パラマウント・ピクチャーズ
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パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(Paramount Pictures Corporation)は、アメリカの映画およびテレビ番組の製作・配給会社であり、パラマウント・グローバル(旧ViacomCBS)の主要部門として名を馳せている。世界で5番目に古い映画スタジオであり[1]、アメリカでは2番目に古い(ユニバーサル・ピクチャーズ設立の8日後)1912年に設立された映画スタジオ。「ビッグ5」と呼ばれるアメリカの映画スタジオの中で唯一、現在もロサンゼルス市内に存在する。
注釈
- ^ 後にメトロ社を買収して、その後にサミュエル・ゴールドウィンのゴールドウィン社とメイヤー社の2社と合併してメトロ・ゴールドウィン・メイヤー即ちMGMを創立する。
- ^ 当時は映画専門館はなく、演芸のボードビリアンの興行の合間に映画を上映する形態が普通で、したがって映画は屋外のテントや芝居小屋で上映されていた。そしてこのボードビル興行を請け負った人々がやがて映画興行に移り、ニッケルオデオンと呼ばれる映画小屋の経営に乗り出すことが多かった。
- ^ この当時まで映画は娯楽であって庶民や移民労働者に支えられて、芸術とは見なされていなかった。1908年2月にフランスで芸術家による映画製作を目指すフィルム・ダール社が設立されて、その名の通り映画芸術を高めることを目的として同年「ギーズ公の暗殺」を製作して、出演はコメディーフランセーズの俳優たちで、この映画の伴奏音楽を当時の大作曲家サン・サーンスが作曲した。結局1年で会社は解散となったがフィルム・ダールの運動はその後も続いた[5]。
- ^ 後にゴールドウィン社を設立し、やがて合併してMGMとなる。
- ^ あるいは「パラマウント判決」「パラマウント同意判決」とも呼称されている。
- ^ こうした同じ製作会社からの作品を一手に引き受けて上映する固定したシステムをブロック・ブッキングという。これとは違って別の会社の作品をも上映するシステムをフリー・ブッキングといい、要は映画館側の興行者が自由に作品を選べる選択権の有無の違いである。日本はずっとブロック・ブッキング制が続いている。
- ^ 日本は現在でもこの構造は残っている。
- ^ 創業者のウイリアム・フォックスはその後大恐慌で破産して会社を離れ、やがてワーナー・ブラザースから独立したダリル・F・ザナックが作った20世紀映画と1935年に合併して20世紀フォックスとなった。
- ^ 資料によってはリトル3を含め8社が訴えられているとする資料もある。また第1次訴訟と第2次訴訟があり、1948年に第2次訴訟の決着がついた。
- ^ そのため、これを「パラマウント同意判決」とも呼ばれている。なお他社もその後順次に判決に同意に、1952年2月に最後まで粘っていたMGMも同意して裁判は終わった。
- ^ パラマウントの代表的コンテンツ製作子会社であるドリームワークス社も当時パラマウントと同時にHD DVD支持の意向を示した。
- ^ スティーヴン・スピルバーグ監督作品は対象外となったが、限定的なBlu-ray発売はされなかった。
- ^ この直後、「HD DVDのリーダーメーカーであった東芝がパラマウントと18ヶ月間の独占供給契約を結び、同時に1.5億ドルの“ 奨励金 ”が東芝から支払われた」との報道もあった。[1]
独占契約について、東芝及びパラマウントは、現在に至るまで公式にコメントしていないが、東芝のHD DVD撤退後に、当時のドリームワークス社CEOが「東芝との間で結んだHD-DVD方式のみのDVDを販売する契約に依然拘束されている」[2]とコメントしている事や様々な事象から、これらの契約や報奨金の授受はあったとの見方が一般的である。 - ^ この時点でHD DVDソフトの去就は未定であったが、最終的にはHD DVDソフトは全て生産終了となった。
出典
- ^ Abel, Richard (1994). The Ciné Goes to Town: French Cinema, 1896–1914. University of California Press. p. 10. ISBN 0-520-07936-1
- ^ 「世界映画大事典」680P 日本図書センター 2008年6月発行
- ^ MOOK21「20世紀の映画」7P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
- ^ a b MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
- ^ 「映画史を学ぶクリティカル・ワーズ」54P フィルム・ダールの項 参照 村山匠一郎 編 フィルムアート社 2013年7月発行
- ^ 「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
- ^ MOOK21「20世紀の映画」47P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
- ^ MOOK21「20世紀の映画」9P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
