トーマス・ジェファーソン トーマス・ジェファーソンの概要

トーマス・ジェファーソン

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トーマス・ジェファソン
Thomas Jefferson


任期 1801年3月4日1809年3月4日
副大統領 アーロン・バー(1801年 - 1805年)
ジョージ・クリントン(1805年 - 1809年)

任期 1797年3月4日 – 1801年3月4日
大統領 ジョン・アダムズ

任期 1790年3月22日1793年12月31日
大統領 ジョージ・ワシントン

任期 1783年11月1日1784年5月7日

出生 1743年4月13日ユリウス暦 4月2日)
13植民地バージニア植民地シャドウェル
死去 1826年7月4日(1826-07-04)(83歳)
アメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビル
政党 民主共和党
出身校 ウィリアム・アンド・メアリー大学
配偶者 マーサ・ジェファーソン
子女 マーサ・ワシントン・ジェファーソン
ジェーン・ランドルフ
名前のない息子
メアリー・ジェファーソン・エプス
ルーシー・エリザベス
ルーシー・エリザベス
署名
トーマス・ジェファソンの肖像が描かれた2ドル紙幣
トーマス・ジェファーソンの肖像を入れた2セント切手

妻のマーサ・ジェファーソンは夫が大統領に就任する前に33歳で亡くなっており、代理として娘のマーサ・ワシントン・ジェファーソンファーストレディを務めた。

概要

アメリカ独立宣言(1776年)の主要な執筆者であり、アメリカ合衆国共和制の理想を追求したことで最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人とされている。共和制を推進し、イギリス帝国主義に対抗する偉大な「自由の帝国」[1]の陰にある力としてアメリカの姿を描いた。首都ワシントンD.C.で就任演説を行った最初の大統領である。

大統領就任中にはルイジアナ買収(1803年)やルイス・クラーク探検隊(1804年 - 1806年)を進め、在任中はイギリスのような強国との戦争を回避した。

政治哲学者として啓蒙時代の人物であり、イギリスやフランスの多くの知識人と知り合いだった。共和制の美徳の体現者としてヨーマン(独立自営農民)を理想化し、都市や金融家を信用せず、州の権限や厳しく制限された連邦政府に賛成した。ジェファーソンは政教分離原則を支持し[2]、バージニア信教の自由法(1779年、1786年)を起草した。ジェファーソン流民主主義名祖であり、25年間アメリカ政界を牛耳った民主共和党の創設者かつ指導者だった。戦時のバージニアで知事(1779年-1781年)を務め、初代国務長官(1789年-1793年)および第2代アメリカ合衆国副大統領(1797年-1801年)も歴任した。

博学者であるジェファーソンは数ある得意分野の中でも園芸学者、政治指導者、建築家考古学者古生物学者発明家およびバージニア大学の創設者として傑出していた。ジョン・F・ケネディは1962年にホワイトハウスへ49人のノーベル賞受賞者を招いた席で「私はこの今日お集まりいただいた皆様が、ホワイトハウスにかつて集められた最も秀逸な才能と知識の集大成だと思います. . . トーマス・ジェファーソンがここで一人で食事をした時を除いては」と挨拶した[3]。 2013年現在、2期を完全に務めたアメリカ合衆国大統領の中で、議会の法案に対し一回も拒否権を発動しなかった唯一の人物である。学者達によるアメリカ合衆国大統領の評価でも常に偉大な者の一人とされてきた。

生涯

生い立ちと教育

ジェファソンは1743年4月2日[注釈 1]、ピーター・ジェファーソン(1708年3月29日 - 1757年8月17日)およびジェーン・ランドルフ(1720年2月20日 - 1776年3月31日)の息子としてバージニア植民地に生まれた。両親は共にバージニア入植者の古い家系の出であり、バージニア植民地でも最も著名な人々と密接に関わりのある家庭だった。10人兄弟の3番目であり、兄弟のうち2人は夭折した[4]。母は、船長であり農園主を兼ねていたアイシャム・ランドルフの娘であり、ペイトン・ランドルフの従姉妹かつ富裕なイギリス系ジェントリの孫娘だった。父はアルベマール郡(シャドウェル、当時はエッジヒル)で農園主と測量士をしていたウェールズ人の子孫だった。父の古くからの友人であるウィリアム・ランドルフ大佐が1745年に死んだ時、父は遺言執行人となり、タッカホーにあったランドルフの地所と遺児のトマス・マン・ランドルフ・ジュニアの面倒を見た。この年ジェファーソン家はタッカホーに移転し、そこで7年間過ごした後にアルベマールの自宅に戻った。父はその後当時の重要な地位である郡の大佐の位に指名された[5]

