マルセル・プルースト マルセル・プルーストの概要

マルセル・プルースト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/05 04:27 UTC 版)

マルセル・プルースト
Marcel Proust
Marcel Proust 1900.jpg
プルースト、1900年
誕生 1871年7月10日
フランスの旗 フランスパリ
死没 1922年11月18日(満51歳没)
フランスの旗 フランスパリ
職業 小説家批評家エッセイスト
国籍 フランスの旗 フランス
代表作 失われた時を求めて
サイン Marcel Proust signature.svg
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『失われた時を求めて』はプルースト自身の分身である語り手の精神史に重ね合わせながらベル・エポックの世相をパノラマ的に描いた大作であり、「無意志的記憶」を基調とする複雑かつ重層的な叙述と物語構成はその後の文学の流れに決定的な影響を与えた。この代表作によりプルーストはジョイスカフカとともに20世紀を代表する作家として位置づけられている[1]

生涯

幼年時代

プルーストは、1871年7月10日パリフランス系ユダヤ人として生を受けた。父アドリヤン・プルーストは公衆衛生を専門とする医学博士であり、「防疫線」という理論に基づいてヨーロッパ大陸へのペスト侵入を防ぐなど華々しい功績を持ち、医学アカデミー会員、ソルボンヌ大学教授を務めるなど世界的な名声を得た人物であった[2]。母ジャンヌ・プルースト(旧姓ヴァイユ)は裕福なユダヤ人の株式仲買人の娘である。ヴァイユ家は有力なユダヤの一族であり、同一族からはフランス第三共和政下の有力政治家アドルフ・クレミューなどを輩出している[3]。母ジャンヌは古典文学を愛好する非常に教養の高い女性であり、マルセル・プルーストは芸術に対する繊細な感性をこの母から受けついだ[4]。母親は結婚後もユダヤ教を守り続けたが、夫妻は子供には父親の家系にならってローマ・カトリックの信仰を持たせることに決め、マルセルには1871年8月にサン・ルイ・ダンタン教会で洗礼を受けさせている[5]。マルセル誕生の2年後には、生涯にわたって彼と親しい関係を保ち続けた弟ロベールが生まれている[6]

一家は何度か転居をしながらも、高級官僚の多く住むパリ8区に住み続けた。プルーストは当時の思い出を大事にするために、成人してからも晩年の数年間を除いてほとんどの時期をこの8区で過ごしている[7]。パリ市内には他に母方の祖父母のいるフォーブル・ポワソニエール(この地区にはユダヤ人が多く住んでいた)の家や、母の叔父にあたる人物が住むオートゥイユの家(プルーストはこの家で誕生した)があり、特に後者には春から初夏にかけて長い期間滞在するのがプルースト家の習慣になっていた[8]。またパリ南西100キロメートルほどの場所には父の出身地である田舎町イリエがあり、豊かな自然に囲まれたこの場所にも一家はたびたびバカンスに出かけた[9]。この町がのちの『失われた時を求めて』の主要な舞台となるコンブレーのモデルとなった土地であり、現在同地はこの作品にちなんで「イリエ=コンブレー」が正式名称となっている。

しかし、1882年に10歳のマルセルはブローニュの森を散策中に喘息の発作を起こし、以来花粉と外気が体に障ることを心配した父の判断でイリエに行くことを禁じられてしまった。喘息の持病はプルーストに生涯付きまとい、このために彼は自由に旅行することができず、また自身は花を愛していたにも関わらず生花に近づくことができなかった[10]

学生時代

プルーストは初等学校で2年過ごした後、1882年10月にセーヌ河右岸にある名門コンドルセ高等中学校(リセ)(当時はフォンターヌ高等中学と呼ばれていた)に入学した。自由主義的な気風で知られる名門校であり、プルーストの学友にはエッフェルの息子やビゼーの息子のジャック・ビゼー、ロスチャイルド家の子息などが混じっていた[11]。プルーストの成績は悪くはなかったがむらがあり、また病気のために欠席が多く、このために1年の留年も経験している。教師の中では最終学年に習った哲学科の教師アルフォンス・ダルリュに惹かれ、のちには彼の個人授業も受け、その唯心論的な哲学に大いに感化を受けた[12]

