マニ教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 05:27 UTC 版)
概要
ゾロアスター教・キリスト教・仏教などの流れを汲み、経典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸一帯で広く信仰された世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者はおらず、消滅したとされてきたが、今日でも中華人民共和国の福建省泉州市においてマニ教寺院が現存する。
教義
宗教混合
マニ教は、寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった[4]。マニ教の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした[5]。これについては、マニの生まれ育ったバビロニアのヘレニズム的環境も大きく影響している。この地では多様な民族・言語・慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らない環境で、そうした折衷主義は格別珍しいことではなかった。そして、古代オリエントの住民は、各自のアイデンティティを保つため、特定の宗教・慣習・文化に執着する傾向も薄かったと考えられる[6]。
マニ教はゾロアスター教を母体にユダヤ教の預言者の概念を取り入れ、ザラスシュトラ・釈迦・イエスを預言者の後継と解釈。マニ自身も自らを天使から啓示を受けた最後の預言者(「預言者の印璽」)と位置づけた(後述)。そのほかにグノーシス主義の影響を受けた。ゾロアスター教の影響から善悪二元論を採ったが、享楽的なイラン文化と一線を画す仏教的な禁欲主義が特徴である[7][8]。
- キリスト教・ユダヤ教
- かつての研究者は、イラン神話・メソポタミア神話・ゾロアスター教・ズルワーン教・マンダ教など、東方の宗教にマニ教の起源を求めていた。しかし、資料の発見によってマニ自身がユダヤ教・キリスト教に由来するエルカサイ教団出身であることが分かり、その思想的起源はセム的一神教にあったことが判明した。そのため、それ以外の宗教は壮年期以降に獲得したものであったとされる[9]。
- グノーシス主義
- マニ教をグノーシス主義の一派とする見方がある。マニ教の精神・物質二元論はグノーシス主義と一致している。
- 近年では、マニ教資料が大部分のグノーシス主義思想家を非難していることや宇宙の存在に積極的な意義を認めていることから、グノーシス主義と一線を画しているとする向きもある[10]。
- ミスラ教
- ミスラ(ミフル)教はミスラ神を崇拝した宗教(ミトラ教とは異なる)。パルティアで盛んに信仰されたと思われる。マニ教神話では本来太陽神であるミスラが戦闘神・創造神として、オフルマズド(ザラスシュトラが最高神として想定したアフラ・マズダー)を凌ぐ活躍をしており、ミスラ教の影響がうかがえる。パルティア人の血を引き、パルティア時代末期に生まれたマニにとってミスラの存在は大きかったと思われる[11]。
- ゾロアスター教
- サーサーン朝の国教。マニ教はゾロアスター教の影響から善悪二元論を採ったが、享楽的なイラン文化と一線を画していると言われる[7][8]。しかし、マニ教神話に登場するオフルマズドはほとんど活躍せず、現代に伝わる二元論的ゾロアスター教とは一線を画す。近年では二元論的ゾロアスター教が成立したのは5~6世紀頃であり、逆に二元論的ゾロアスター教がマニ教から影響を受けたとする説もある。その場合、マニ教に影響を与えたのはゾロアスター教の滅びた分派ズルワーン教となる[12]。
二元論
マニ教は徹底した二元論的教義を有し、宇宙は光・闇、善・悪、精神・物質のそれぞれ2つの原理の対立に基づいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ明確に分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心としている[3][5]。
この点について、善悪・生死の対立を根本とするゾロアスター教の二元論よりも、物質・肉体への嫌悪感が非常に強く、禁欲的かつ現世否定的な傾向があるギリシア哲学的な二元論の影響がうかがえる[8]。
神話
マニ教の神話では、
- 原初、「光の王国」に「光明の父」または「偉大なる父(ズルワーン)」が、「闇の王国」に「闇の王子(アフリマン)」がそれぞれ所在し、共存していた。「光の王国」は光・風・火・水・エーテルが実態で、「光明の父」は理性・心・知識・思考・理解と翻訳しうる5つの精神作用を持ち、それを手足、また住まいとしていた。しかし、「闇の王子」はそれを手に入れるために光を侵し、闇に囚われた光を回復する戦いが開始された。「光明の父」は「光明の母」を呼び出した[8]。
