ニュルンベルク裁判 ニュルンベルク裁判の概要

ニュルンベルク裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/02 01:34 UTC 版)

最初の主な裁判(英語Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT)と、それに続く、ニュルンベルクを占領統治していたアメリカ合衆国による12の裁判(英語:Nuremberg Military Tribunals, NMT. 1949年4月14日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別される)で構成された。

目次

前史

戦前の認識

いわゆる「人道に対する罪」という言葉の淵源は1909年のハーグ陸戦条約に見られるが、用語として成立したのは戦後になってからだった[1]第一次世界大戦後の1919年1月、連合国は、国家元首をも含む戦争開始者の責任を裁く国際法廷の設置について討議を行った。この方針は採択されなかったものの、ヴェルサイユ条約ヴィルヘルム2世を国際条約の信義に背いたとして国際法廷で裁くという条項に反映された。しかしヴィルヘルム2世の裁判は実現せず、またドイツの戦争犯罪容疑者を国際法廷で裁くこともドイツ側の拒否にあい、ライプツィヒ戦争犯罪裁判英語版として行われたドイツ国内の戦犯裁判は、ほとんど形式的なものに過ぎなかった。またオスマン帝国アルメニア人虐殺に対しては、連合国側の15人委員会が「人道に対する罪」として取り上げようとしたさい、アメリカおよび日本は「これを認めれば、国家元首が敵国の裁判にかけられることになる」として反対した。またアメリカは国際法廷の設置そのものに前例がないとして反対した[2] その後も国際法廷に関する協議は行われていたが、明確な条約は締結されなかった[3]

連合国の戦犯裁判方針の形成

第二次世界大戦勃発直後から、連合国間ではドイツによる前例のない残虐行為を非難する声が高まっていた。1940年11月にはポーランド亡命政府チェコスロバキア亡命政府が、ドイツの占領下にある両国の領域における残虐行為は、史上例がないと非難した共同宣言を発表した[4]。1941年10月25日にはアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相がそれぞれドイツの残虐行為を非難する声明を発表し、特にチャーチルは「これら犯罪の懲罰は、今や主要な戦争目的の一つ」であるとした[4]。11月5日にはソビエト連邦のヴャチェスラフ・モロトフ外相も同様の発言を行い、英米と歩調を合わせた[4]

1942年1月13日にはセント・ジェームズ宮殿に集まったベルギールクセンブルクチェコスロバキアポーランドギリシャオランダノルウェーの各亡命政府代表と自由フランス代表が「組織された裁判の手続きにより」、市民に対する残虐犯罪を犯したもの達を処罰することを、「主要な戦争目的の中に入れる」ことを決議した[5]。オブザーバーとして参加していた中華民国の代表もこの原則に同意し、この方針を中国大陸に存在する日本軍にも適用する意志を示した[6]。またソビエト連邦もこの方針に同意した[6]。イギリスは戦犯裁判に当初乗り気ではなかったが、これらの国々の突き上げによって戦犯裁判について検討せざるを得なくなった。また日本の占領によってイギリスの軍民が被害を受けているという報告が多く寄せられ始めたことも背景にあった[7]。6月にはチャーチルが連合国戦争犯罪捜査委員会の設置をアメリカに示唆し、7月には閣議でこの方針を承認するとともに、戦争犯罪人の扱いに関する内閣委員会を設置することを決定した[6]。 この討議では、外相アンソニー・イーデン大法官ジョン・サイモンが国際法廷による裁判に反対意見を表明している[6]