授業が3時に終わると、プルーストは他の少年たちとシャンゼリゼに行き木立の回りを走り回って遊んだ。中には少女も混じっており、その中には『失われた時を求めて』で語り手の初恋の相手ジルベルトのモデルになったポーランド貴族の娘マリー・ド・ベナルダキもいた[13]リセ時代はプルーストが同性愛に目覚めた時期でもあり、同性の学友に愛情濃やかな手紙を送るなどしている[14]。17歳のときには前述のジャック・ビゼーと恋に落ちたが、ビゼーの側からの拒否に合っている[15]。プルーストが文学にはっきりと意識を向けたのもこの時期だった。すでに幼年時代から古典文学に親しんでいた彼は、友人たちの前でラシーヌユゴーミュッセラマルチーヌボードレールの詩句を暗誦してみせ彼らを驚かせている。リセの最終学年時には文学好きの友人たちとともに同人雑誌『緑色評論』『リラ評論』を作り、後者には古代ギリシア人を巡る物語を発表している[16]

大学時代のプルースト(中央)。左がリュシアン・ドーデ(アルフォンス・ドーデの息子)プルースト夫人は同性愛的な雰囲気が漂うこの写真を他人の目にさらすことを息子に禁じた[17]

1889年10月にバカロレアを取得したプルーストはパリ大学で学ぶことになるが、その前にオルレアンで1年間の兵役に就いた。当時フランスには自発的に志願すれば3年間の兵役が1年に短縮される制度があり、プルーストはこれを利用したのである[18]。当時フランスの軍人(特に将校)は社交界にも出入りできる存在であり、プルーストは厳しい訓練を喘息のために(あるいは父親が手を回したために)免れたこともあって優雅な軍人生活を送り、このためにプルーストはフランスの作家の中でもとりわけ軍隊に友好的な文学者となった[19]

1890年にパリ大学に入学したプルーストは法学部に籍を置き、その後政治学自由学院、文学部にも通い、1895年までに法学と哲学の学士号を取得している[20]。1892年には同人雑誌『饗宴』にも参加した。しかしその生活はおよそ大学生らしいものではなく、プルーストは社交界に熱心に出入りしてその名を馳せ(自由政治学院は社交界への足がかりとするのに都合が良かった)、貴族社会や芸術界の著名人と知り合い自宅の夕食に招くようになっていた[21]

創作活動

プルーストの家には十分な資産があったが、当時のブルジョワ階級の常で両親はプルーストに職を持つことを望んでいた。そのためにプルーストは1893年に代訴人の研修を受けるなどしているが早々に放棄し、また息子を外務省に入れることを考えていた父の考えも、パリを離れたくなかったことから敬遠している。1895年にはマザリーヌ図書館で無給助手となったが、休暇届けを濫発して結局ほとんど勤めに出ないまま1899年に退職し、以後は一切職に就かず文学に専心することになった[22][23]。1896年には初の著作集『楽しみと日々』を出版し(ディレッタントの作品と見なされまったく売れなかった[24])、また1895年からは『失われた時を求めて』の前身とも言える自伝小説『ジャン・サントゥイユ』の執筆を始めていたが1899年に中断した。1900年からはジョン・ラスキンの研究の発表を始めている。

20世紀に入るとプルーストの生活に大きな変化が起こった。まず1903年2月に弟ロベールが結婚して家を出、同年11月に父が勤務先で倒れそのまま死去し、そして1905年には夫の死の衝撃から癒えぬまま母ジャンヌが死去した。特に母親から愛情を受けて育ったプルーストは彼女の死に大きな精神的打撃を受け、しばらくの期間を無為と療養のために過ごした[25]。その後1906年12月に、プルーストは一人で住むには広すぎるそれまでの住居から、オスマン通り102番地にあるアパルトマンの二階に転居する。1908年から書き始められた『失われた時を求めて』は、その大部分がこの住居で書かれることになった[26]。また健康状態が回復したことから、1907年から毎年ノルマンディーのカブールへ避暑に出かけるようになり、この場所が『失われた時を求めて』に書かれる架空の土地バルベックのモデルとなった[27]