教育

1752年、ジェファソンはスコットランド人の牧師ウィリアム・ダグラスが経営する地元の学校に通い始めた。9歳のとき、ラテン語古代ギリシア語およびフランス語を学び始めた。1757年、14歳の時に父が死んだ。ジェファソンは約5,000エーカー (20 km2) の領地と数十人の奴隷を相続した。ジェファソンはそこに家を建て、それが後にモンティチェロと呼ばれるようになった。

父の死後、1758年から1760年まで学識のある牧師ジェイムズ・モーリーの学校で学んだ。この学校はフレデリックスビル郡のゴードンズビル近くにあり、シャドウェルからは12マイル (19 km) 離れていたので、ジェファーソンアモーリーズ家に下宿した。ここでは古典教育を受け、歴史や科学を学んだ。

1760年、16歳の時にウィリアムズバーグにある、名門ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、大学教育を2年間受け、1762年に優等賞を受けて卒業した。ウィリアム・アンド・メアリー大学では哲学科に入り、ウィリアム・スモール教授の下で数学形而上学および哲学を学んだ。スモールは勉強熱心なジェファソンにジョン・ロックフランシス・ベーコンおよびアイザック・ニュートンなどイギリス経験主義者の著作を紹介した。ジェファソンは彼らのことを「世界が生んだ中でも最も偉大な3人」と呼んだ[6]。ジェファソンはフランス語を極め、何処に行くにもギリシャ語の文法本を持ち歩き、ヴァイオリンを嗜み、タキトゥスホメーロスの本を読んだ。感受性があり勤勉な学生であったジェファソンは、これら全ての分野および家風に貪欲な好奇心を示し、1日に15時間勉強することも多かった。親しい学友であるローズウェルのジョン・ページはジェファソンについて「一番の親友と別れてでも勉強のところに飛んで行ける」と述べている。

ジェファソンは大学時代にフラット・ハット・クラブ協会という秘密結社の会員になった。今日クリストファー卿のレン・ビルと呼ばれる大学の建物に寄宿し、大広間で共通の食事を摂り、レン礼拝堂で朝と夕の礼拝に参加した。バージニア総督フランシス・フォーキエの贅沢なパーティに出席することも多く、そこでヴァイオリンを演奏し、ワインをたしなむことを覚えた[7]。卒業後はジョージ・ワイスと共に法律を勉強し、1767年にバージニア法廷弁護士として認められた。

大学卒業後

1765年10月1日、ジェファソンの長姉ジェーンが25歳で死んだ[8]。既に数年前に姉妹のメアリーがトマス・ボーリングに嫁ぎ、この年7月初頭にはマーサがダブニー・カーと結婚していた。姉妹達がいなくなった寂しさに姉の死は追い打ちをかけ、深い喪失感に陥ることとなった[8]。結婚した姉妹はどちらも夫の家に移っており、家庭には下の妹たちであるエリザベスとルーシーや2人の幼児がいるだけになった。エリザベスとルーシーは姉達のような知的刺激を与えてはくれなかったので、彼女達が居ても心の慰めにはならなかった[8]

ジェファソンはバージニア植民地で弁護士として多くの事件を扱うことにし、1768年から1773年の間は一般裁判所だけで毎年100件以上の訴訟を扱う一方で数百の事例の相談に乗った[9]。ジェファソンの顧客リストには母の家系であるランドルフ家などバージニアの特権階級の家族員が含まれていた[9]。特に黒人の弁護活動に熱心であった。

モンティチェロ

モンティチェロ
1956年の20セント切手に描かれたモンティチェロ

1768年、ジェファソンは新古典様式の邸宅モンティチェロの建設を始めた。ジェファソンは子供時代からシャドウェルの敷地内に美しい山頂のような家を建てたいと思っていた[10][11]。モンティチェロのために大きな借金をしてふんだんに金を使い、華麗な建築家のアンドレーア・パッラーディオや古典形式を研究したことに基づいて新古典様式の環境を創り出した[12]

