パウサニアス (将軍) パウサニアス (将軍)の概要

パウサニアス (将軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/17 21:47 UTC 版)

略歴・人物

パウサニアスはアナクサンドリデス2世の子クレオンブロトスの子で、レオニダス1世の甥に当たる。パウサニアスの子プレイストアナクスプレイスタルコス(レオニダスの子)の後を継いでスパルタ王になった。また、パウサニアスは幼いプレイタルコスの後見人を務めもした。

紀元前479年、パウサニアスはギリシア連合軍を率いて第二次ペルシア戦争プラタイアの戦いマルドニオス率いるペルシア軍を破った。

翌年、パウサニアスはビュザンティオンを落とし、ビュザンティオンをペルシアの勢力圏から切り離した(ビュザンティオン包囲戦[1]。戦いの後、彼は戦いで捕えたペルシア王クセルクセス1世の親族を脱獄したと見せかけて密かに送り返し、それと同時にペルシア王に書状を送った[2][3]。その中で彼は、クセルクセス1世の娘を娶って婚姻関係を結びたいと申し出、そうすればギリシアをペルシアの支配下に置くと約束し、ついてはそのためにペルシア王に忠実な臣下を小アジア沿岸に派遣するよう求めた。これに対してペルシア王はアルタバゾスを送り、ダスキュレイオン(ヘレスポントス・フリュギア)の太守とした[4]。しかし、この目論見は露見し、また、ビュザンティオンを落とした後のパウサニアスの僭主的な言動は同盟諸国の顰蹙を買い、同盟諸国はアテナイになびいたことによってパウサニアスは告訴された。この時彼はスパルタには帰らずにトロイア地方のコロナイに居を定めたが、スパルタから召喚状が来たので帰国し、裁判にかけられた[5]。この時彼は死刑を求刑されたが、罰金刑で済んだ。

その後、またもやパウサニアスはペルシアとの内通があったことが発覚し、スパルタ当局に逮捕されそうになった。身の危険を感じた彼は先んじてアテナの神殿に逃げ込み、難を逃れようとした。そこで監督官たちは神殿にパウサニアスを閉じ込め、餓死させようとした。後になって彼が運び出された時には既に虫の息であり、すぐに死んだ[6]

ただし、20世紀になってからドイツの歴史学者からパウサニアスとクセルクセス1世の行動日程の差から以上の通説に懐疑説が提議され、現在ではペルシャ人捕虜の優遇やペルシャ帝国文化かぶれは否定できないものの「行動日程的に本格的な内通はほぼ不可能」「王族による独裁権力の確立やペルシャ文化の輸入を危惧した国内反対派による冤罪」との説も有力になっている。

参考文献


  1. ^ トゥキュディデス, I. 94-95
  2. ^ ibid, I. 128
  3. ^ コルネリウス・ネポス, 「パウサニアス」, 2
  4. ^ トゥキュディデス, I. 129
  5. ^ ibid, I. 1131
  6. ^ ibid, I. 133-134


「パウサニアス (将軍)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「パウサニアス (将軍)」の関連用語

パウサニアス (将軍)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パウサニアス (将軍)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのパウサニアス (将軍) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS