイナーリーグも交えた会議が行われた。この会議でアメリカンリーグはメジャーリーグとして容認され、数多く存在するマイナーリーグを総括する新しいナショナル・アソシエーションが設立された。ナショナル・アソシエーションはマイナーリーグベースボール (MiLB) として今日まで続いている[8]。1902年、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ、ナショナル・アソシエーションはそれぞれの独立経営と、共同経営を併せ持つ新しい協定に調印した。この合意は、のちにブランチ・リッキーにより洗練され、整備されていった今日のマイナーリーグの基礎となる分類システムも確立した。この翌年から両リーグ勝者によるワールドシリーズが行われることになる[9][10]。
後に短命となったマイナーリーグのいくつかは正式にメジャーリーグとみなされ、その統計と記録は現在の2つのメジャーリーグのものに含まれている。1969年に、アメリカプロ野球100周年を機にMLB機構の指定により『野球記録特別委員会』が設置され、そこで過去消滅したリーグを含め以下の6つのリーグを「メジャーリーグ」として認める、という決定がなされた。
- ナショナルリーグ(1876年 - 現在)
- アメリカンリーグ(1901年 - 現在)
- アメリカン・アソシエーション(1882年 - 1891年)[11]
- ユニオン・アソシエーション(1884年)[12]
- プレイヤーズ・リーグ(1890年)[13]
- フェデラル・リーグ(1913年から3年のうち運営基盤が確立していた1914年・1915年の2年間)[14][15]
それ以外の野球リーグでプロとして活動した経歴を持つ選手の記録については、現在この裁定に基づき、どこからどこまでをメジャーリーグ記録とするかといった分類が行われている。ただしこの裁定には一部研究者が異論を唱えており、ナショナル・アソシエーション(1871年 - 1875年)[注 2]、アフリカ系アメリカ人(黒人)中心に運営された「ニグロリーグ」のうち、特に運営基盤が確立されていた1920年 - 1948年の期間[注 3]、現在のアメリカンリーグの前身でマイナーリーグであった「ウェスタンリーグ」がアメリカンリーグと改称しナショナル・リーグの傘下であった1900年のアメリカンリーグなどもメジャーリーグとして扱うべきなどの意見がある。2020年12月17日、MLB機構は、「ニグロリーグ」に含まれる下記の7つのリーグの記録についてメジャーリーグの地位を与えると発表した[16][17][18]。
- ニグロナショナルリーグ (第1期) (1920年 - 1931年)
- イースタンカラードリーグ(1923年 - 1928年)
- アメリカンニグロリーグ(1929年)
- イーストウエストリーグ(1932年)
- ニグロサザンリーグ(1932年シーズンのみ)
- ニグロナショナルリーグ (第2期)(1933年 - 1948年)
- ニグロアメリカンリーグ(1937年 - 1948年シーズンのみ)
デッドボール時代
1900年から1919年までの期間は、一般に「デッドボール時代」と呼ばれる。この時代の試合は得点が低い傾向があり、ウォルター・ジョンソン、サイ・ヤング、クリスティ・マシューソン、モーデカイ・ブラウン、グローバー・アレクサンダーなどの投手たちが試合を支配した。その要因はいくつかあるが、ひとつには、この時代に使われていた「デッドボール(飛ばないボール)」と呼ばれた、とても緩みやすく投げるほどに糸がほつれ飛距離が出なくなるボールに原因があった[19]。それに加え、オーナーは3ドル(現在の価値で40ドル程)の新しいボールを購入することを嫌っていたため、ファウルボールもまれだったその当時、ファンはホームランボールでさえ投げ返さなければいけなかった。ボールは柔らかくなるまで、時には革がめくれ上がるまで試合で使い回された。そのため噛みタバコのヤニや、草、泥などで常に汚れていた[20]。
