マルセル・プルースト 略年譜

マルセル・プルースト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 13:00 UTC 版)

略年譜

1871年
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7月10日、パリ16区オートゥイユのラフォンテーヌ街96番地(母方の叔父の別荘)にて、フランス人医師の父・アドリヤンフランス語版(37歳)と、ユダヤ人の母・ジャンヌフランス語版(22歳)の長男として誕生。一家は新興住宅街のパリ8区のロワ街8番地のアパルトマンに居住。マルセルは病弱で成長も危ぶまれるほどであった。
1873年 1 - 2歳。5月24日、弟ロベールフランス語版が誕生。一家はロワ街8番地からマルゼルブ通り9番地に転居。弟はマルセルとは対照的に健康に育つ。マルセルの幼少期、一家は復活祭の時期にしばしばイリエ(父の出身地)やオートゥイユを訪れる。
1878年 6- 7歳。イリエでバカンスを過ごす。
1881年 9 - 10歳。4月か5月頃、ブローニュの森を散策後に突然喘息の発作を起こす。これが生涯の持病となる。パープ・カルパンチエ初等学校に級友のジャック・ビゼー劇作家ジョルジュ・ビゼーの息子)らと共に通う。
1882年 10 - 11歳。フォンターヌ高等中学校(のちのコンドルセ高等中学校)に入学。親しい学友らにはユダヤ人あるいはユダヤ人ハーフが多くいた。マルセルは病気がちで欠席が多かった。
1886年 14 - 15歳。6月、両親とイリエに滞在。オーギュスタン・ティエリの著書を没頭して読む。伯母エリザベートが死去。
1887年 15 - 16歳。コンドルセ高等中学校の修辞学級に進級。しばしば放課後、学友たちとシャンゼリゼ公園で遊び、少女たちと知り合う。その中のポーランド貴族の娘マリー・ド・ベナルダキフランス語版に強い愛情を抱く。
1888年 16 - 17歳。哲学級に入り、アルフォンス・ダルリュ教授に影響を受ける。友人らと同人誌『緑色評論』『リラ評論』『月曜評論』『第二学年評論』を創刊。級友のジャック・ビゼー、ダニエル・アレヴィ劇作家リュドヴィク・アレヴィの息子)に同性愛的思慕を抱く。社交界にも関心を寄せ、ジャック・ビゼーの母親ストロース夫人フランス語版ビゼーの死後に銀行家ストロースと再婚)のサロンに出入り始める。ドゥミ・モンド(半社交界)と称される高級娼婦ロール・エーマン(大伯父ジョルジュ・ヴェイユの囲い者)と交友するようになる。のちにストロース夫人のサロンでシャルル・アースフランス語版を知る。
1889年 17 - 18歳。哲学級を修了し、大学入学資格(バカロレア)を取得。11月、1年兵役の恩典を受けるため志願兵としてオルレアンの軍隊に入隊。毎日曜日には、アルマン・カイヤヴェ夫人フランス語版(作家アナトール・フランスの愛人)のサロンに通い、アナトール・フランスと知り合う。
1890年 18 - 19歳。祖母アデル・ヴェーユが死去。11月に兵役を終え、パリ大学法学部と自由政治学院に入学。この頃から翌年まで雑誌『マルシュエル』に寄稿。
1891年 19 - 20歳。マチルド皇妃ナポレオンの姪)と知り合いサロンに出入りする。カブールトルヴィルに滞在。この年にオスカー・ワイルドと会った可能性もある。
1892年 20 - 21歳。春頃、シュヴィニェ伯爵夫人にプラトニックな愛情を寄せる。元学友たちと雑誌『饗宴フランス語版』を創刊し、書評や習作、短篇小説などを発表。9月、熱愛した美貌の青年エドガール・オーベール(スイス人新教徒)が急死。
1893年 21 - 22歳。女流画家 マドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、春頃にロベール・ド・モンテスキューと知り合う。雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に度々寄稿。その1篇「夕暮れのひととき」でレズビアンを描く。10月、ウィリー・ヒースがチフスで急逝。法学士号試験に合格。
1894年 22 - 23歳。マドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、レイナルド・アーンと知り合い親交を結ぶ。8月、ルメール夫人の招きで、アーンと共にレヴェイヨンの城に滞在。アルフォンス・ドーデとも出会い、その次男リュシアン・ドーデフランス語版と知り合う。