- 「光明の母」により最初の人「原人オフルミズド(アフラ・マズダー)」が生み出された。原人は、光の5元素を武器に闇の勢力と戦うが、敗れて闇に吸収されてしまう(「第一の創造」)。原人は闇の底より助けを求めた[8]。
- 「光明の父」は「光の友」と「偉大な建設者(バームヤズド)」「生ける霊(ミフルヤズド)」を呼び出す。偉大な建設者は「新しい天国」を作り、「生ける霊」は闇に囚われていた原人を救出し、「新しい天国」へ連れて行った(「第二の創造」)。
- 原人と共に闇に囚われた光の元素は闇に飲み込まれたままであったが、これは闇の勢力にとって毒であった。一方「生ける霊」とその5人の息子たちは、闇に囚われた光の元素を救うため、闇の勢力に大きな戦争を仕掛けた。そして、このとき倒された闇の悪魔たちの死体から現実の世界が作られた[8]。悪魔から剥ぎ取られた皮により十天が作られ、骨は山、排泄物・身体は大地となった[8]。
- 「光明の父」は「第三の使者」を呼び出し、さらに「光の乙女」「輝くイエス」「偉大な心」「公正な正義」を呼び出す[14]。闇の執政官アルコーンには男女の別があるが、男には「光の乙女」、女には肢体輝く美しい青年の姿で顕現し、射精・流産によってアルコーンが呑みこんだ光の元素を放出させる。放出した精子は海の巨獣(光の戦士によって倒される)と植物に、水子は大地に二本足のもの、四本足のもの、飛ぶもの、泳ぐもの、這うものという5種の動物になった[8][14]。
- 闇の側では、虜にした光の元素を閉じ込めるため「物質」が「肉体」の形をとって、全ての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔を作り、女も同様に大女魔を作った。大悪魔と大女魔は憧憬の対象「第三の使者」を模して人祖アダムとエバ(イヴ)を創造した[14]。そのため、アダムは闇の創造物だが、大量の光の要素を持ち、その末裔たる人間は闇によって汚れていても智慧によって内部の光を認識できる、と説く。対してエバは、光の要素を持ちつつ智慧を与えられず、アルコーンと交接してカインとアベルを産む。嫉妬に駆られたアダムはエバと交わり、セトが生まれて人の営みが始まる。
とされる。
このように、マニ教の神話にはキリスト教原罪思想やグノーシス主義の影響が見られる。そして、人間の肉体は闇に汚されていると考えた一方で、光は地上に飛び散ったために、植物は光を有していると見なした。そのため、後述のように斎戒や菜食主義の実践を重視する。また、結婚・性交は子孫を宿すことで、悪である肉体の創造に繋がる忌避すべき行為と考えられた。また、マニ教は禁欲主義を主張し、肉体を悪の住処、霊魂を善の住処と見なしていることに一つの特徴がある。
三際
『敦煌文献』をフランスにもたらしたことで知られる東洋学者のポール・ペリオは中国でマニ教断簡(現フランス国立図書館所蔵)を発見しているが、それによれば、宇宙は「三際」と称される3時期に区分される[5]。
- 初際 - まだ天地がなく、明暗の違いがあるのみである。明の性質は智慧、暗の性質は愚昧だが、まだ矛盾・対立は生じていない[5]
- 中際 - 暗(闇)が明(光)を侵し始め、明が訪れては暗に入り込んで両者は混合していく。人は、ここにおける大いなる苦しみのために、目に映ずる形体の世界から逃れようと希望する。そして人は、この世(「火宅」)を逃れるには、真偽・光闇を判別し、自ら救われるための機縁を捕まえなくてはいけない[5]
- 後際 - 教育・回心とを終える。これにより、真偽・光闇はそれぞれ由来の地「根の国」に帰る。光は大いなる光に、闇は闇の塊に回帰する[5]
以上の内容は、8世紀のテオドール・バル=コーナイによるシリア語文献の内容とも合致する[5]。
禁欲主義
上述のように、マニは悪から逃れることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定した[7]。ゾロアスター教の教義は、善神アフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユの2神を対立させるが、この善悪2神はそれぞれ精神と物質との両面を含んでいる。しかし、マニ教では、光と闇の結合が宇宙を生んだと考えるので、宇宙の創成は究極的には悪の力の作用であるととらえ、やがて全宇宙は崩壊すると考える[7]。そのとき初めて光による救済が起こり、闇からの解放がなされると説くのである[7]。
イエス観