また、極一部の選手ではあったがボールを噛んで傷をつけたり、故意に汚すなどして投球に変化を加えるスピットボールを操る投手もいた。これは1921年にスピットボールの使用が禁止されるまで続いた。さらに、シカゴ・カブスのウエスト・サイド・パークやボストン・レッドソックスのハンティントン・アベニュー・グラウンズに代表される、センターが現在の球場より200フィート (61 m)ほども広い球場があり、そのためホームランはまれで、単打、犠打、盗塁、ヒットエンドランなどの「スモールボール」が当時の戦略の要となっていた[21]。内野安打をかせぐためにボルチモアチョップなどの戦法が編み出された[22]。ボルチモアチョップは、ボールをあえて前に飛ばそうとせず地面にたたきつけ、打球にグラブが届かないほど高く跳ねている間に一塁を駆け抜けるというものだった[23]。
20世紀初頭、ファウルストライクルールが採用された。これによって試合時間が大幅に短縮されたが、これまでのような大量得点試合が減り、試合で1点をとるのがより困難になった。19世紀のルールでは、ファウルボールはストライクとしてカウントされなかったため、打者は、ストライクがカウントされないまま投手に球数を投げさせることが出来たため、打者にとっては大きな利点であった。1901年からナショナルリーグが先にファウルストライクルールを採用し、1903年からアメリカンリーグでも採用された。しかしこのルールによって大量得点試合が減るということがファンの間では不満となっていた[24]。
追い打ちをかけるように1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、開催こそ継続されたものの選手の出征が相次ぎ、1918年にはレギュラーシーズンが短縮された。1919年、シカゴ・ホワイトソックスとシンシナティ・レッズで行われたワールドシリーズにおいて、メジャー史上最悪の不祥事であるブラックソックス事件が起き、メジャーリーグは社会的信用を失うことになってしまった[25]。ホワイトソックスの選手だった、ジョー・ジャクソン、エディ・シーコット、レフティ・ウィリアムズ、チック・ガンディル、フレッド・マクマリン、スウィード・リスバーグ、ハッピー・フェルシュ、バック・ウィーバーは賄賂を受け取ってわざと試合に負けた容疑で刑事告訴された[26]。この8名の選手はメジャーリーグから永久追放処分となった[27]。
ベーブ・ルースの登場
1910年代に下落した野球の人気は1920年におきた悲劇と、一人の選手の登場によって回復していった。1920年8月16日クリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマンがバッターボックスで頭部に投球を受け、数時間後に死亡した。チャップマンは、試合中に死亡した唯一のMLB選手となった。この悲劇は、当時の選手がヘルメットをかぶっていなかったことにも原因があるが、結果的には「デッドボール時代」を終わらせる手助けとなった。それまでは試合後半になると、ボールが軟らかくなり不規則な動きを見せ、汚れ見えづらくなっていたが、ボールが汚れるたびに取り替えるというルールが生まれたからである。ボールを取り換えることにより飛距離が飛躍的に伸びる結果になった。この頃から「ライブボール時代」が始まった。
同年、ボストン・レッドソックスよりニューヨーク・ヤンキースにベーブ・ルースが移籍。これまで投手として活躍していたルースであったが、前年に当時のMLB記録となった29本塁打を記録。ヤンキースでは打者に専念すると、不可能と思われていた自身の本塁打記録を大幅に更新する54本を放ち、翌1921年には59本と3年連続で本塁打記録を塗り替えた[28][29]。ルースを擁するヤンキースは、1921年に初のリーグ優勝を、1923年にはワールドシリーズ初優勝を果たす[30]。1927年、ルースは本塁打記録を60本に更新、さらにルー・ゲーリッグの台頭などで強力打線となったヤンキースは、1930年代の終わりまでに、11度のワールドシリーズに出場し、8度の優勝を果たすこととなる[31]。この時代には1試合当たりの得点も上昇。この打撃戦をファンは支持し観客動員は増加した[32]。
世界恐慌と第二次世界大戦