『失われた時を求めて』は1912年に第一巻『スワン家のほうへ』の原稿がようやく出来上がり、いくつかの出版社に断られた後グラッセ社から出版され各紙で好評を起こした。特にジッドやシュランベルジェら新進作家を擁していた新フランス評論(NRF)では、先の出版拒否に対する強い反省がその内部で起こり、1914年にはジッドからプルースト宛てに出版拒否に対する謝罪の手紙が送られている。NRFはプルーストに打診して『失われた時を求めて』の第二巻以降を自社で出版することに決め、また第一巻の出版権もグラッセ社から買取ることにした[28]。1919年に刊行された第二巻『花咲く乙女たちの蔭に』は、新進作家ロラン・ドルジュレスの『木の十字架』を押さえてその年のゴンクール賞に輝いている。晩年はジャン・コクトーポール・モーランフランソワ・モーリヤックなどの若手作家とも親交を持った[29]

プルーストの墓

病弱であったプルーストは日々健康を悪化させていき、1922年11月、『失われた時を求めて』第五巻以降の改定作業の半ばに息を引き取った。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された[30]

人物

私生活

プルーストは非常に繊細で過敏な神経の持ち主であった[31]。オスマン通り102番地のアパルトマンの部屋では喘息に障ることを恐れたこともあって常に窓を閉ざし、厚いカーテンを閉めたままにして外気も光も遮断し、また部屋の壁をコルク張りにして音も入らないようにした上で昼夜逆転した生活を送りながら執筆を進めていた[32]。医者嫌いでもあったプルーストは医師の処方には見向きもせず、自室でルグラ粉末に火をつけて燻蒸を行なうことでその治療とし、またヴェルナールとカフェインの錠剤を常用していた[33]。死の原因も喘息の大きな発作のあと、風邪を引いたことによって併発した肺炎であり、最後まで入院を拒んで自宅で死ぬことを選んでいる[34]

彼はまた大変な美食家であったが、食事の量は非常に少なく、一日に一食しか食べなかった。特に好んで食べたのは舌平目のフライで、そのほかにロシア風サラダや油をよく切ったフライドポテトなどを好み、またコーヒーと一緒にクロワッサンを食べることも多かった。ワインや強い酒は決して飲まなかったが、冷えたビールは別で、またときどきフライドポテトをつまみにリンゴ酒を飲むこともあった。晩餐に知人を呼ぶこともあったが、そのときはベッドの脇に小さなテーブルを用意して知人に食事を勧め、自分のほうは決して手をつけなかった[35]

プルーストは流行に関心を持ってはいたものの、それは作品に役立てるためであり、自身は物持ちのよかったこともあって使い古した服を好んで着続けていた。病的な寒がりであった彼は夏にも常に厚着をしていて、あるときは海に行くためと称してコートを二着作らせたこともある。第一次大戦後にホテル・リッツで晩餐会をともにしたイギリス大使のダービー卿は、プルーストが夕食中も毛皮のコートを脱がないままだったことに驚いたと記している[36]

家が裕福であったプルーストは幼い頃から大変な浪費家であり、時にその出費は月に何百フランにも達することがあった。友人にはしばしば豪勢な贈り物をし、使用人にも多額のチップを与えた。両親が健在だったときには小遣いの管理をされていたが、しかし父親はプルーストのところに来た請求書の支払いを拒んだことは決してなかった。1919年にゴンクール賞を受賞したときには、賞金5000フランを「謝恩晩餐会」のために一瞬で使いきってしまった[37]