モンティチェロはジェファソンの奴隷プランテーションでもあった。70年間を通じて600人以上の奴隷を所有した。モンティチェロ・プランテーションにいる奴隷の多くは互いの間で結婚し子供達をもうけた。ジェファソンは煙突あるいは私室の掃除のような難しい仕事をさせるために重要な地位にある信用できる奴隷数人だけに給与を払った。直接労働の日に言及したものは無いが、ジェファソンの奴隷は恐らく夜明けから日暮れまで季節によって長い短いはあっても一日中働いたであろう。断片的な記録では、モンティチェロの奴隷宿舎ではキリスト教とアフリカ人の伝統を取り入れて豊かな精神生活があったことを示している。ジェファソンが奴隷達に文法の教育を指示したという記録は無いが、モンティチェロの幾人かの奴隷は読み書きができた[13]

政歴(1774年から1800年)

ルドルフ・エバンス制作になるジェファソンの彫像、右には独立宣言の抜粋がある

独立に向かうころ

ジェファソンは法律実務を行う傍ら、1769年からアルベマール郡選出のバージニア植民地議会議員となった。1774年イギリスの議会耐え難き諸法が成立した後、それに反対する決議文を書き、それが拡大されて初めての出版物となる『イギリス領アメリカの権利に関する要約』に結実した。耐え難き諸法に対する当初の批判はそれが合法かつ合憲かということが焦点だったが、ジェファソンは植民地人は自分達を治める自然の権利があるという急進的な考えを提案した[14]。またイギリスの議会はイギリスでのみの議会であり、植民地において立法する権限は無いとも主張した[14]。ジョージア3世については、「王は人民の召使であり、主人ではない」と明言した[15]

この文書は第一次大陸会議に向かうバージニア代表団のための指示書として意図されたものだったが、ジェファソンの考え方はあまりに急進的でその代表団には合わないことが分かった[14]。ジェファソンは実際には革命を提唱するまでには至っておらず、植民地を「英領アメリカ」と呼んでいるが[15]、それでも、この小冊子がアメリカ独立の理論的枠組みを作ることに貢献し、ジェファソンは最も思慮深い愛国的代弁者として注目された。

独立宣言の起草

アメリカ独立戦争が始まった直後の1775年6月、ジェファソンは第二次大陸会議のヴァージニア代議員の一人になった[16]。出席した代表中2番目の若さだったにもかかわらず、大陸会議は彼に、イギリス首相フレデリック・ノース卿からの和解の提案に対する拒否など、いくつかの重要文書の起草を委任した[16]

大陸会議が1776年6月にリチャード・ヘンリー・リーの独立決議案を審議し始めたとき、ジェファソンは決議案に伴う宣言を準備するための五人委員会委員に指名された。ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンを含むこの委員会は[16]、ジェファソンを、筆が立つとの評判があったために初稿執筆者に選任した。この役割は形式通りの作業に思われ、当時はそれが大きな責任を伴うものだとは誰も考えなかった[17]。ジェファソンは他の委員に相談し、自分が提案したバージニア憲法の草案やジョージ・メイソンが起草したバージニア権利章典など他の資料から引用した文章で初稿を書き上げた[18]。4ページからなるジェファーソンの独立宣言の草稿は、6月11日から書き始められた[16]

ジェファソンがこの草稿を委員会に見せ、それが最終版になって、6月28日に大陸会議に提出された。7月2日に独立決議案が可決された後、大陸会議は宣言の方に注意を向けた。数日間の議論によって大陸会議は言葉遣いを修正し、全文の4分の1近くを削除した。削除された部分は大西洋奴隷貿易を批判したものであり、この修正にジェファソンは不満だった[19]7月4日アメリカ独立宣言が承認された。この宣言は結果としてジェファソンの名声を上げるものとなり、その雄弁な前文はその後の人権宣言の規範になった[19]

バージニア邦議会の議員

ジョン・トランブルの『独立宣言』。五人委員会がその草稿を大陸会議に提出している。ジェファソンは宣言文を机に置いている中央の背が高い人物。

独立宣言の採択後はバージニアに帰り、9月には新しいバージニア邦議会の議員に選出された。この議員在任中に民主的な国家としてその新しい姿勢を反映させるためにバージニアの法体系を書き換え更新することに取り掛かった。3年の間に長子相続制廃止、信教の自由の確立および司法体系の合理化など126の法案を書いた。1778年、ジェファソンが書いた『知識のより広範な普及のための法案』は、アメリカの大学では初めての研究の選択制導入など、彼の卒業校で幾つかの学際的改革に繋がった。