1929年頃始まった大恐慌の影響を受けて、野球の人気は再び下降を始めた。1932年までに、利益を上げたMLBチームは2チームだけだった。野球のチケット価格には10%の娯楽税が課せられ、観客動員は減少した。オーナーは契約選手を25人から23人に減らし、最優秀選手でさえも賃金を引き下げた。チームは生き残りをかけて、ナイターゲームの実施、ラジオでのライブ中継、女性の無料入場などの改革を行ったが、大恐慌の前には歯が立たなかった[33]。
追い打ちをかけるかのように1939年、第二次世界大戦が開戦。MLBでもチームに所属している選手500人以上が出兵を余儀なくされ、深刻なプロ野球選手不足を引き起こした。彼らの多くは、出兵している軍人を楽しませるサービス野球チームでプレーした。この時期のMLBチームは、兵役対象外の青少年、年長の選手で構成されていることになった。中には精神的、道徳的に不適格だった者もいた。その一方、肉体的にハンディキャップをおった選手にも機会をあたえることになった。片腕がなかった外野手のピート・グレイのような選手も、メジャーリーグに進出することができた。しかし、黒人がMLBのロースターに含まれることはなかった[34]。黒人選手は、戦争で人手不足であっても、MLBの出場は認められず、依然としてニグロリーグでしかプレーできなかった[35]。はじめて黒人がMLBに登場するのは、1947年のジャッキー・ロビンソンである。
戦時中の灯火管制により、野外照明を暗くしなければならなかったため、ナイターでの試合が困難になった[35]。1942年、国内では開催中止論も広まりつつあったが、1月14日に、初代コミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスは、フランクリン・ルーズベルト大統領宛てに手紙を送り、新たなメジャーリーグシーズンの開始と戦時中の野球の継続を嘆願した。大統領の返信には「野球を続けるのが最善であると正直に思っている。失業者は少なく、誰もがこれまで以上に長時間厳しい労働を強いられることになるだろう。ということは、今まで以上に全国民がリクリエーションの機会を持つべきだ。」と書かれていた。この手紙は「グリーンライトレター(青信号の手紙)」と呼ばれアメリカ野球殿堂博物館に保管されている[36]。
こうしてルーズベルト大統領の承認を得て、戦時中も試合は継続された。スタン・ミュージアル、テッド・ウィリアムズ、ジョー・ディマジオなどのスターたちのキャリアは中断されたが、チームは引き続きMLBでプレーすることになった[37]。しかし、各球団とも選手の出征が相次いだことによる深刻な選手不足は変わらず、1945年のMLBオールスターゲームは中止となった。
「カラーライン」の打破
1880年代にはメジャーリーグにも黒人選手が存在したが、選手、リーグの激しい反発により、短期間で姿を消す事となった。それ以降、黒人選手との契約を禁止する規則は存在しなかったものの、1940年代半ばまで黒人選手はメジャーリーグでプレイできなかった。ただし同じ有色人種でも、肌の黒くないヒスパニック系やネイティヴアメリカンの選手はプレイできた[38]。
1945年、ブルックリン・ドジャースの社長兼ゼネラルマネジャーであるブランチ・リッキーは、プロの野球リーグに黒人野球選手を本格的に入団させようと動き出した。彼はニグロリーグの有望選手のリストの中からジャッキー・ロビンソンを選んだ。リッキーはロビンソンに、彼自身に向けられる差別に「やり返さない勇気を持つ」事を求め、月額600ドルの契約を結ぶ事に同意した。ロビンソンは、ドジャースのファームクラブであるモントリオール・ロイヤルズに1946年シーズンから参加、1880年代から続くインターナショナルリーグにおいて57年ぶりの黒人野球選手となった[39]。
翌年、ドジャースはロビンソンをメジャーリーグに呼び寄せた。1947年4月15日、ロビンソンはエベッツ・フィールドで14,000人以上の黒人を含む26,623人の観衆の中メジャーリーグデビューを果たした。黒人野球のファンは、それまでのニグロリーグのチームの観戦を放棄し、ドジャースの試合を見るためにブルックリンに殺到した。ロビンソンの売り出しには、新聞や白人メジャーリーグの選手の大多数が反対であった。監督のレオ・ドローチャーはチームに「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと、ヤンキースのストライプが好きでも構わない。自分はこのチームの監督だ。チームに必要な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいるならトレードで出て行くことになるだろう。」と語った[40]。