マニ教では、ザラスシュトラ、イエス・キリスト、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はいずれも神の使いと見なされるが、イエスに関しては、肉体を持たない「真のキリスト」と、それとは対立する十字架にかけられた人の子イエス(ナザレのイエス)とを峻別する[7]。「神の子」を否定するこのようなイエス観は、イスラム教教祖ムハンマドにも継承され、イスラム教のキリスト教理解に大きな影響をあたえた[7]。
マニ教のイエス観は様々な像を結んでいる[14]。
教典
マニは世界宗教の教祖としては珍しく自ら経典を書き残したが、その多くは散逸した[3]。マニは当時の中東のリンガ・フランカであったアラム語の一方言での叙述が多かった。マニは教義を万人対象とするために、多くの人が理解できる言葉で経典を書き記したと思われる。また、彼は速やかに経典を各地の言語に翻訳させたが、その際、彼は教義の厳密な訳出より各地に伝わる在来の信仰・用語を利用して自由に翻訳することを勧めた。場合によっては馴染みやすい信仰への翻案すら認め、異民族・遠隔地の布教に功を奏した[15]。
マニの著作としては、『大福音書』『生命の宝(いのちの書)』『プラグマテエイア』『秘儀の書』『巨人の書』『書簡』などの聖典が断片的に確認されるほか、サーサーン朝第2代の王シャープール1世に捧げたパフラヴィー語文献『シャープーラカン』が遺存している[3][15]。これらのうち、『生命の宝』が『シャープーラカン』に次いで古いと推定される[15]。ほかに『讃美歌と祈祷集』、マニ自身の手による『宇宙図およびその註釈』(後述)があり、また、マニの没後、弟子らによってまとめられたマニと弟子たちとの対話集『ケファライア(講話集)』があった[15]。
注釈
出典
- ^ a b 『ドイツ・トゥルファン探検隊 西域美術展』図録(1991)。なお同図録には、他にも西域出土のマニ教絵画が数点掲載されている。
- ^ a b 青木(2010)pp.39-40
- ^ a b c d e f g h i j 上岡(1988)pp.140-141
- ^ a b c d e f g h 『ラルース 図説 世界人物百科I』(2004)pp.215-217
- ^ a b c d e f g h i j k l 加藤「マニ教」(2004)
- ^ 山本(1998)pp.21-25
- ^ a b c d e f g h i 岩村(1975)pp.152-154
- ^ a b c d e f g h 山本(1998)pp.31-34
- ^ 青木(2010)ページ。
- ^ 青木(2010)156-157ページ。
- ^ 青木(2010)157-158ページ。
- ^ a b 青木(2010)158-163ページ。
- ^ 青木(2010)164ページ。
- ^ a b c d 山本(1998)pp.34-37
- ^ a b c d e f g 山本(1998)pp.26-31
- ^ a b c d e f g h i j k l m 山本(1998)pp.37-39
- ^ a b c d e f g h i j k l m “叡智の光_マニ教概説・序説 Introduction of Manichaean Religion”. 2019年4月25日閲覧。
- ^ a b c 加藤「マニ」(2004)
- ^ 青木(2010)171-173ページ
- ^ 青木(2010)ページ
- ^ a b c 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)44-54ページ
- ^ 青木(2010)188-190ページ
- ^ 青木(2010)190-192ページ
- ^ 青木(2010)192-194ページ
- ^ “叡智の光_マニ教概説 Religion of Manichaeism”. 2019年4月25日閲覧。
- ^ a b 青木(2010)218-220ページ
- ^ a b c d e f 礪波(1988)p.141
- ^ “中国・福建省の「マニ教村」を、マニ教研究者が訪ねてみた”. 2020年3月19日閲覧。
- ^ Sundermann, W. (1999). "Al-Fehrest, iii. Representation of Manicheism.". Encyclopedia Iranica. 2017年8月31日閲覧。
- ^ a b “国内にマニ教「宇宙図」 世界初、京大教授ら確認”. 47NEWS. (2010年9月26日). オリジナルの2013年6月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ “収蔵庫に眠る地蔵菩薩絵画、実はマニ教創始者像 奈良博”. asahi.com. 2021年1月14日閲覧。
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