ジェファソンは邦議会議員である間に、殺人反逆を除き、あらゆる犯罪について極刑を廃止する法案を提案した。その死刑改革法案は1票差で否決され[20]、バージニア州では強姦のような犯罪は1960年代まで死をもって罰せられるものとして残った。ジェファソンは奴隷輸入禁止法は成立させたが、奴隷制そのものを禁止させることはできなかった。

バージニア邦知事

ジェファソンは1779年から1781年までバージニア邦知事を務めた。1780年にはウィリアムズバーグにあった首都を邦の中心に近いリッチモンドに移すことを監督した。国内で初めて学生が管理する倫理規定など、ウィリアム・アンド・メアリー大学の教育改革を提唱し続けた。1779年、ジェファソンの命令で、ウィリアム・アンド・メアリー大学はジョージ・ワイスをアメリカの大学では初の法学教授に指名した。推進しようとし学制改革の進み方が遅いことに不満をつのらせ、後にはバージニア大学の設立者になった。この大学は高等教育が宗教的原理と完全に分離されたものとしてアメリカ合衆国では初の大学になった。

ジェファソンが知事を務めた期間にバージニアはイギリス軍に都合2度侵略された。まずはベネディクト・アーノルド、続いてチャールズ・コーンウォリスが指揮する部隊であった。1781年6月、ジェファソンはパトリック・ヘンリーやその他バージニアの指導者達と共に、イギリス軍の騎兵隊を指揮するバナスター・タールトン大佐によって危うく捕まりそうになった[21]。ジェファソンの業績を大衆が認めなかったためにその後の政治的栄達が遅れ、バージニアでは公職に再度選ばれることは無かった[22]。しかし、1783年には邦議会から大陸会議(この時は連合会議)代表に選出された。

独立戦争

1780年リッチモンドが英軍に占領され、モンティチェロに避難した。大統領誕生以前、彼はイギリスから米国最大の実力者と目されていた。世論は、彼の敵前逃亡を非難した。

連合会議代表

バージニア邦議会は1783年6月6日にジェファソンを連合会議代表に指名し、その任期は11月1日から始まった。ジェファソンは外国為替レートを設定する委員になり、アメリカの通貨は十進法に基づくべきことを推奨した。

また国務委員会すなわち連合会議が会期中に行政府として機能する組織の設定も提案した。

1784年5月7日、ジェファソンは全権公使に選出されたときに連合会議を離れ、1785年に駐フランス公使になった。

駐フランス公使

パリのシャンゼリゼ通りにある記念銘板、ジェファソンが駐フランス公使であったときに住んだ家を示す。この銘板は第一次世界大戦後に、ジェファソンによるバージニア大学設立100周年を記念して建てられた。

ジェファソンは1785年から1789年まで駐フランス公使を務めていたので、フィラデルフィア憲法制定会議には出席できなかった。憲法草案には権利章典が欠けていたにも拘わらず全体的には新しい憲法を支持し、文通相手のジェームズ・マディソンから経過を知らされていた。

パリ滞在中はシャンゼリゼ通りにある家屋に住んだ。多くの時間を割いて市内の見どころある建築を探索し、またパリの提供する芸術を楽しんだ。サロン文化の愛児となり、市内の最も著名な人々に晩餐に招待されることも多かった。ジェファーソン自身もしばしばフランスやヨーロッパの社交界からの人々を饗応した。ジェファーソンはパリに娘達を伴っており、モンティチェロからヘミングス家の2人の奴隷も連れてきていた。ジェームズ・ヘミングスは、授業料を払いフランスのシェフとして訓練させた。ジェームズ・ヘミングスはジェファーソンがフィラデルフィアに居るときにシェフを務めた。ジェームズの妹であるサリー・ヘミングスは亡妻の異母妹でもあったが、ジェファソンの幼い娘に付いて海外に渡った。ジェファーソンはこのパリでサリー・ヘミングスとの長い関係を初め、彼が死ぬまで関係は続き子をもうけている。2人のヘミングスはパリ滞在時代にフランス語を覚えた[23]