対戦相手のフィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告。それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。ロビンソンは何人かの選手から励ましを受け、チームメイトのピー・ウィー・リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景に観客の誹謗中傷は徐々に減っていった。ロビンソンはどんなときも常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイトや報道陣から受け入れられるようになった[41]。ロビンソンは、この年から制定された最優秀新人選手賞を受賞した[42]。
3か月も経たないうちに、ラリー・ドビーがクリーブランド・インディアンスと契約し、アメリカンリーグも黒人選手を受け入れると[43]、翌年、他の多くの黒人選手がメジャーリーグに入った。サッチェル・ペイジはインディアンスと契約し、ドジャースはスター捕手だったロイ・キャンパネラとドン・ニューカムを追加した。ドン・ニューカムは後にサイ・ヤング賞を受賞した[44]。
女性選手との契約の禁止
1952年、MLBは女性選手との契約締結を禁止した。その禁止条項は1992年に解除されたが、その後も女性選手との契約は現在まで存在しない[45]。
編成と拡張
1901年から1953年までの間、2つのメジャーリーグは8チームのリーグで構成されていた。16チームはアメリカ北東部と中西部の10都市に集中していた。ニューヨークに3チーム、ボストン、シカゴ、フィラデルフィア、セントルイスには各2チーム存在していた。当時はセントルイスが最南端と最西端だった。最も距離の遠いボストンからセントルイスへの距離は、鉄道で約24時間の距離であった。
1953年、低迷していたボストン・ブレーブスが本拠地をミルウォーキーへ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。1954年、セントルイス・ブラウンズはボルチモアに移転。1955年、フィラデルフィア・アスレチックスはカンザスシティへ移転した。
野球専門家の間で、「この頃の初期拡大期に最も影響力があったオーナー」と考えられているブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは[46]、1958年シーズンの前に、彼はブルックリン・ドジャースを西海岸にあるロサンゼルスに移した[47]。オマリーがTIME誌の表紙になるほどの大事件だった[48]。全米一の熱狂度と評されていたニューヨークのファンから「世界三大悪人はヒトラー、スターリン、そしてオマリー」と非難された[49]。さらにオマリーは、ライバルのニューヨーク・ジャイアンツにサンフランシスコへの移転を持ちかけた。ジャイアンツは1950年代に入り成績、観客動員ともに落ち込み、本拠地ポロ・グラウンズの老朽化もあり、球団幹部はニューヨークからの脱出を考えていた時だった。ドジャースが単独で西に移動した場合、最も近いチームでもセントルイス・カーディナルズの1,600マイル(2,575 km)もあった[50][51]。1球団より2球団で移転した方が、西海岸の遠征が訪問チームにとって経済的だろうとの目的だった[52]。オマリーはジョージ・クリストファー・サンフランシスコ市長をニューヨークに招き、ジャイアンツのオーナーであるホーナス・ストーンハムと面会させた。ストーンハムはミネソタ州に移転することを検討していたが、1957年末に西海岸に移転することを決めた。この会合は、コミッショナーのフォード・フリックの要望を無視して行われた[53]。結果的に2チームの動きは、フランチャイズとMLBの両方にとって大成功だった。ドジャースは1試合で78,672人の観客を動員し、MLBにおける1試合での最多動員記録を叩きだした[47]。一方、3チームのうち2チームを失ったニューヨークでは球団を取り戻す機運が高まり、リーグ拡大の契機となった[49]。
