マルセル・プルースト
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略年譜
1871年 |
7月10日、パリ16区オートゥイユのラフォンテーヌ街96番地(母方の叔父の別荘)にて、フランス人医師の父・アドリヤン(37歳)と、ユダヤ人の母・ジャンヌ(22歳)の長男として誕生。一家は新興住宅街のパリ8区のロワ街8番地のアパルトマンに居住。マルセルは病弱で成長も危ぶまれるほどであった。 |
1873年 | 1 - 2歳。5月24日、弟ロベールが誕生。一家はロワ街8番地からマルゼルブ通り9番地に転居。弟はマルセルとは対照的に健康に育つ。マルセルの幼少期、一家は復活祭の時期にしばしばイリエ(父の出身地)やオートゥイユを訪れる。 |
1878年 | 6- 7歳。イリエでバカンスを過ごす。 |
1881年 | 9 - 10歳。4月か5月頃、ブローニュの森を散策後に突然喘息の発作を起こす。これが生涯の持病となる。パープ・カルパンチエ初等学校に級友のジャック・ビゼー(劇作家ジョルジュ・ビゼーの息子)らと共に通う。 |
1882年 | 10 - 11歳。フォンターヌ高等中学校(のちのコンドルセ高等中学校)に入学。親しい学友らにはユダヤ人あるいはユダヤ人ハーフが多くいた。マルセルは病気がちで欠席が多かった。 |
1886年 | 14 - 15歳。6月、両親とイリエに滞在。オーギュスタン・ティエリの著書を没頭して読む。伯母エリザベートが死去。 |
1887年 | 15 - 16歳。コンドルセ高等中学校の修辞学級に進級。しばしば放課後、学友たちとシャンゼリゼ公園で遊び、少女たちと知り合う。その中のポーランド貴族の娘マリー・ド・ベナルダキに強い愛情を抱く。 |
1888年 | 16 - 17歳。哲学級に入り、アルフォンス・ダルリュ教授に影響を受ける。友人らと同人誌『緑色評論』『リラ評論』『月曜評論』『第二学年評論』を創刊。級友のジャック・ビゼー、ダニエル・アレヴィ(劇作家リュドヴィク・アレヴィの息子)に同性愛的思慕を抱く。社交界にも関心を寄せ、ジャック・ビゼーの母親ストロース夫人(ビゼーの死後に銀行家ストロースと再婚)のサロンに出入り始める。ドゥミ・モンド(半社交界)と称される高級娼婦ロール・エーマン(大伯父ジョルジュ・ヴェイユの囲い者)と交友するようになる。のちにストロース夫人のサロンでシャルル・アースを知る。 |
1889年 | 17 - 18歳。哲学級を修了し、大学入学資格(バカロレア)を取得。11月、1年兵役の恩典を受けるため志願兵としてオルレアンの軍隊に入隊。毎日曜日には、アルマン・カイヤヴェ夫人(作家アナトール・フランスの愛人)のサロンに通い、アナトール・フランスと知り合う。 |
1890年 | 18 - 19歳。祖母アデル・ヴェーユが死去。11月に兵役を終え、パリ大学法学部と自由政治学院に入学。この頃から翌年まで雑誌『マルシュエル』に寄稿。 |
1891年 | 19 - 20歳。マチルド皇妃(ナポレオンの姪)と知り合いサロンに出入りする。カブール、トルヴィルに滞在。この年にオスカー・ワイルドと会った可能性もある。 |
1892年 | 20 - 21歳。春頃、シュヴィニェ伯爵夫人にプラトニックな愛情を寄せる。元学友たちと雑誌『饗宴』を創刊し、書評や習作、短篇小説などを発表。9月、熱愛した美貌の青年エドガール・オーベール(スイス人の新教徒)が急死。 |
1893年 | 21 - 22歳。女流画家 マドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、春頃にロベール・ド・モンテスキューと知り合う。雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に度々寄稿。その1篇「夕暮れのひととき」でレズビアンを描く。10月、ウィリー・ヒースがチフスで急逝。法学士号試験に合格。 |
1894年 | 22 - 23歳。マドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、レイナルド・アーンと知り合い親交を結ぶ。8月、ルメール夫人の招きで、アーンと共にレヴェイヨンの城に滞在。アルフォンス・ドーデとも出会い、その次男リュシアン・ドーデと知り合う。 |
1895年 | 23 - 24歳。3月、文学士号試験に合格。6月、マザリーヌ図書館で無給司書となるが、直ぐに休暇を取る(その後も毎年休暇を更新し一度も仕事をせず)。8-9月、アーンと共に、ディエップのルメール夫人宅に滞在後、ブルターニュ旅行しベグメーユに滞在。そこで自伝小説『ジャン・サントゥイユ』の執筆を始める(1900年頃に断念)。 |