1942年10月7日、ルーズベルト大統領とサイモン大法官はそれぞれ、連合国戦争犯罪捜査委員会の設置と、戦犯裁判のためのあらゆる証拠を収集することを表明した[6]。しかし第一次世界大戦後のライプツィヒ裁判の失敗から、具体的な戦犯裁判には米英は消極的であったこと、さらにソビエト連邦の裁判参加問題もあって、具体的な決定はなかなか行われなかった[6]。ソビエト連邦は自国の構成共和国、とくにバルト三国に設置された社会主義政権を代表として認めるよう要求し、イギリスはこの要求を拒否した[8]。ソビエト連邦は即時の戦犯裁判開始を求めていたが、イギリスは捕虜となっている将兵が報復されることを怖れ、大半の戦犯裁判は戦争中には行われなかった[9]。1943年10月20日からロンドンで開催された17カ国会議によって連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)の設置が決まった。11月1日にはモスクワ宣言が発表され、局地的な戦争犯罪被告人については被害国で裁くものの、国家・軍・ナチ党の指導者の裁判については今後決定されるとされた。

UNWCCは1944年1月11日に第一回正式会合を行い、まず何が戦争犯罪であるかの討議を開始した。この討議の中で、「戦争という犯罪」や、従来の戦争犯罪の枠に収まらない残虐行為(ナチス・ドイツが行ったリディツェレジャーキ村の殲滅行為など)も裁判の対象に加えるべきであるという主張が行われた。10月3日、UNWCC総会は「戦争犯罪人裁判のための最高司令官による混合軍事法廷設立を支持する勧告」を賛成8、反対4で採択した[10]。この勧告では文民による国際法廷の開催と、明文化された条約の他に、「文明諸国民の間で確立した慣習、人道の法、ならびに公衆の良心の命ずるところから由来する諸国家の法の諸原理」「法として認められた一般的な実践の証拠としての戦争の国際的な慣例」をも根拠とするべきであるとしており[11]、「人道に対する罪」は含まれていたものの、「平和に対する罪」は含まれていなかった[12]。UNWCCは実際の裁判運営についてはイギリス外務省に一任するとしていたが、イギリス政府はUNWCCの勧告の多くに拒否反応を示した。イギリス政府は戦争犯罪については従来の狭い定義を用いるべきであると考えており、ドイツ国内におけるユダヤ人に対する迫害(ホロコースト)を対象に加えることにも反対し、戦後成立するドイツ政府に裁判を任せるべきと回答した[13]。アメリカ国務省も「人道に対する罪」を対象とすることには反対しており[14]、主要戦犯裁判については消極的であった[15]

しかしヘンリー・モーゲンソー財務長官は1944年7月がヨーロッパから帰還すると、アメリカ政府の対応がドイツに対して寛大すぎると非難を行うようになった[16][17]。モーゲンソーはナチス戦犯のリストを作り、これら戦犯を即決で銃殺刑に処するよう主張するとともに[17]、ドイツが犯した文明に対する犯罪を裁判で裁くよう主張した[18]。アメリカ政府内でモーゲンソーの意見が影響力を持つようになると、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは危機感を抱くようになった。スティムソンはモーゲンソーの方針がかえって新たな戦争の原因となると考え、すべてのナチス指導者を裁判で裁くよう主張した[19]。9月25日のケベック会談でモーゲンソーは戦犯の即時射殺をルーズベルトとチャーチルに提案し、両首脳は一時これを了承している[19][20]。ところがモーゲンソーの戦後ドイツ統治計画「モーゲンソー・プラン」がマスコミからの非難を受けると、ルーズベルトとモーゲンソーの関係は冷却化し、モーゲンソーの影響力は低下していった[19]。こうしてアメリカ政府内での戦犯裁判問題については陸軍省が主導権を握ることになった[19]