年度 | アメリカンリーグ(AL) | ナショナルリーグ(NL) | チーム 総数 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
東 | 中 | 西 | 東 | 中 | 西 | ||
1901年 | 8 | 8 | 16 | ||||
1961年 | 10 | 8 | 18 | ||||
1962年 | 10 | 10 | 20 | ||||
1969年 | 6 | - | 6 | 6 | - | 6 | 24 |
1977年 | 7 | - | 7 | 6 | - | 6 | 26 |
1993年 | 7 | - | 7 | 7 | - | 7 | 28 |
1994年 | 5 | 5 | 4 | 5 | 5 | 4 | 28 |
1998年 | 5 | 5 | 4 | 5 | 6 | 5 | 30 |
2013年 | 5 | 5 | 5 | 5 | 5 | 5 | 30 |
1961年、ワシントン・セネターズがミネアポリスに移りミネソタ・ツインズとなった。同年、ロサンゼルス・エンゼルスと移転したセネターズの代わりに新しく作られたワシントン・セネターズの2チームがアメリカンリーグに加盟。続けて翌1962年、ナショナルリーグにはヒューストン・コルト45’sとニューヨーク・メッツが加盟。コルト45’s(4年目からアストロズに改称)は、1899年にルイビル・カーネルズがなくなって以来初めての南部を本拠地とするチームとなった。メッツは、大都市ニューヨークに復活したチームとして多大な期待を受けたが、最初のシーズンで40勝120敗と大敗し、無駄なチームを作ってしまったとファンを落胆させた。その後も最下位が定位置と成りつつあったが、創立8年目の1969年、突如100勝62敗の好成績でリーグ初優勝。そのままワールドシリーズも制してしまった。結果的にメッツは1960年前半に加入した4チームでワールドシリーズタイトルを獲得した最初のチームになった。
1966年、MLBはミルウォーキー・ブレーブスがアトランタに移り「ディープ・サウス」に進出。1968年、カンザスシティ・アスレチックスはさらに西のオークランドに移転した。1969年、両リーグはそれぞれ2チームの拡張フランチャイズを迎え入れた。アメリカンリーグは、シアトル・パイロッツ(シアトルで悲惨な1シーズンをおくった後にミルウォーキーに移転)とカンザスシティ・ロイヤルズを加えた。ナショナルリーグは、サンディエゴ・パドレスと、初のアメリカ国外のカナダフランチャイズとなった、モントリオール・エクスポズを加えた。これによって、両リーグ12チームと巨大化したため、この年から東西2地区制に移行した。2地区に分かれたことで優勝チームが2チームとなったためワールドシリーズの前哨戦としてリーグチャンピオンシップシリーズが始まった。
1972年、ワシントン・セネターズはアーリントンに移り、テキサス・レンジャーズになった。1977年、アメリカンリーグが再び拡大、シアトル・マリナーズとカナダ第2のチーム、トロント・ブルージェイズが加わった。その後、しばらく新しいチームは追加されず、1990年代までチームの移転もなかった。1993年、ナショナルリーグはマイアミのフロリダ・マーリンズ、デンバーのコロラド・ロッキーズを加えた。翌1994年、東中西3地区制に移行した。1998年、ナショナルリーグは西地区にフェニックスのアリゾナ・ダイヤモンドバックス、アメリカンリーグは東地区にフロリダ・タンパのタンパベイ・デビルレイズが加わった。タイガースがアメリカンリーグ東部地区から中部地区に、リーグのバランスをとるため、ブルワーズがアメリカンリーグ中地区からナショナルリーグ中地区に移動。リーグ間の移動が初めて行われた。