1895年 23 - 24歳。3月、文学士号試験に合格。6月、マザリーヌ図書館で無給司書となるが、直ぐに休暇を取る(その後も毎年休暇を更新し一度も仕事をせず)。8-9月、アーンと共に、ディエップのルメール夫人宅に滞在後、ブルターニュ旅行しベグメーユに滞在。そこで自伝小説『ジャン・サントゥイユ』の執筆を始める(1900年頃に断念)。
1896年 24 - 25歳。中篇小説「つれない男」(1893年執筆)を発表。6月、最初の著書『楽しみと日々』を刊行。リュシアン・ドーデとの親交を深める。マリー・ノードリンガー(レイナルド・アーンの従妹)と知り合う。7月、雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に「晦渋性を駁す」を発表。
1897年 25 - 26歳。2月、『楽しみと日々』をめぐってプルーストとリュシアン・ドーデの同性愛的関係を当て擦ったポール・デュヴァル(ジャン・ロランフランス語版)とムードンの森で決闘。ピストルの弾丸が逸れたため両人とも無事に済んだ。
1898年 26 - 27歳。「ドレフュス事件」の進展により、ユダヤ人大尉アルフレド・ドレフュス支持派として友人らと共に活動。ドレフュスとジョルジュ・ピカール大佐フランス語版の擁護署名をアナトール・フランスから貰う。ドレフュス擁護の『私は弾劾する』を発表して提訴されたエミール・ゾラの裁判を傍聴。6-9月、母ジャンヌの手術で心労。退院した母とトルヴィルに行く。10月、最初のオランダ旅行をし、アムステルダムレンブラント展を観る。
1899年 27 - 28歳。ロベール・ド・ビイからエミール・マールの『フランス十三世紀の宗教芸術』を借りて読む。8-9月、両親と共にエヴィアンに滞在し、コンスタンタン・ド・ブランコヴァン(ルーマニアの大公の息子で、ノアイユ伯爵夫人の兄)と交遊。ルーマニア貴族のアントワーヌ・ビベスコフランス語版(母エレーヌはノアイユ伯爵夫人の従姉妹)と知り合い親交を結ぶ。イギリスの思想家ジョン・ラスキンの著作を耽読。
1900年 28 - 29歳。ルアンを訪問。1月、ジョン・ラスキンが死去。ラスキンの追悼記事、評論研究などを発表。マリー・ノードリンガーや母の協力でラスキンの翻訳に着手。ラスキンの著書を元に教会建築を巡る。5月、母と共にヴェネツィアに滞在し、10月に再訪。一家はクールセル街45番地に転居。
1901年 29 - 30歳。ラスキンの翻訳作業に没頭し各地の教会を訪ねる。レオン・イートマンと共にアミアンを訪問。アントワーヌ・ビベスコの紹介でベルドラン・ド・フェヌロンフランス語版と知り合い、強い愛情を抱く。
1902年 30 - 31歳。ビベスコとフェヌロンと共に『トリスタンとイゾルデ』を聴く。10月、フェヌロンと共にベルギー、オランダに旅行。デン・ハーグのハーグ美術館でフェルメールの『デルフトの眺望』を観る。エミール・ガレに会い、友人フェルナン・グレーグフランス語版の結婚祝い品の注文をする。
1903年 31 - 32歳。弟ロベールがマルト・デュボワ=アミヨと結婚。姪シュジー誕生。ローリス、ビベスコ兄弟らとランサンリスなどを自動車旅行。11月26日、父アドリヤンが脳出血で死去し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。この年から『ル・フィガロ』紙に寄稿。
1904年 32 - 33歳。墓地に飾る父の胸像メダルをマリー・ノードリンガーに注文。3月、ラスキン著『アミヤンの聖書』の翻訳を刊行。知人のヨットに乗船し、ノルマンディー、ブルターニュの海岸地方を航行。8月、「大聖堂の死」を発表し、政教分離に反対する。
1905年 33 - 34歳。ホイッスラーの展覧会を観る。6月、「読書について」を発表。9月、母と共にエヴィアンに行くが、母が尿毒症を起しパリに帰る。9月26日、母が死去し悲嘆に暮れる。12月から翌1月まで、ブローニュ付近のソリエ医師のサナトリウムに療養入院する。
1906年 34 - 35歳。5月、ラスキン著『胡麻と百合』の翻訳を刊行。8月、クールセル街の住居を去り、ヴェルサイユのホテルのレゼルヴォワールに長期滞在。12月、オスマン大通り102番地に転居。
1907年 35 - 36歳。2月、『ル・フィガロ』紙に「ある親殺しの感情」を発表。8-9月、カブールに滞在し、教会を観て廻るための自動車を雇い、運転手のアルフレッド・アゴスチネリフランス語版と出会う。カブールには1914年まで毎夏滞在する。11月、「自動車旅行の印象」を発表。