9月15日、マレイ・バーネイズ(Murray C. Bernays)陸軍中佐は、「ヨーロッパの戦争犯罪人の裁判」についての覚書を作成した。この覚書では、戦争以前にドイツが自国民に対して犯した犯罪を裁くことや、「戦争法規に反して殺人、テロリズム、平和的民衆の破壊を犯した共同謀議(conspiracy)」を裁くよう提案している[19][21]。「共同謀議」論は、従来の戦争犯罪に収まらない組織的系統的な残虐行為、いわゆる「人道に対する罪」や、従来の戦争犯罪を行った国家の最高指導者や各級の指導者を裁くために導入されたものであり[22]、具体的にはナチ党と親衛隊突撃隊ゲシュタポを含む国家と党の代理人を訴追するためのものであった[21]。スティムソンは従来自国民に対する犯罪を加えることには反対していたが、バーネイズの見解に同意した。11月9日の陸軍・海軍・国務省首脳会議では共同謀議論の採用と、国際条約に基づく国際法廷の開催が決定されたが、侵略戦争開始についてはなおも検討が加えられることになった[23]。司法省や国務省法律顧問は共同謀議論、そして侵略戦争を犯罪とすることについて批判したが、マルメディ虐殺事件が報道されたこともあって、次第にナチスに対する懲罰意見が強くなり始めた。年末には陸軍法務部長室内に戦争犯罪局が設置され、研究が開始された[24]。1945年1月4日、ルーズベルト大統領は「不戦条約違反の侵略戦争開始」を告発に含めるべきであるという覚書に署名し、1月22日には共同謀議論の採用、侵略戦争開始の訴追等が陸軍・海軍・国務省三長官の間で合意された[25]。4月にはハリー・S・トルーマン大統領がこの三長官合意を採用し、アメリカ政府の戦犯訴追方針が固まった[25]。その後大統領側近のサミュエル・ローゼンマン、司法長官フランシス・ビドル、ロバート・ジャクソンらが中心となり、戦犯裁判の基本造りが開始された[15]

イギリス政府とアメリカ政府の協議が始まったが、イギリス政府は戦犯裁判に難色を示していた。しかしナチス政府が崩壊し、総統アドルフ・ヒトラーが自殺すると、イギリス政府は反対方針を取り下げ、裁判を承諾した。これにはヒトラーが法廷で演説するという事態が避けられたことも一因となっている[25]

戦犯裁判開催は定まったが、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・フランス共和国臨時政府は、中小国が参加するUNWCCを裁判に関与させず、自らが裁判の主導権を握る動きを見せ始めた[26]。UNWCCはこれに抵抗しようとしたが、8月8日には4大国間で国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)が成立し、4大国による戦犯裁判は規定方針となった[27]。ロンドン憲章においては「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」、そしてそれらを犯そうとする「共同謀議」の4点を裁判所の管轄とすることになり、この点では同憲章によって設立された「極東国際軍事裁判」とも共通していた。「人道に対する罪」の導入については、特にロバート・ジャクソンの役割が大きかったと見られている[1]