2001年のシーズン後、オーナー会議が開かれリーグの縮小、いくつかのチームの廃止が検討され、多くのオーナーによって縮小に賛成票が投じられた。その中でモントリオール・エクスポズとミネソタ・ツインズが廃止に最も近い2チームであった。しかし、ツインズが2002年シーズンのプレーを要求した裁判所命令を受け、MLBの縮小計画は中止された。MLBのオーナーは、少なくとも2006年までリーグの縮小をしないことに同意した[54]。エクスポズは、深刻な財政難で球団経営が行き詰まり、30年以上なかった本拠地の移転が行われ、2005年にワシントン・ナショナルズとなった。結果、セネタースがテキサスに移転して以来33年間不在だったチームをアメリカの首都に戻すことになった。一方モントリオールはフェデラルリーグを除き、1901年以来MLBの本拠地があった都市で現在チームを運営していない唯一の都市となっている。
2013年、インターリーグの開催時期が見直され、試合のスケジュールの関係でチーム数のバランスが悪かった地区の整理が行われた。ヒューストン・アストロズがナショナルリーグ中地区からアメリカンリーグ西地区に移動。前述のブルワーズ以来2例目となるリーグ間の移動となった。これで全地区5チームずつの均等配置となった。
2018年7月17日、MLB機構のロブ・マンフレッドがテレビ番組内にて、32球団に拡張する意向を示した。 候補地としてラスベガスやポートランド、シャーロットやナッシュビル、モントリオールとバンクーバーの6都市を挙げた。その上、メキシコについても「長い目で見ればあり得る」と語った[55]。
投高打低とルールの改定
1960年代後半、一旦は打者有利の時代になった野球は再び投手有利の時代になっていた。この時期の1試合あたりの得点は過去最低だった1900年後半の水準まで落ち込んだ[56]。ボストン・レッドソックスのカール・ヤストレムスキーは、1968年にメジャーリーグの歴史の中で最も低い.301の打率でアメリカンリーグの首位打者となった[57]。デトロイト・タイガースのデニー・マクレインは31勝を記録し、1934年のディジー・ディーン以来、1シーズン30勝した唯一の投手となった[58]。セントルイス・カージナルスの投手ボブ・ギブソンは、わずか防御率1.12を達成することで同様の偉業を達成した[59]。リーグ全体でも投手全体の平均防御率が1919年以来の2点代となり[60][61]、アメリカンリーグの平均打率にいたっては.230とMLB至上最低を記録した[62]。
1968年12月、MLBのプレールール委員会は投打の均衡を保つため1969年のシーズンから、従来の肩から膝までのストライクゾーンを肩から脇の下まで引き下げ、投手のマウンドの高さを15インチ(38.1センチメートル)から10インチ(25.4センチメートル)に下げることを決めた[63]。
1973年、ナショナルリーグよりもはるかに低い出場率で苦しんでいたアメリカンリーグは、打者の負担を減らし得点倍増を目指し、指名打者(DH)制を導入した[64]。2022年のシーズンからはナショナルリーグでも指名打者制が採用される予定である。
球場建築ラッシュと人工芝の流行
1960年代から1970年代にかけて、老朽化した野球場の立て替えとリーグ拡大によりできた新球団の新球場の建設ラッシュが起こった。この頃の流行は多目的球場とドーム球場だった。
野球人気が拡大する中NFLも急速に発展しており、野球とアメリカンフットボール両方のプロチームを持つ都市の多くは、野球のみを目的とした施設ではなく、両方ができる施設を建設したほうが経済的だったことから、1953年に開場したミルウォーキー・カウンティ・スタジアムを皮切りに多目的球場が多く建設された[65]。多目的球場は野球とフットボールの両方を収容する必要があり楕円形のデザインをしていたため、古いスタジアムよりも相対的にいびつな野球場の形になってしまった。いびつで広いグラウンドは普通の広さの外野であれば本塁打になるはずの打球がただの外野フライになったり、ファールがフライアウトになったりという現象がたびたび起こった。このような特徴はプロ野球の本質を変え、本塁打や打撃力よりも防御率の高さが目立つ結果となった。