1784年から1785年に、ジェファソンはアメリカ合衆国とプロイセンの間の貿易関係を構築した。プロイセンの大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ツレマイアーとアメリカのジョン・アダムズが2人ともハーグに居り、ベンジャミン・フランクリンがパリに居たので、彼等もこの動きに関わった[24]

フランス革命勃発直前のフランス社会をつぶさに観察し、農民の犠牲の上に成り立っていることを強く感じた[25]。ジェファソンは社交界や貴族の特権階級と多くの友好関係を築いたが、1789年にフランス革命が始まったときは革命支持者の側に回った。

国務長官

フランスからの帰国後は、初代大統領ジョージ・ワシントンのもとで初代国務長官をつとめた(1790年-1793年)。ジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンは国家の財政政策、特に戦時負債の資金集めについて争論を始めた。ハミルトンは負債が各州で平等に負担されるべきものと考え、ジェファソンは各州がそれぞれに負った負債について責任があるものと考えた(バージニア州は独立戦争の間に多くの負債を抱えてはいなかった)。連邦党員とのさらなる争論の中で、共和制を脅かすトーリーや君主制主義者とハミルトンや連邦党の他の者達を同一視するようになった。連邦主義を王党主義に擬え、「ハミルトン支持者達は王冠、小冠および司教冠を待ち望み、欲しくて堪らないでいると指摘した[26]。ジェファソンとジェームズ・マディソンは民主共和党を設立し率いた。マディソンや選挙参謀であるジョン・J・ベックリーと共に全国的な共和主義者の同盟ネットワークを作るために動き、国中の連邦党支持者と戦った。このころ、アメリカの首都をニューヨークからワシントンに移転することが決められた。ジェファーソンは1793年にフランスとイギリスが開戦したときに強くフランスを支持した。歴史家のローレンス・S・カプランは、ワシントンがこの戦争にアメリカ合衆国は巻き込まれるべきではないと言っていることに同意しながらも、ジェファソンが「心情的にはフランス側を支持した」と述べている[27]。1793年に行動的なフランス公使エドモン=シャルル・ジュネが着任して、アメリカの中立を変えさせようと世論を操作し、大衆にアピールしようとした。これを危険視したジェファソンは阻止を図った。シャクナーに拠れば、ジェファソンは国内での政治的成功はヨーロッパでのフランス軍の成功に掛かっていると考えた[28]

トーマス・ジェファソン、タデウシュ・コシチュシュコによる彩色アクアチント

ジェファソンはフランスに対する共感に固執し、フランス軍が海外で成功し国内で元気付けられることを期待した。フランスがヨーロッパの戦場で失敗することは、「わが国の君主制支持者を途方もなく元気付け、政府運営の基調に疑いなく影響する。実際にこの夏がフランスにとって悲惨な結果になれば、私が多くの改革を期待している新しいアメリカ合衆国議会における共和制推進の活力を落とすことになるだろう」と恐れていた。

公職を離れて

ジェファソンは1793年暮れに20数年ぶりにモンティチェロに戻り、そこでハミルトンやワシントンに対する反対運動を画策した。しかし、ハミルトンが主導した1794年ジェイ条約がイギリスとの和平と貿易復活をもたらし、一方ジェファソンから強く支持されていたマディソンは戦争をせずに「かつての母国と戦うことを」望んだ[29]。「『商業という武器』がアメリカ合衆国の選ぶ条件にイギリスを同意させるに足るというのが共和制推進者のあいだの信条になった」。公職を離れていたジェファソンは強くマディソンを後押しした[29]。 自宅を新築し、後にアメリカの住居としては唯一世界遺産に登録されている。また、ひたすら農業に従事し研究もした。現在、ホワイトハウスの農場には、この地の種子がまかれている。

1796年の大統領選挙と副大統領

1796年アメリカ合衆国大統領選挙でジェファソンは民主共和党の候補者となり、ジョン・アダムズに敗れはしたが、選挙人投票で2位となって副大統領に就任した(1797年-1801年)。この期間にジェファソンは議会手続きのマニュアルを書いたが、その他のことでは上院での議論を回避した。