芸術

プルーストは芸術の信望者であり、その著作には多数の芸術家、文学者の名が言及されている。彼の美学に影響を与えているのはジョン・ラスキンであり、より後にはウォルター・ペイターであった[38]。美術館にもよく通って初期ルネサンスからピカソまであらゆる絵画を知っており、レンブラントモネヴァトーシャルダンなどに関する覚書は死後『新雑録』中の「画家の肖像」の題で刊行されている。彼が特に高く評価した画家はフェルメールルノアールモローなどで、特に死の前年に鑑賞したフェルメールの『デルフト眺望』はプルーストに重要なインスピレーションを与えており、『失われた時を求めて』での作家ベルゴットの死のシーンにそのときの体験がそのまま使われている[39]

音楽についてはベートーヴェンシューマンを高く評価する一方で、フォーレ(彼と文通していた)、ドビュッシーワーグナーにも賛辞を惜しまなかった。特にワーグナーは『失われた時を求めて』で最も頻繁にその名が引用されている作曲家であり、プルーストはとりわけ『トリスタンとイゾルデ』『ローエングリン』『パルジファル』を好んだ。またベートーヴェンについては後期のソナタや弦楽四重奏曲第15番の最終楽章を好み、真夜中に自室に楽団を呼んで演奏させたこともある[40]

文学に関しては後述のロベール・ド・モンテスキューや、ポール・ブールジェ、レミ・ド・グールモンなどの親交のあった作家が19世紀末にプルーストに影響を与えている。プルーストが高く評価していた作家はダヌンツィオボードレールヴェルレーヌ、ノアイユ伯爵夫人、ステファヌ・マラルメなどである。またある文章では、ドイツ、イタリア、フランスよりも英米の文学が自分に大きな影響を与えていると述べている[41]

社交

プルーストは学生時代からサロンに出入りし、公爵や公爵夫人、当時の流行画家や作家、俳優など様々な著名人と知り合っていた[42]社交界は『失われた時を求めて』の主要な舞台背景の一つであり、プルーストがこれらの場で得た見聞は同作品に大いに生かされることになった。この作品の登場人物もサロンで知り合った人物をモデルにしたものが多く存在する。平民の出であったプルーストがこうした社交界に出入りできるようになるのは容易なことではなかったが、彼には物まねの才能があり、著名人の声や話し方を真似てみせることによって評判を取り、太鼓持ちのような形で受け入れられていった[43]。あるときプルーストはたまたま社交の場で真面目な意見を披露したところ場がしらけてしまい、それ以来社交界において自分が求められているものが何であるかを悟ったという[44]

『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵のモデルとなったモンテスキュー伯の肖像。同性愛者でありながら社交界にも文芸界にも大きな勢力をもっていた彼にプルーストは強い関心を抱いた[45]

プルーストが出入りしていたサロンには、例えば友人ジャック・ビゼーの母親のストロース夫人(作曲家ビゼーの妻で、夫の死後銀行家のストロースと再婚した)主催のもの、アナトール・フランスの愛人であったカイヤヴェ夫人のもとで開かれたもの、後に『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人のモデルとなるマドレーヌ・ルメール夫人のものなどがあり、また20代前半で既にナポレオンの姪マチルド皇妃のサロンの常連にもなっていた。特にプルーストはルメール夫人のサロンで、『失われた時をもとめて』のゲルマント夫人の主要なモデルであるグレフュール伯爵夫人や、後にプルーストが恋心を寄せ、また同作の高級娼婦オデットのモデルにもなった作曲家レイナルド・アーン、そして社交界に非常に大きな権勢を誇っていた大貴族で、同作のシャルリュス公爵のモデルとなったロベール・ド・モンテスキュー伯爵(彼はまたユイスマンスの小説『さかしま』の語り手デ・ゼッサントのモデルになったとも言われている)などと知り合っている[46]

こうした社交界(ル・モンド)での付き合いとともに、プルーストはドゥミ・モンド(半社交界)と言われる、貴族やブルジョワに囲われた婦人たちとの付き合いもあった。最も親しく付き合っていたのはプルーストの友人の恋人で端役女優であったルイザ・ド・モルナンで、彼女はプルーストの死後、彼との間には「愛情めいた友情」があったとインタビューで語っている。またプルーストの大伯父ジョルジュ・ヴェイユの囲われ者で、大叔父の死後もプルーストとの付き合いが続いたロール・エーマンは、『失われた時を求めて』の高級娼婦オデットの主要なモデルになっている[47]