1965年、世界初の全天候型屋根付き球場アストロドームが開場。球場に屋根を付ける発想は、アストロズの本拠地ヒューストンが夏は高温多湿で雨が多く蚊の大量発生にも悩まされる、そんな気候に左右されない快適な環境をとの発想からだった。開場当初は屋外球場と同じ環境でプレーできるように透明のアクリル屋根であったが、光が選手の目に入りプレーに支障をきたすことから、すぐに太陽光を通さないパネルに替えられた。この際、球場内の芝が光を遮られたことで枯れてしまう問題が起きた。それを解消するため世界初の繊維による人工芝「アストロターフ」が開発された。アストロターフは維持コストが安く天然芝からの転換も容易なことから多くの野球場で採用された。人工芝は打球が早くなる特徴があり、今までより盗塁とスピードが重要視されるようになった。人工芝の表面はボールがより速く移動し、より高く跳ねたので、三遊間や一二塁間の「穴」を通しやすくなり盗塁もしやすくなった。チームは投手を中心にした構成に転換していった。投手の球速を保つため中継ぎがより重要視されるようになった。そのため先発投手は試合を完投する必要はなくなった。先発投手は6から7イニングを投げて中継ぎにつなぐだけで十分だった。この頃は盗塁の増加に反比例して本塁打数は減少した。本塁打はウィリー・メイズが1965年に52本を打った後、50本を超えたのは1990年までジョージ・フォスターが1977年に到達したのみだった。
1980年代、多くの球場で採用された人工芝であったが、下地がコンクリートやアスファルトで固く選手の足腰に負担がかかるという声があがるようになる。1989年、世界初の開閉式屋根付き球場のスカイドームが開場すると、屋根付きでありながら天然芝の生育が可能となる[注 4]。1992年、天然芝のオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズが開場すると、レトロ回帰の新古典式野球専用球場が主流となっていき、徐々に人工芝の球場は減少していった。
現代野球と薬物問題
1994年、サラリーキャップ制度導入を巡って経営者側と選手会側が対立し、シーズン最中の8月から翌1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが発生。ストライキは232日間にわたり、1994年のワールドシリーズも中止された。選手会との協議の結果サラリーキャップ制度の導入は見送られたが、選手の報酬総額が相対的に高い球団に対する課徴金制度(ぜいたく税)が導入された。このストライキで一時大規模なファン離れが生じる結果となってしまった。
1995年、ドジャースに野茂英雄が入団。マイナー契約(40人枠外での契約)であったが5月にMLBへ昇格し、デビューすると13勝と活躍し新人王を獲得した。この日本人の活躍は国外の市場を開拓する契機となり、のちに多くの海外出身選手がメジャーデビューした。1997年、MLB以外のプロスポーツリーグでは積極的に行われてきたインターリーグを導入。これまでサブウェイ・シリーズのニューヨーク・ヤンキース対ニューヨーク・メッツに代表される同都市にあるチーム同士の対戦はワールドシリーズでしかかなわなかったため、好カードがレギュラーシーズンで見られるとあってファンには好評価であった。
1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサによるシーズン最多本塁打記録争いなどで盛り上がり、観客数もスト前の水準に回復した。1990年代後半から2000年代前半に本塁打量産ブームが起き、2001年にはバリー・ボンズが73本塁打を放ち、現在のシーズン本塁打記録を樹立した。しかし2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書と呼ばれる報告書では89人の実名が挙げられ、その中にはバリー・ボンズ、アレックス・ロドリゲス、マニー・ラミレス、マーク・マグワイア、ラファエル・パルメイロ、ジェイソン・ジアンビ、ホセ・カンセコら多くのMLBを代表する強打者がアナボリックステロイドを使用していたことが後に判明した。