フランスとの宣戦布告なき海洋戦争である擬似戦争が進行している中で、ジョン・アダムズが指導する連邦党は海軍を作り、陸軍を強化し、新しい税を課し、戦争の準備をし、また1798年には外国人・治安諸法を制定した。ジェファソンは外国人・治安諸法が危険な敵性外国人よりも自分の民主共和党に対する攻撃だと解釈した。それらの法はバーモント州選出のアメリカ合衆国下院議員マシュー・ライアンからの最も著名な攻撃を初めとして民主共和党に対する攻撃に使われた。ジェファソンとマディソンは、連邦政府が各州によって具体的に委嘱されていない権限を行使する権利が無いことを宣言したケンタッキー州およびバージニア州決議を匿名で書くことで、民主共和党側への支援を訴えた。この決議は、もし連邦政府がそのような権限を行使した場合に、その法は1つの州によって無効化され得るということを意味した。この決議は州の権限理論を始めて世に出したものであった。

1800年の大統領選挙

ジェファソンはニューヨーク州出身のアーロン・バーと密接に協力しながら自党を糾合し、特に新税を攻撃し、1800年のアメリカ合衆国大統領選挙に打って出た。当時の習慣に従い、公然たる選挙運動はしなかった。アメリカ合衆国憲法修正第12条の成立前に、この新しい国の選挙制度の問題が露呈した。選挙人選挙でジェファソンとバーの得票数が同数で1位となり、アメリカ合衆国下院(このときはまだ連邦党が多数党だった)で当選者を決めることになった。

レンブラント・ピールによるジェファソンの肖像画、1800年

連邦党が支配する下院で行われた長い討議の後で、ハミルトンはジェファソンがバーよりも政治的悪にはならないだろうと自党を説得した。このような選挙制度の醜聞は新生間もないこの国を弱めることになるだろうとも言った。1801年2月17日、下院での31回目の投票が行われてジェファソンが大統領に、バーが副大統領に選ばれることで、この問題は決着した。次の1804年の選挙のとき、ジェファソンがバーを副大統領候補から外すとしたことで、バーのジェファソンに対する悪意が生じた。ジェファソンはバーが決闘でハミルトンを殺した後で、バーを候補者から外した。

この時の選挙でジェファソンが連邦党のジョン・アダムズに勝利した事は当時、選挙人選挙制度が5分の3妥協(奴隷人口の5分の3を各州自由人人口に加算し、その総数で選挙人数が割り当てられた)に準拠していたことを明るみに出し、嘲笑の対象となった。ジェファソンが選ばれたことは、南部が奴隷を保有しているために南部の選挙人数が増されていることに拠っていた。つまりジェファソンの得た選挙人票のうち12票は選挙権が無く、その人間性も否定されている奴隷の数から得ていたものだった(ジェファソンとアダムズの選挙人選挙得票数の差は8票だった)[30][31]。ジェファソンが1当選した後に「ニグロ大統領」と嘲られ、「マーキュリー・アンド・ニューイングランド・パラディウム・オブ・ボストン」紙の1801年1月20日版では、ジェファソンが「奴隷の肩に負わせた自由の神殿」を勝ち得たときに民主主義の勝利としてその当選を祝う苦痛があった、というような批判記事が載った"[31][32]

大統領(1801年から1809年)

大統領1ドル銀貨のジェファーソン

独立戦争時、貧弱な軍備のために敵前逃亡した苦い経験から、富国強兵政策を推進した。ジェファーソンは連邦政府の多くの税を撤廃し主に関税収入に頼ろうとした。ジョン・アダムズ政権で成立しており、ジェファーソンが違憲だと信じていた外国人・治安諸法の下で投獄されていた人々を釈放した。1801年の司法権法を撤廃し、アダムズの「真夜中の判断」で任命されていた多くの判事を解職した。このことで「マーベリー対マディソン事件」に関する重要な最高裁判所判決が導かれることになった。ジェファーソンは、アメリカとしては初の重要な海外戦争となった第一次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)を指揮してこれに勝利した。1802年にはウェストポイント陸軍士官学校を設立した。

1803年、連邦議会の土地を購入する権限について合憲性に疑念があったにも拘らず、ミシシッピ川以西のルイジアナフランスから1500万ドルで買収した(アメリカの小学生用歴史教科書にはジェファーソンは、「わが国のために、おそらく史上最大のバーゲン品を買い上げた」と紹介されている)。こうして得られた土地は現在のアメリカ合衆国領土の23%に相当している。

1807年、ジェファーソン政権では最初の副大統領だったアーロン・バーがジェファーソンの命令で反逆罪で裁判に掛けられたが、無罪となった。この裁判では首席裁判官のジョン・マーシャルがジェファーソンを召還したが、ジェファーソンは大統領特権を行使し、大統領として従う必要は無いと主張した。マーシャルが憲法では裁判所命令に従う任務について大統領に例外を認めていないと主張し、ジェファーソンが折れた。