裁判官

判事は連合国の主要国のうち、ドイツと直接戦ったイギリスアメリカフランスソ連の4か国からそれぞれ2名ずつ選ばれた。


[ヘルプ]
  1. ^ a b c 芝健介 2001, pp. 22.
  2. ^ 「戦争犯罪と法」多谷千香子(岩波書店)P.3-4[1]
  3. ^ 林博史 2004, pp. 26-27.
  4. ^ a b c 林博史 2004, pp. 4.
  5. ^ 林博史 2004, pp. 4-5.
  6. ^ a b c d e f 林博史 2004, pp. 5.
  7. ^ 林博史 2004, pp. 5-6.
  8. ^ 林博史 2004, pp. 6.
  9. ^ 林博史 2004, pp. 6-7.
  10. ^ 林博史 2004, pp. 21.
  11. ^ 林博史 2004, pp. 23.
  12. ^ 林博史 2004, pp. 25.
  13. ^ 林博史 2004, pp. 30-31.
  14. ^ 林博史 2004, pp. 34.
  15. ^ a b 清水正義 2005-05, pp. 191.
  16. ^ 林博史 2004-7, pp. 32.
  17. ^ a b 清水正義 2005-05, pp. 196.
  18. ^ 林博史 2004-7, pp. 52-53.
  19. ^ a b c d e 林博史 2004-7, pp. 53.
  20. ^ 清水正義 2004-11, pp. 82.
  21. ^ a b 清水正義 2009-12, pp. 7.
  22. ^ 林博史 2004-7, pp. 54.
  23. ^ 林博史 2004-7, pp. 55.
  24. ^ a b c d e 清水正義 2005-05, pp. 188-189.
  25. ^ a b c 林博史 2004-7, pp. 61.
  26. ^ 林博史 2004-7, pp. 62.
  27. ^ 林博史 2004-7, pp. 64.
  28. ^ a b 清水正義 2009-12, pp. 4.
  29. ^ 清水正義 2009-12, pp. 11.
  30. ^ 清水正義 2009-12, pp. 1.
  31. ^ a b c d e f 芝健介 2001, pp. 29.
  32. ^ 守屋純 2005-10-31, pp. 4.
  33. ^ 清水正義 2009-12, pp. 5.
  34. ^ 清水正義 2009-12, pp. 5-6.
  35. ^ 清水正義 2009-12, pp. 10-11.
  36. ^ a b 清水正義 2009-12, pp. 12.
  37. ^ 小林宏晨「ニュルンベルグ裁判と弁護人ヤールライス」(『政経研究』第43巻4号/日本大学法学会)
  38. ^ 清水正義 2005-05, pp. 187.
  39. ^ 清水正義 2005-05, pp. 188.
  40. ^ 清水正義 2010-12, pp. 33.
  41. ^ 清水正義 2005-05, pp. 190.
  42. ^ 「しかしニュルンベルクで敗れたドイツを裁く席に座った署名団の一つ、ソヴィエトが――被告たちと同じく―― (ポーランドに対する)侵略戦争を準備し、1939年9月半ばからその戦争を遂行しただけでなく、 さらに加えて1939年12月14日、イギリスとフランスの発議で、ソヴィエトはフィンランド攻撃を理由として すでに国際連盟から追放されていたこと、そしてロンドン協定調印の日、すなわち1945年8月8日、日本に対して 宣戦布告を行なったこと――これらはニュルンベルクでは黙殺されてしまった。 ソヴィエトはポーランド、フィンランド、日本に対して明々白々な侵略戦争を行なったが、このことはニュルンベルクでは何一つ疑いをだしはさまれることもなかったし、ついに罪を問われることもなかった」ヴェルナー・マーザー『ニュルンベルク裁判』西義之訳、403-404頁。
  43. ^ 「いわゆるパルチザン(レジスタンス)の《栄光の》戦いは、卑劣な殺人以外の何ものでもない。この戦いの発案者こそ真の戦争犯罪人である。フランス人、ベルギー人から、よく引用される憎悪を感じたことはない。むしろ、ドイツ軍と占領地住民の友好な関係をいくども目撃しているのだ。―パルチザンたちが頭をもたげるのは、自分たちに生命の危険がなくなった時に限られている。彼らは戦ったのではなく、ドイツ軍の構成員個人をだまし討ちにしたのだ。軍事的に見た場合、パルチザンの行動はドイツ軍の作戦に何の影響をも及ぼしていない。しかし、この国際法にもとる戦闘の発案者たちのために無関係な住民が、ドイツ軍の報復処置によってひどい目にあったのである。国民間の憎悪は、パルチザンの犯罪的投入によって計画通りあおり立てられ、長期にわたって深まっていった」クルト・マイヤー(元武装親衛隊少将)『擲弾兵―パンツァーマイヤー戦記』
  44. ^ 第13条 「裁判所は、訴訟手続に関する規則を作成する。」
  45. ^ 第18条 「公判を、起訴事実により提起された案件の迅速な審理に厳密に限定すること。不当な遅延を生ずるような行為をも防止するため、厳重な手段をとり、起訴事実に関係のない案件および陳述は、その種類のいかんを問わず、一切除外すること」
  46. ^ 第19条 「法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」