強打者が増えてくる中、投手は打者のパワーに対抗するため、様々な球種を開発する必要があった。ジャイロボール[66]のような新しい球種は、力のバランスを守備側に戻すことができた。1950年代から1960年代のスライダーや1970年代から1990年代のスプリットフィンガーファストボールなどの球種で野球の試合が変わった。1990年代にはチェンジアップが復活し、トレバー・ホフマン、グレッグ・マダックス、ジェイミー・モイヤー、トム・グラビン、ヨハン・サンタナ、ペドロ・マルティネス、ティム・リンスカムなどの投手によって巧みに投げられた。近年、リンスカム、ジョナサン・サンチェス、ウバルド・ヒメネスなどの投手はスプリットの握りでチェンジアップを投げる、「スプリット・チェンジ」を投げるようになった[67][68][69][70]。
2008年にビデオ判定が導入され、2014年からはその範囲が拡大されチャレンジ方式が採用された[71][72][73]。
ギャラップ調査によれば「一番見るのが好きなスポーツ」は1960年代半ばにアメフトが野球に代わってトップに立った。以後その差は開くばかりで、2017年の調査ではアメフトが37%、野球は9%と4倍以上の差になっており[74]、MLB人気がマイナー化したことがうかがえる。
注釈
- ^ 残りの3つはアメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケー。
- ^ ナショナル・アソシエーションについては、1951年に発刊された公式のベースボール・エンサイクロペディアで「メジャーリーグ」として扱われていたが、この年の裁定により除外された経緯がある。
- ^ アフリカ系アメリカ人による野球リーグ機構はこの期間複数存在し、「ニグロリーグ」はそれらの総称である。詳細はニグロリーグの項目を参照。
- ^ ただしスカイドームはグラウンドは引き続き人工芝であった。屋根付きでの天然芝球場は1998年開場のバンクワン・ボールパークが最初となる。
- ^ ニューヨーク・ヤンキースならニューヨーク・メッツ、ロサンゼルス・ドジャースならロサンゼルス・エンゼルスといったように別リーグ同地区で地理的に近いチームとなっている。ただしリーグ構成の関係上シアトル・マリナーズとサンディエゴ・パドレスのような組み合わせもある。
- ^ 2014年までは、8月31日時点で当該チームの25人枠に入っていないとポストシーズンには原則出場できなかった(故障者リスト入り選手発生時には40人枠の選手が代替出場可能)が、2015年から本文記載の規定に変更された。
- ^ 最長では51連戦という記録がある。
- ^ 2012年時点で所属する球団都市は太平洋標準時(PST、UTC-8)・山岳部標準時(MST、UTC-7)・中部標準時(CST、UTC-6)・東部標準時(EST、UTC-5)のいずれかに属する。
- ^ 球場から貸切バスでそのまま空港構内に入場し、専用機(チャーター機)に横付けして金属探知を受けて飛行機に乗り込む。目的地ではやはり空港内にバスが横付けされている。空港は混雑の少ないサブ空港や果てはNASAの施設を使うことすらある。参照:「パ・リーグの遠征は厳しい」は本当か ポストゲームショー(田口壮)、日本経済新聞サイト、2015年7月12日
- ^ 1995年から1997年はワイルドカードのチームが同地区の地区優勝チームと対戦しないのは同じであるが、ワイルドカードとリーグ勝率3位のチーム、勝率1位チームと勝率2位チームの組み合わせで行われることもあった。
- ^ 1992年より「MLBの最高諮問会議のチェアマン」との位置づけであったが、MLBの実質的最高責任者だった。1998年7月9日に正式に第9代コミッショナーに就任した。
- ^ 2007年10月、TBSが運営していたアトランタのローカル局・WTBSが「PeachtreeTV」に改称、TBSとのサイマル放送を中止。2008年よりブレーブス戦は同局で放送。日本のTBSテレビとは無関係。
- ^ 2007年シーズンはアトランタ・ブレーブス戦を放送していたため、2008年シーズンより適用。
- ^ そのため、日本テレビ系列のニュース・情報番組でMLB関連の話題を報じる際は現地の新聞社や通信社などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた。
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