- ^ 「ハリウッド100年史講義」81〜83P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
- ^ a b 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
- ^ MOOK21「20世紀の映画」13P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
- ^ DreamWorks waiting for cue from Toshiba on Blu-ray 2008年2月26日 ロイター(元記事・英語)
- ^ a b “東宝(株)『東宝五十年史』(1982.11) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2018年12月7日閲覧。
- ^ “東宝東和とパラマウントが劇場配給契約を締結東宝東和はパラマウント作品配給の新会社を設立 | 東宝東和株式会社 オフィシャルサイト”. 東宝東和 (2015年10月8日). 2021年6月12日閲覧。
- ^ “会社案内・プライバシーポリシー -パラマウント・ピクチャーズ ブルーレイ&DVD公式サイト-”. パラマウント・ピクチャーズ ブルーレイ&DVD公式サイト. 2022年4月24日閲覧。
- ^ “テーマパーク建設を表明/米パラマウントが福岡に”. 四国新聞 (2004年7月29日). 2020年7月22日閲覧。
- ^ 万博記念公園に日本最大級の観覧車計画 三井不動産 - msn産経ニュースwest 2012年6月26日 [3]
- ^ “エキスポランド跡地にテーマパーク「パラマウント・リゾート大阪」を設立へ”. GIGAZINE (2009年7月16日). 2020年7月22日閲覧。
- ^ “【開発】大阪・エキスポランド跡地で三井不動産がテーマパーク建設”. 日経不動産マーケット情報 (2011年12月19日). 2020年7月22日閲覧。
パラマウント・ピクチャーズ
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「パラマウント・ピクチャーズ」の解説
1953年夏、ヒッチコックは自身のエージェントであるMCAのルー・ワッサーマンを介して、パラマウント・ピクチャーズと5本の映画を製作または監督し、その利益に対する歩合と作品の最終的な所有権をヒッチコック側が持つという契約を結んだ。その最初の作品はコーネル・ウールリッチの短編小説が原作の『裏窓』で、放送作家のジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)に脚本を依頼した。この作品は足を骨折して車椅子生活を送る写真家(ジェームズ・ステュアート)が、双眼鏡で向かいのアパートの住人たちを観察するうち、そのうちの1部屋で殺人が行われたことに気付くという物語で、前作に続いてグレース・ケリーがヒロインを演じた。撮影は順調に進み、スタッフや俳優との関係も良好だった。ヒッチコックも機嫌が良く、以前のようなエネルギーと創作への熱意を取り戻し、後年には「この頃は自分のバッテリーがほんとうにフルに充電されていると思った」と述べている。1954年8月に公開されると好評を博し、公開から2年間で興行収入は1000万ドルを超えた。第27回アカデミー賞ではヒッチコックが監督賞にノミネートされた。 1954年初め、ヒッチコックはパラマウントの重役の勧めでデイヴィッド・ドッジの小説が原作の『泥棒成金』の製作を始めた。この作品は宝石泥棒の疑いをかけられた元泥棒(グラント)と、彼と恋したアメリカ人女性(ケリー)が主人公のロマンチックなサスペンスで、ビスタビジョンを使用したワイドスクリーン映画として作られた。ヒッチコックは前作で組んだヘイズと脚本を書き、初夏に物語の舞台となるフランスのリヴィエラでロケ撮影をした。翌1955年8月に公開されると北米だけで450万ドルの利益を出したが、批評家の意見は分かれた。この作品の撮影中、ヒッチコックはヘイズにジャック・トレヴァー・ストーリー(英語版)の短編小説が原作の『ハリーの災難』の脚本を依頼した。この作品はバーモント州の田舎を舞台に、ハリーの死で罪の意識を感じた町の人たちを描くブラック・コメディである。撮影は1954年後半に行われ、1955年10月に公開された。ヒッチコックは日本を含む世界各地を旅して宣伝に努めたが、フランス以外の国では客入りは悪く、批評も芳しくなかった。 1955年4月20日、ヒッチコックはロサンゼルス郡裁判所でアメリカ合衆国の市民権を取得した。それまでにはジェームズ・ステュアートとドリス・デイが主演の次回作『知りすぎていた男』の脚本をヘイズと作成した。この作品は『暗殺者の家』のリメイクだが、プロットにはさまざまな変更を付け加えており、後年にヒッチコックは「最初のイギリス版(『暗殺者の家』)はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版(『知りすぎていた男』)はプロがつくった映画だった」と述べている。撮影は同年7月までに行われ、1956年5月に公開されると興行的成功を収め、公開から1週間のうちにその年のアメリカで最高の興行収入を出した。
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