1908年 36 - 37歳。2月から、バルザックミシュレゴンクール兄弟フローベールらのパスティッシュ(文体模写)の連作「ルモワーヌ事件」を発表。この時期から、「サント・ブーヴに反論する――ある朝の思い出」(仮題)の草稿断章を執筆。
1909年 37 - 38歳。ロシア・バレエ団の公演を観る。「サント・ブーヴに反論する」が次第に小説に変化し執筆を続ける。11月頃、作品冒頭200頁をレイナルド・アーンに朗読して聞かせる。
1910年 38 - 39歳。オスマン大通りの住居に閉じこもり、昼夜逆転で執筆に没頭。部屋をコルク張りにして外部の騒音を遮断する。6月、オペラ座で「バレエ・リュス」を観る。この頃、ジャン・コクトーと知り合う。
1911年 39 - 40歳。2月、『ペレアスとメリザンド』全曲を聴く。秘書アルベール・ナミアスに口述筆記で作品を清書させる。
1912年 40 - 41歳。オディロン・アルバレの運転する車でリュエイユまで満開のリンゴの花を見に行く。『ル・フィガロ』紙に作品の断章を3度にわたって発表。この時期は「失われた時」「見出された時」という各巻名や、「心の間歇」という総題も念頭にある。10月、出版社を求めて奔走し刊行依頼するが、ファスケル社や『新フランス評論』(NRF)のガリマール社から拒否される。
1913年 41 - 42歳。オランドルフ社にも出版拒否され、3月にグラッセ社と自費出版の契約を結ぶ。11月14日、『失われた時を求めて』の第1篇『スワン家のほうへ』が刊行(この時点では全3巻予定)。この年、アルフレッド・アゴスチネリが愛人アンナと共に職を求めて訪ねて来たが、運転手は足りていたため住み込みの秘書として雇う。また、運転手のオディロン・アルバレと結婚したセレスト・アンバレフランス語版[68]を住み込み家政婦として雇う。アゴスチネリはプルーストに金銭を使わせた挙句、12月にアンナと一緒にニースに逃亡。アゴスチネリを呼び戻すため、秘書アルベール・ナミアスを派遣する。
1914年 42 - 43歳。NRFのアンドレ・ジッドから出版拒否したことへの謝罪の手紙が来る。5月30日、アゴスチネリが飛行機パイロットの訓練中にアンティーブ沖で墜落し事故死。プルーストは悲嘆に暮れる。第一次世界大戦のため出版中断。
1915年 43 - 44歳。『失われた時を求めて』の執筆を続ける。弟ロベールは前線の病院勤務。ベルドラン・ド・フェヌロンが戦死。他の友人らにも戦死者が出る。
1916年 44 - 45歳。作品が大幅加筆で膨張する。出版社をガリマール社に変更する決意をする。知人アルベール・ル・キュジヤが始めた男娼窟に出入りする。
1917年 45 - 46歳。しばしばホテル・リッツで夕食を摂り、ポール・モランとその婚約者スーゾ公女に会う。10月、ガリマール社から最初の校正刷が届く。
1918年 46 - 47歳。さらに作品が膨張し、4月には全5巻の予定となる。この頃、健康が特に衰え、発話障害と一時的な顔面麻痺に襲われながら完成を急ぐ。ホテル・リッツのボーイだったアンリ・ロシャを秘書として雇う。11月、第一次世界大戦が終結。
1919年 47 - 48歳。5月、住居をオスマン通りからロラン・ピシャ街8番地2のレジャーヌ夫人方に転居。6月、第2篇『花咲く乙女たちのかげに』が刊行。ゴンクール賞を受賞。『模作と雑録』も刊行。10月、アムラン街44番地に転居。
1920年 48 - 49歳。1月、「フローベールの〈文体〉について」を発表。10月、第3篇『ゲルマントのほう I』が刊行。喘息の激しい発作を起こし、医師は初めてモルヒネを注射する。ブルメンタール賞の選考委員に選出され、ジャック・リヴィエールに賞を授与。11月、「ある友に――文体についての覚え書」を発表。ヴェロナールアヘンの大量摂取で中毒を起こす。
1921年 49 - 50歳。病状が進む。4月、ジャン=ルイ・ボドワイエと共にジュ・ド・ポーム美術館のオランダ派絵画展に行き、フェルメールの『デルフトの眺望』を観る。5月、第3篇『ゲルマントのほう II』と第4篇『ソドムとゴモラ I』が刊行。ジッドからジッドが匿名で書いた『コリドン』を受け取り、性倒錯について話し合う。6月、「ボードレールについて」を発表。9月、病状が悪化し部屋で昏倒する。
1922年 50 - 51歳。5月、第4篇『ソドムとゴモラ II』が刊行。9月、スコット・モンクリフ英訳の『失われた時を求めて』第1巻が刊行(未完)。9月、喘息の大きな発作。10月、気管支炎を起して衰弱が激しくなる。医師らの治療を拒み、風邪から肺炎を併発して11月18日の午後4時過ぎに死去。両親と同じペール・ラシェーズ墓地に埋葬される。