プルーストは肖像写真を集める趣味があり、友人・知人の写真のほか、上記のような社交界の著名人、ドゥミ・モンドにも写真からなる一大コレクションを持っていた。彼は一度写真を手に入れてしまうと、魅力が減ずるのを恐れてあまり頻繁に見過ぎないようにしていたという[48]

恋愛

プルーストは同性愛者であったが、資料が欠けているため、誰とどの程度の同性愛関係があったのかは謎に包まれている[49]。リセ時代の同性の友人にはダニエル・アレヴィ、ジャック・ビゼーなどがおり、その後プルーストはレイナルド・アーンやリュシアン・ドーデなど、自分と同じ階層出身の新進作家や芸術家に興味を向け、次いで青年貴族たちとも友情を結んだ。後年には下層の出の若者とも親しく付き合い、自分の秘書や使用人として取り立てるなどして庇護するようにもなった[50]。1917年には知人が始めた男娼窟ホテル・マリニーの開業に対して資金援助をしており、プルーストはこのホテルに頻繁に通い、若い青年を相手に自分の欲望を満たしていた[51]

1907年から1914年まで毎年避暑に出かけていたカブールでは、ブルジョワ出身の若い少年たちのグループと出会い親しく付き合うようになり、彼らは少女に形を変え、『失われた時を求めて』の中のバルベックで語り手が出会う「花咲く少女たち」として描かれることになった。この少年たちの中には、後にプルーストの伝記を書くことになるマルセル・プラントヴィーニュと、一時期プルーストの秘書を勤めていたアルベール・ナミアスが含まれる[52]

プルーストはまたカブールで、タクシーの運転手をしていた青年アルフレッド・アゴスチネリと出合った。彼は1913年の春にプルーストの秘書として雇われ、妻と称して連れてきていたアンナという女性とともにプルーストの家に住み込むようになったが、プルーストはこの青年に非常に執着しており、彼が同年12月にアンナとともに逃亡し、さらに翌年4月に飛行機パイロットとしての訓練中に事故死したことに大きなショックを受けた[53]。アゴスチネリのこの事件は当時執筆中であった『失われた時を求めて』の、語り手の恋人アルベルチーヌのエピソードとして再構成されており、作品全体の構成が大幅に見直されるきっかけとなっている[54]

一方、プルーストは女性との肉体関係を伴わない結婚を行なうことも考えていた。21歳の時には従妹のアメリー・ベシエールに愛情を感じて彼女と結婚することを考えている。1908年にカブールに滞在したときには、ここで名前の明らかでない神秘的な少女と出会い(彼女はアルベルチーヌの主要なモデルの一人となった)、友人に向けて彼女と結婚する考えをほのめかしている。また1899年秋には、アナトール・フランスの一人娘シュザンヌ・チボーとの結婚話がフランスの希望で持ち上がったこともあるが、プルースト自身はこの話には乗り気でなかった[55]

ユダヤ人

プルーストの母親はユダヤ人であり、また幼年時代には主に母方の親類たちのもとを行き来して過ごしていたが、彼自身は自分をユダヤ人だと見なしたことはなかった。ある新聞記事で自身をユダヤ人作家の一人として紹介されたときには怒りを表しさえしている[56]。彼が書いた小説の中にも自身のユダヤ人の血に言及した文章はなく[57]、『失われた時を求めて』でも、プルーストの分身である語り手からはユダヤ人を思わせるような描写は注意深く排除されている[8]。ユダヤ教の要素に限っても民俗学の対象と言えるような2,3の珍しい儀式が記されているだけであるが、しかし例えば『ジャン・サンタトゥイユ』には、ユダヤ教の儀式を暗に踏まえて母親との和解を描いた印象的な場面がある[58]