  47. ^ 第21条 「法廷は、公知の事実については、証明を求めることなく、これを法廷に事実と認める。また、法廷は、戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む、連合諸国の公文書および報告書並びにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも、同様に法廷に顕著な事実と認める。」
  48. ^ 第26条 「被告人の有罪及び無罪に関する裁判所の判決には、その理由を付する。判決は、最終であって、再審査を許さない。」
  49. ^ 岡野詩子 2012-11, pp. 190.
  50. ^ Die Zeit, Aug. 19, 1960
  51. ^ 池田徳真『プロパガンダ戦史』中公新書,1981年
  52. ^ 芝健介 2001, pp. 38.
  53. ^ ドイツにおける検閲の実態を調査した論文 (censorship in Germany) を参照。
  54. ^ A・J・P・テイラー『第二次大戦の起源』吉田輝夫訳、中央公論社、31-32頁。
  55. ^ ヴェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判』
  56. ^ E. L. Van Roden, "American Atrocities in Germany" または日本語訳のドイツにおけるアメリカの虐待行為を参照。
  57. ^ Principles of International Law Recognized in the Charter of the Nüremberg Tribunal and in the Judgment of the Tribunal, 1950. - 赤十字国際委員会
  58. ^ 大量虐殺(ジェノサイド)の語源学-あるいは「命名の政治学添谷育志、明治学院大学法学研究90号、2011年1月、47p
  59. ^ 1950年11月8日西ドイツ連邦議会 ハンス・ヨアヒム・フォン・メルカッツ(ドイツ党)「ドイツ兵に加えられた名誉毀損は償うことができません。ドイツ兵の名誉は侵害できない確かなものです」、「名誉ある人びとを品位のない環境で拘禁しておく企てには反対しなければなりません。ドイツ人の魂にのしかかる負担を取り除くために、力強い行動が必要です。マンシュタイン将軍やケッセルリンク将軍のような男たち、つまり目下ランツベルクとヴェルルに収監されている男たちとわれわれは一体です。われわれは、われわれの身代わりにかれらにおしつけられたものをともに背負わねばなりません」(石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』より引用)、1952年9月17日西ドイツ連邦議会 ニュルンベルク裁判について フォン・メルカッツ(キリスト教民主同盟)「法的根拠、裁判方法、判決理由そして執行の点でも不当なのです」、メルテン(ドイツ社会民主党)「この裁判は正義に貢献したのではなく、まさにこのためにつくり出された法律をともなう政治的裁判であったことは、法律の門外漢にも明らかです」、エーヴァース(ドイツ党)「戦争犯罪人という言葉は原則として避けていただきたい。……無罪にもかかわらず有罪とされた人びとだからです」(木佐芳男 『〈戦争責任〉とは何か 清算されなかったドイツの過去』 より引用)
  60. ^ リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは開戦時の外務次官であった父親エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーがニュルンベルク継続裁判で有罪になった事について「侵略戦争を指導した」とする罪状を「まったく馬鹿げた非難だった。真実をちょうど裏返しにした奇妙な話である(『ヴァイツゼッカー回想録』より引用)」と全面的に否定している。
  61. ^ 「1950年代には、ユダヤ人大虐殺などナチの犯罪がしばしば意図的に、あるいは無意識のうちにただの戦争犯罪として語られることが多く、ナチの犯罪者が戦犯として恩赦の対象となったことも訴追を阻害した」「戦後長らくナチの犯罪を戦争犯罪と同一視する傾向が強く、そのことがナチの犯罪訴追の障害となってきた事情があった」(石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』より引用)




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

ニュルンベルク裁判に関係した商品

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「ニュルンベルク裁判」の関連用語

ニュルンベルク裁判のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/

モバイルで「ニュルンベルク裁判」を見る




ニュルンベルク裁判のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのニュルンベルク裁判 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2013 Weblio RSS