フランチェスコ・アイエツ フランチェスコ・アイエツの概要

フランチェスコ・アイエツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 13:40 UTC 版)

フランチェスコ・アイエツ
Francesco Hayez
『88歳の時の自画像』
誕生日 (1791-02-10) 1791年2月10日
出生地 ヴェネツィア共和国ヴェネツィア
死没年 1882年2月11日(1882-02-11)(91歳)
死没地 イタリア王国ミラノ
運動・動向 ロマン主義
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生涯

フランチェスコ・アイエツはヴェネツィアの貧しい家の出である。父親はフランス系、母親はムラーノの出身。フランチェスコは5人兄弟の末っ子で、母方の叔母夫婦に育てられたが、この叔母は裕福な船舶所有者また美術収集家の妻であった。叔父は、子供の頃から素描の才能を見せたフランチェスコを、ある美術修復家の元に弟子入りさせる。後にフランチェスコは画家のフランチェスコ・マジョット の生徒となり、3年の間学ぶ。1806年には新たに改組されたヴェネツィア美術アカデミー の絵画コースに入学し、テオドロ・マッティーニの元で学ぶ。1809年、 アカデミア美術館主宰のコンペティションに入賞し、ローマアッカデミア・ディ・サン・ルーカで1年学ぶことになる。フランチェスコは1814年までローマに滞在し、次にナポリ王国の国王になったジョアシャン・ミュラに依頼されて『アルキノオスの法廷にいるユリシーズ』を制作するためにナポリに移る。1830年代半ばにはミラノのサロンに出席していたことが分かっている。1850年にミラノのブレラ美術館のディレクターに任命された。

フランチェスコ・アイエツに対する評価は、彼が自分の作品にサインや日付を入れなかったため、困難なものとなっている。更に彼はしばしば同じ構成で絵を描いたが、それらにはほとんど違いがないか、全く違いがないものがある。彼の初期の作品にはドミニク・アングルナザレ派の影響が見られる。後期の作品は古典復帰の傾向が見られる。

作品


  1. ^ 旧約聖書からの絵画で姑のために馴れない落穂拾いをしている姿だが、ジャン=フランソワ・ミレー落穂拾いのモチーフとなっている。


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