1896年 | 24 - 25歳。中篇小説「つれない男」(1893年執筆)を発表。6月、最初の著書『楽しみと日々』を刊行。リュシアン・ドーデとの親交を深める。マリー・ノードリンガー(レイナルド・アーンの従妹)と知り合う。7月、雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に「晦渋性を駁す」を発表。 |
1897年 | 25 - 26歳。2月、『楽しみと日々』をめぐってプルーストとリュシアン・ドーデの同性愛的関係を当て擦ったポール・デュヴァル(ジャン・ロラン)とムードンの森で決闘。ピストルの弾丸が逸れたため両人とも無事に済んだ。 |
1898年 | 26 - 27歳。「ドレフュス事件」の進展により、ユダヤ人大尉アルフレド・ドレフュス支持派として友人らと共に活動。ドレフュスとジョルジュ・ピカール大佐の擁護署名をアナトール・フランスから貰う。ドレフュス擁護の『私は弾劾する』を発表して提訴されたエミール・ゾラの裁判を傍聴。6-9月、母ジャンヌの癌手術で心労。退院した母とトルヴィルに行く。10月、最初のオランダ旅行をし、アムステルダムでレンブラント展を観る。 |
1899年 | 27 - 28歳。ロベール・ド・ビイからエミール・マールの『フランス十三世紀の宗教芸術』を借りて読む。8-9月、両親と共にエヴィアンに滞在し、コンスタンタン・ド・ブランコヴァン(ルーマニアの大公の息子で、ノアイユ伯爵夫人の兄)と交遊。ルーマニア貴族のアントワーヌ・ビベスコ(母エレーヌはノアイユ伯爵夫人の従姉妹)と知り合い親交を結ぶ。イギリスの思想家ジョン・ラスキンの著作を耽読。 |
1900年 | 28 - 29歳。ルアンを訪問。1月、ジョン・ラスキンが死去。ラスキンの追悼記事、評論研究などを発表。マリー・ノードリンガーや母の協力でラスキンの翻訳に着手。ラスキンの著書を元に教会建築を巡る。5月、母と共にヴェネツィアに滞在し、10月に再訪。一家はクールセル街45番地に転居。 |
1901年 | 29 - 30歳。ラスキンの翻訳作業に没頭し各地の教会を訪ねる。レオン・イートマンと共にアミアンを訪問。アントワーヌ・ビベスコの紹介でベルドラン・ド・フェヌロンと知り合い、強い愛情を抱く。 |
1902年 | 30 - 31歳。ビベスコとフェヌロンと共に『トリスタンとイゾルデ』を聴く。10月、フェヌロンと共にベルギー、オランダに旅行。デン・ハーグのハーグ美術館でフェルメールの『デルフトの眺望』を観る。エミール・ガレに会い、友人フェルナン・グレーグの結婚祝い品の注文をする。 |
1903年 | 31 - 32歳。弟ロベールがマルト・デュボワ=アミヨと結婚。姪シュジー誕生。ローリス、ビベスコ兄弟らとラン、サンリスなどを自動車旅行。11月26日、父アドリヤンが脳出血で死去し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。この年から『ル・フィガロ』紙に寄稿。 |
1904年 | 32 - 33歳。墓地に飾る父の胸像メダルをマリー・ノードリンガーに注文。3月、ラスキン著『アミヤンの聖書』の翻訳を刊行。知人のヨットに乗船し、ノルマンディー、ブルターニュの海岸地方を航行。8月、「大聖堂の死」を発表し、政教分離に反対する。 |
1905年 | 33 - 34歳。ホイッスラーの展覧会を観る。6月、「読書について」を発表。9月、母と共にエヴィアンに行くが、母が尿毒症を起しパリに帰る。9月26日、母が死去し悲嘆に暮れる。12月から翌1月まで、ブローニュ付近のソリエ医師のサナトリウムに療養入院する。 |
1906年 | 34 - 35歳。5月、ラスキン著『胡麻と百合』の翻訳を刊行。8月、クールセル街の住居を去り、ヴェルサイユのホテルのレゼルヴォワールに長期滞在。12月、オスマン大通り102番地に転居。 |
1907年 | 35 - 36歳。2月、『ル・フィガロ』紙に「ある親殺しの感情」を発表。8-9月、カブールに滞在し、教会を観て廻るための自動車を雇い、運転手のアルフレッド・アゴスチネリと出会う。カブールには1914年まで毎夏滞在する。11月、「自動車旅行の印象」を発表。 |
1908年 | 36 - 37歳。2月から、バルザック、ミシュレ、ゴンクール兄弟、フローベールらのパスティッシュ(文体模写)の連作「ルモワーヌ事件」を発表。この時期から、「サント・ブーヴに反論する――ある朝の思い出」(仮題)の草稿断章を執筆。 |
1909年 | 37 - 38歳。ロシア・バレエ団の公演を観る。「サント・ブーヴに反論する」が次第に小説に変化し執筆を続ける。11月頃、作品冒頭200頁をレイナルド・アーンに朗読して聞かせる。 |
1910年 | 38 - 39歳。オスマン大通りの住居に閉じこもり、昼夜逆転で執筆に没頭。部屋をコルク張りにして外部の騒音を遮断する。6月、オペラ座で「バレエ・リュス」を観る。この頃、ジャン・コクトーと知り合う。 |
1911年 | 39 - 40歳。2月、『ペレアスとメリザンド』全曲を聴く。秘書アルベール・ナミアスに口述筆記で作品を清書させる。 |