2期目の終わりに撤廃された1807年の通商禁止法が効果が無かったことはジェファーソンの評判を傷つけた。

1803年、ジェファーソンは黒人をアメリカ合衆国の郵便を運ぶ業務から排除する法案に署名した。歴史家のジョン・ホープ・フランクリンは、この署名を「それをすることで利益を得られない自由黒人に関する根拠の無い嫌悪の表明」と呼んだ[33]

1807年、3月3日、ジェファーソンはアメリカ合衆国で奴隷の輸入を違法とする法案に署名した[34][35]

内閣

レンブラント・ピールによるジェファーソンの肖像画、1805年
職名 氏名 任期
大統領 トーマス・ジェファーソン 1801年 - 1809年
副大統領 アーロン・バー 1801年 - 1805年
ジョージ・クリントン 1805年 - 1809年
国務長官 ジェームズ・マディソン 1801年 - 1809年
財務長官 サミュエル・デクスター 1801年
アルバート・ギャラティン 1801年 - 1809年
陸軍長官 ヘンリー・ディアボーン 1801年 - 1809年
司法長官 レヴィ・リンカーン 1801年 - 1804年
ロバート・スミス 1805年
ジョン・ブレッキンリッジ 1805年 - 1806年
シーザー・オーガスタス・ロドニー 1807年 - 1809年
郵政長官 ジョセフ・ハーバーシャム 1801年
ギデオン・グレンジャー 1801年 - 1809年
海軍長官 ベンジャミン・ストッダート 1801年
ロバート・スミス 1801年 - 1810年
指名した最高裁判所判事
加盟させた州

大統領職後

大学の父

バージニア大学のザ・ローン

ジェファーソンは大統領職を辞した後も、公的な事業での活動を続けた。アダムズとも復縁し多くの書簡を交わした。新しい高等教育機関の設立に次第に関心を寄せるようにもなり、特に他の大学では提供していないような新しい多くの分野で学生達が専門化できる、教会の影響のない機関にこだわった。ジェファーソンは人を教育することは組織化された社会を造るための良い方法だと考え、学校は一般大衆によってその費用を賄われることで、それほど裕福でない者でも学ぶことができるようにすべきだと考えた[36]。1800年1月にイギリス出身の化学者ジョゼフ・プリーストリーに宛てた手紙で大学をずっと前から作ろうと思ってきたことを伝えていた。

その夢は1819年バージニア大学を創立することで実現した。当時、バージニア住民は高等教育を受けるために他州に行く必要があった。1825年に開校したとき、学生に選択コースリストを提供したことでは初めての大学になった。大学は当時の北アメリカで最大級の建設プロジェクトとなり、教会ではなく図書館を中心に据えたことで特徴があった。当初の計画ではキャンパスに礼拝堂が無かった。ジェファーソンは死ぬまで学生や教員を自宅に招いた。

ジェファーソンはバージニア大学敷地の建築設計に携わったと広く認められている。それは新しい共和国で州が提供する教育と農業民主主義という強い願望を強烈に表明する革新的なデザインになった。学びのための特化された施設を創設するというその教育に関する概念は、自身が「学際村」と呼んだキャンパス配置計画に具体的に現されている。個々の学術施設は芝生のある中庭に面したパビリオンによって視覚的に特徴ある形に現され、各パビリオンには教室、教員室および住宅を収容している。個々の建物は特徴あるが視覚的な重要性では平等であり、学生の宿泊設備の前面ファサードになっている屋外アーケードで繋がれている。背面には庭園や菜園があり、蛇行した壁で囲まれ農本的生活様式の重要性を主張している。

ジェファーソンの指示でピーター・マーベリックが書いたバージニア大学の配置図

ジェファーソンが特に注文した配置計画はザ・ローンと名付けた中央の矩形の中庭を取り囲む建物群の調和であり、その中庭の端は教室とそれを繋ぐアーケードで仕切られている。中庭の一端はテーブル上座にあたる場所で、知識の宝庫である図書館で仕切られている。図書館の反対側は将来の拡張のために開放されたままだった。芝生は一連の階段つきテラスの所でせりあがり、他の部分よりは数フィート高くなっている。頂点として最も目立つ場所にある図書館まで立ち上がっている。一方でこの学際村が将来への容易な動きを与えることも示唆している。