1894年に始まったユダヤ人大尉の冤罪事件であるドレフュス事件に関しては、プルーストは早くから関心を持っていた。1898年1月に、ドレフュスをスパイに仕立て上げるための文書を偽造したエステラジーが無罪になり、彼を告発したジョルジュ・ピカール大佐が逆に収監されると、プルーストは骨折ってピカールのもとに自著『楽しみと日々』を送り届けている。同14日の『オーロール紙』に掲載された、事件の再審を求める「知識人宣言」にもプルーストは署名を寄せ、ドレフュスの弁護により名誉毀損で訴えられたエミール・ゾラの裁判も熱心に傍聴していた。プルーストは親ドレフュス派の立場を鮮明にしたことで親しい人々との間でも意見の対立に引き裂かれることになり、例えば反ドレフュス派であった彼自身の父とも一時仲違いをした。ドレフュス事件は彼の小説『ジャン・サンタトゥイユ』および『失われた時を求めて』の中でも中心的な話題の一つとして取り上げられている[59]


  1. ^ 石木、3頁
  2. ^ 石木、15-16頁
  3. ^ 石木、16頁
  4. ^ チリエ、178-179頁
  5. ^ チリエ、31頁
  6. ^ ホワイト、17頁
  7. ^ 石木、17頁
  8. ^ a b 石木、18-19頁
  9. ^ 石木、19-20頁
  10. ^ 石木、22-24頁
  11. ^ 石木、25-26頁
  12. ^ 石木、26-27頁
  13. ^ 石木、27-28頁
  14. ^ 石木、30-31頁
  15. ^ ホワイト、28-30頁
  16. ^ 石木、31-33頁
  17. ^ ホワイト、46-47頁
  18. ^ 石木、34頁
  19. ^ 石木、35-36頁
  20. ^ チリエ、101-102頁
  21. ^ ホワイト、44、49頁
  22. ^ チリエ、118-121頁
  23. ^ 石木、37頁
  24. ^ 石木、91頁
  25. ^ 石木、60-63頁
  26. ^ 石木、64-66頁
  27. ^ 石木、66頁
  28. ^ 石木、73-75頁
  29. ^ 石木、84-85頁
  30. ^ 石木、86-87頁
  31. ^ チリエ、24-25頁
  32. ^ ホワイト、101頁
  33. ^ チリエ、20-22頁
  34. ^ 石木、87頁
  35. ^ チリエ、135-138頁
  36. ^ チリエ、138-140頁
  37. ^ チリエ、163-164頁
  38. ^ チリエ、278-279頁
  39. ^ チリエ、280-284頁
  40. ^ チリエ、284-286頁
  41. ^ チリエ、286-287頁
  42. ^ ホワイト、49頁
  43. ^ 石木、40-41頁
  44. ^ 石木、41頁
  45. ^ 石木、46頁
  46. ^ 石木、39-43頁
  47. ^ 石木、47-50頁
  48. ^ 石木、50-51頁
  49. ^ チリエ、201頁
  50. ^ チリエ、201-202頁
  51. ^ 石木、80-81頁
  52. ^ 石木、70-71頁
  53. ^ 石木、76-77頁
  54. ^ 石木、135頁
  55. ^ チリエ、206頁
  56. ^ ホワイト、9-10頁
  57. ^ ホワイト、10頁
  58. ^ ホワイト、10-11頁
  59. ^ チリエ、289、292頁
  60. ^ チリエ、208-209頁
  61. ^ 石木、96-97頁
  62. ^ チリエ、212頁
  63. ^ 石木、102-104頁
  64. ^ 石木、104頁
  65. ^ ホワイト、84頁
  66. ^ チリエ、215-216頁
  67. ^ 石木、125頁-127頁
  68. ^ 石木、129-131頁
  69. ^ チリエ、321頁
  70. ^ チリエ、320-321頁
  71. ^ 鈴木、19頁
  72. ^ チリエ、323頁
  73. ^ 石木、155-156頁
  74. ^ チリエ、325頁


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