1912年 | 40 - 41歳。オディロン・アルバレの運転する車でリュエイユまで満開のリンゴの花を見に行く。『ル・フィガロ』紙に作品の断章を3度にわたって発表。この時期は「失われた時」「見出された時」という各巻名や、「心の間歇」という総題も念頭にある。10月、出版社を求めて奔走し刊行依頼するが、ファスケル社や『新フランス評論』(NRF)のガリマール社から拒否される。 |
1913年 | 41 - 42歳。オランドルフ社にも出版拒否され、3月にグラッセ社と自費出版の契約を結ぶ。11月14日、『失われた時を求めて』の第1篇『スワン家のほうへ』が刊行(この時点では全3巻予定)。この年、アルフレッド・アゴスチネリが愛人アンナと共に職を求めて訪ねて来たが、運転手は足りていたため住み込みの秘書として雇う。また、運転手のオディロン・アルバレと結婚したセレスト・アンバレ[68]を住み込み家政婦として雇う。アゴスチネリはプルーストに金銭を使わせた挙句、12月にアンナと一緒にニースに逃亡。アゴスチネリを呼び戻すため、秘書アルベール・ナミアスを派遣する。 |
1914年 | 42 - 43歳。NRFのアンドレ・ジッドから出版拒否したことへの謝罪の手紙が来る。5月30日、アゴスチネリが飛行機パイロットの訓練中にアンティーブ沖で墜落し事故死。プルーストは悲嘆に暮れる。第一次世界大戦のため出版中断。 |
1915年 | 43 - 44歳。『失われた時を求めて』の執筆を続ける。弟ロベールは前線の病院勤務。ベルドラン・ド・フェヌロンが戦死。他の友人らにも戦死者が出る。 |
1916年 | 44 - 45歳。作品が大幅加筆で膨張する。出版社をガリマール社に変更する決意をする。知人アルベール・ル・キュジヤが始めた男娼窟に出入りする。 |
1917年 | 45 - 46歳。しばしばホテル・リッツで夕食を摂り、ポール・モランとその婚約者スーゾ公女に会う。10月、ガリマール社から最初の校正刷が届く。 |
1918年 | 46 - 47歳。さらに作品が膨張し、4月には全5巻の予定となる。この頃、健康が特に衰え、発話障害と一時的な顔面麻痺に襲われながら完成を急ぐ。ホテル・リッツのボーイだったアンリ・ロシャを秘書として雇う。11月、第一次世界大戦が終結。 |
1919年 | 47 - 48歳。5月、住居をオスマン通りからロラン・ピシャ街8番地2のレジャーヌ夫人方に転居。6月、第2篇『花咲く乙女たちのかげに』が刊行。ゴンクール賞を受賞。『模作と雑録』も刊行。10月、アムラン街44番地に転居。 |
1920年 | 48 - 49歳。1月、「フローベールの〈文体〉について」を発表。10月、第3篇『ゲルマントのほう I』が刊行。喘息の激しい発作を起こし、医師は初めてモルヒネを注射する。ブルメンタール賞の選考委員に選出され、ジャック・リヴィエールに賞を授与。11月、「ある友に――文体についての覚え書」を発表。ヴェロナールとアヘンの大量摂取で中毒を起こす。 |
1921年 | 49 - 50歳。病状が進む。4月、ジャン=ルイ・ボドワイエと共にジュ・ド・ポーム美術館のオランダ派絵画展に行き、フェルメールの『デルフトの眺望』を観る。5月、第3篇『ゲルマントのほう II』と第4篇『ソドムとゴモラ I』が刊行。ジッドからジッドが匿名で書いた『コリドン』を受け取り、性倒錯について話し合う。6月、「ボードレールについて」を発表。9月、病状が悪化し部屋で昏倒する。 |
1922年 | 50 - 51歳。5月、第4篇『ソドムとゴモラ II』が刊行。9月、スコット・モンクリフ英訳の『失われた時を求めて』第1巻が刊行(未完)。9月、喘息の大きな発作。10月、気管支炎を起して衰弱が激しくなる。医師らの治療を拒み、風邪から肺炎を併発して11月18日の午後4時過ぎに死去。両親と同じペール・ラシェーズ墓地に埋葬される。 |
1923年 | 弟ロベール、ジャック・リヴィエール(新フランス評論の編集長)らが遺稿を整理して、第5篇『囚われの女』を刊行。 |
1924年 | 第6篇『消え去ったアルベルチーヌ』が刊行。 |
1927年 | 第7篇『見出された時』が刊行され、『失われた時を求めて』の出版が完了。 |
1954年 | 『サント・ブーヴに反論する』が出版。 |
注釈
出典
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- ^ チリエ 2002, p. 321
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- ^ チリエ 2002, p. 325
- ^ 回想記に、セレスト・アルバレ『ムッシュー・プルースト』三輪秀彦訳(早川書房、1977年)がある
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