1923年 弟ロベール、ジャック・リヴィエール新フランス評論の編集長)らが遺稿を整理して、第5篇『囚われの女』を刊行。
1924年 第6篇『消え去ったアルベルチーヌ』が刊行。
1927年 第7篇『見出された時』が刊行され、『失われた時を求めて』の出版が完了。
1954年 『サント・ブーヴに反論する』が出版。

注釈

  1. ^ 年代的にプルーストと同時代人の日本の作家は、明治大正時代期の森鷗外夏目漱石となる[1][4]
  2. ^ セーヌ河の左岸(南側)には、ソルボンヌの学生街を中心とする革新的な気風であった[18]
  3. ^ マリー・ノードリンガーは、プルーストに日本の水中花を贈った人物でもある[28]。日本の水中花は『失われた時を求めて』の第1篇で主人公がマドレーヌの味覚から過去の記憶が鮮やかに蘇る描写において比喩に使われている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 「第一章 プルーストの位置」(鈴木 2002, pp. 17–34)
  2. ^ 「はしがき」(石木 1997, pp. 3–6)
  3. ^ 「はじめに」(鈴木ラジオ 2009, pp. 3–5)
  4. ^ a b c d e f g 「第一回 プルーストの生涯と小説史における位置」(鈴木ラジオ 2009, pp. 11–21)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「年譜」(鈴木 2002, pp. 235–247)
  6. ^ 「第二部 プルーストの作品と思想 第二章『失われた時を求めて』 おわりに」( 石木 1997, pp. 187–191)
  7. ^ a b c 「第二部 プルーストの作品と思想 第二章『失われた時を求めて』 三 作品研究――その一」( 石木 1997, pp. 139–157)
  8. ^ a b c 「第二回 『コンブレ―』に始まる文学発見の物語」(鈴木ラジオ 2009, pp. 22–35)
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「第一章 プルーストの生涯 第一章 幼年時代 一 両親の家系とその生活環境」(石木 1997, pp. 15–20)
  10. ^ a b c 「プルースト年譜」( 石木 1997, pp. 197–203)
  11. ^ a b c d 「口絵写真」(鈴木ラジオ 2009
  12. ^ チリエ 2002, pp. 178–179
  13. ^ チリエ 2002, p. 31
  14. ^ ホワイト 2002, p. 17
  15. ^ a b c d 「第二章 虚構の自伝」(鈴木 2002, pp. 35–50)
  16. ^ a b c 「第一章 プルーストの生涯 第一章 幼年時代 二 《黄金の幼年期》と喘息の発病」(石木 1997, pp. 20–24)
  17. ^ a b c d e 「第一章 プルーストの生涯 第二章 リセ時代 二 文学の世界に」(石木 1997, pp. 31–33)
  18. ^ a b c d e f g h 「第一章 プルーストの生涯 第二章 リセ時代 一 さまざまな出会い」(石木 1997, pp. 25–31)
  19. ^ ホワイト 2002, pp. 46–47
  20. ^ ホワイト 2002, pp. 28–30
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「第一章 プルーストの生涯 第三章 青年時代 二 社交界と彼をめぐる人間模様」(石木 1997, pp. 38–54)
  22. ^ a b c d e f 「第一章 プルーストの生涯 第三章 青年時代 一 職業への模索」(石木 1997, pp. 34–37)
  23. ^ チリエ 2002, pp. 101–102
  24. ^ ホワイト 2002, pp. 44, 49
  25. ^ チリエ 2002, pp. 118–121
  26. ^ a b c d e f g 「第二部 プルーストの作品と思想 第一章 初期の作品 一『楽しみと日々』」(石木 1997, pp. 91–95)