建築様式を見ると、ジェファーソンが歴史的連想でアメリカの民主主義を最もよく現すものと考えた古代ギリシャ様式やローマ様式の提唱者だった。各学術棟は中庭に面した2階建ての寺院として設計され、図書館はローマパンテオンを模されている。中庭を取り囲む建物の調和は、間違いなく非宗教的な公共教育の重要性を建築的に表明したものであり、宗教色の排除は政教分離原則を補強している。このキャンパスの計画と建築上の扱いは今日でも知的考え方と願望を表現するためのビル建築のパラダイムとして機能している。アメリカ建築学会会員による調査によって、このジェファーソンのキャンパスをアメリカで最も意義ある建築作品と評価した。

この大学はバージニアの教育体系の頂点に来るものとして考案された。ジェファーソンの考えでは州内の市民なら誰でも一定の能力基準を満たすだけで入学できるものとされた。

死去

ジェファーソンの墓石

ジェファーソンは1826年7月4日、アメリカ独立宣言の採択から50周年の記念日にバージニア州で83歳で死去した。奇しくも先輩大統領であり、独立を求めた同国人、偉大な政治的ライバル、後には友人となり文通相手でもあったジョン・アダムズも同じ日の数時間後にマサチューセッツ州で死去した。 ジョン・アダムズの臨終の言葉は、「トーマス・ジェファーソンは…」であった。最後の部分はほとんど声になっていなかったが、「不滅である」と語ろうとしたと言われている[37]

ジェファーソンは北アメリカでも最も裕福な家系に生まれたが、死ぬ時は大きな負債があった。

ジェファーソンのトラブルは義父が死んだ時に始まった。ジェファーソンと義兄弟は義父の負債が決済される前に素早くその資産を分割してしまった。このことで彼らのそれぞれが負債の全額に責任ある形となり、予想したものよりも高額になったことが分かった。

ジェファーソンは負債を支払うために独立戦争前に土地を売却したが、その代金を受け取る前に、戦時の突拍子も無いようなインフレの中で紙幣は無価値なものに変わった。戦中にチャールズ・コーンウォリスがジェファーソンのプランテーションを荒廃させており、戦争が終わったときにイギリスの債権者が集金を再開した。また1819年の金融危機で負債を払わなかった親戚や友人の約束手形に署名していた。ジェファーソンの公的な声望のみで、生前に債権者達がモンティチェロを押収し売り飛ばしてしまう事態を免れた。

ジェファーソンの死後、その所有地は競売で売却された。1831年、552エーカー (2.34 km2) の土地はジェイムズ・T・バークレーに7,000ドル(今日価格で14万ドル相当)で売却された。ジェファーソンはバージニア州シャーロッツビルにあるモンティチェロ荘園に埋葬されている。その遺志によってモンティチェロはアメリカ合衆国に託され、海軍士官の孤児のための学校に使われることとされた。彼自身が書いた墓碑銘には、彼自身の言葉と「これ以上の言辞はない」とのみ記されている(バージニア州知事、副大統領および大統領を務めたことは省かれているのが特徴)[38]。墓碑銘は以下の通りである。

HERE WAS BURIED THOMAS JEFFERSON
AUTHOR OF THE DECLARATION OF AMERICAN INDEPENDENCE
OF THE STATUTE OF VIRGINIA FOR RELIGIOUS FREEDOM
AND FATHER OF THE UNIVERSITY OF VIRGINIA
ここにトーマス・ジェファーソンは眠る
アメリカ独立宣言の作者
信教の自由を求めたバージニアの法の作者
そしてバージニア大学の父

墓碑銘の下にある別の銘板

BORN APRIL 2 1743 O.S.
DIED JULY 4 1826
旧暦1743年4月2日生まれ[注釈 1]
1826年7月4日死去

注釈

  1. ^ a b c トーマス・ジェファソンの出生日と死亡日は通常グレゴリオ暦を使って表示されている。しかし彼が生まれた時はまだ、イギリスとその植民地はユリウス暦を使っていたので、当時の記録(ジェファソンの墓石を含み)は1743年4月2日となっている。1752年に執行された1750年新暦法の規定でグレゴリオ暦に従った日付に改訂された。

出典

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