  27. ^ a b c 「第二部 プルーストの作品と思想 第一章 初期の作品 二『ジャン・サントゥイユ』」(石木 1997, pp. 96–102)
  28. ^ a b c d e 「第一章 プルーストの生涯 第三章 青年時代 三 ラスキンへの傾倒」(石木 1997, pp. 54–60)
  29. ^ a b c d e 「第二部 プルーストの作品と思想 第一章 初期の作品 三 ラスキンの翻訳」(石木 1997, pp. 102–106)
  30. ^ a b c 「第一章 プルーストの生涯 第三章 青年時代 四 母親の死がもたらしたもの」(石木 1997, pp. 60–63)
  31. ^ a b c d e f g h i 「第一章 プルーストの生涯 第四章 創作の時代 一 本格的な創作活動へ」(石木 1997, pp. 64–74)
  32. ^ a b c d e f 「第五回 『花咲く乙女たち』とエルスチール」(鈴木ラジオ 2009, pp. 62–74)
  33. ^ a b c d e f g h i j k l 「第二部 プルーストの作品と思想 第二章『失われた時を求めて』 二 作品の生い立ち」( 石木 1997, pp. 124–139)
  34. ^ a b c 「第九章 アルベルチーヌまたは不可能な愛」(鈴木 2002, pp. 175–194)
  35. ^ a b c d e f g h 「第一章 プルーストの生涯 第四章 創作の時代 二 文壇への足がかりを築く」(石木 1997, pp. 74–82)
  36. ^ a b c d e f g 「第一章 プルーストの生涯 第四章 創作の時代 三 栄光と死」(石木 1997, pp. 82–88)
  37. ^ チリエ 2002, pp. 24–25
  38. ^ ホワイト 2002, p. 101
  39. ^ チリエ 2002, pp. 20–22
  40. ^ チリエ 2002, pp. 135–138
  41. ^ チリエ 2002, pp. 138–140
  42. ^ チリエ 2002, pp. 163–164
  43. ^ チリエ 2002, pp. 278–279
  44. ^ チリエ 2002, pp. 280–284
  45. ^ チリエ 2002, pp. 284–286
  46. ^ チリエ 2002, pp. 286–287
  47. ^ 「第五章 フォーブール・サン=ジェルマン」(鈴木 2002, pp. 77–102)
  48. ^ 「第六回 『ゲルマントの方』と空しい才気」(鈴木ラジオ 2009, pp. 75–88)
  49. ^ ホワイト 2002, p. 49
  50. ^ 「第三回 スワンの恋とスノビズム」(鈴木ラジオ 2009, pp. 36–48)
  51. ^ チリエ 2002, p. 201
  52. ^ チリエ 2002, pp. 201–202
  53. ^ チリエ 2002, p. 206
  54. ^ 「第九回 ユダヤ人の肖像」(鈴木ラジオ 2009, pp. 117–131)
  55. ^ a b ホワイト 2002, pp. 9–10
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  57. ^ チリエ 2002, pp. 208–209
  58. ^ チリエ 2002, p. 212
  59. ^ ホワイト 2002, p. 84
  60. ^ a b c 「第二部 プルーストの作品と思想 第一章 初期の作品 四 パスティッシュ(模作)」(石木 1997, pp. 106–114)
  61. ^ チリエ 2002, pp. 215–216
  62. ^ 「第一章 序曲『不眠の夜』」(吉川 2004, pp. 1–36)
  63. ^ 「第二部 プルーストの作品と思想 第二章『失われた時を求めて』 一 梗概」(石木 1997, pp. 115–124)
  64. ^ チリエ 2002, p. 321
  65. ^ チリエ 2002, pp. 320–321
  66. ^ チリエ 2002, p. 323
  67. ^ チリエ 2002, p. 325
  68. ^ 回想記に、セレスト・アルバレ『ムッシュー・プルースト』三輪秀彦訳(早川書房、1977年)がある






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