チベット民族 文化・宗教

チベット民族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 14:29 UTC 版)

文化・宗教

宗教としては大多数が、8世紀に国教と定められたチベット仏教の信者であるが、近年では世俗化が進んでいる。またボン教イスラム教の信者もいる。

チベット民族は月の質に基づいて日、月、年を計算する独自のカレンダーを使う。何世紀にもわたる開発の後、 チベット暦は成熟したシステムになった。

遺伝子

父系遺伝子

ハプログループD、C、Fの分布

チベットでは、D1a1a-M15が16%、D1a1b⁻P99が33%、とD1a1-Z27276系統だけで約半数の49%を占めている[3]。別の調査では、ハプログループDが42.9%、ハプログループO2が40.0%、ハプログループNが8.6%、ハプログループR1a1が8.6%である[4]ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本チベットおよびアンダマン諸島のみである(日本では32%前後、沖縄では55%前後、アイヌでは88%前後、チベットでは約30~50%、アンダマン諸島南部では73%)。ただし、それぞれの地域でタイプは異なっており(アンダマン諸島(ジャラワ族オンゲ族)はパラグループD1a3、日本列島(大和民族アイヌ民族琉球民族)はハプログループD1a2、チベット民族はハプログループD1a1)[5]、各々の分岐年代は少なくとも3.5万年以上前である[6]。またチベット人からはD系統とE系統の祖形DEから直接分岐したDE*もわずかに観察されている[7]

その他

ヒトは、酸素の薄い環境ではヘモグロビンの量を増加させる遺伝子EPAS1英語版を持っている。しかし、ヘモグロビンが増えすぎると、高血圧症や、新生児低体重および死亡の原因となる。しかし、チベット人は、ヘモグロビンの生産量を抑制するようにEPAS1が変異しているとされ、これはデニソワ人と交配した際に獲得したとの説がある。これにより、チベット人は高地での生活に適応したとされる[8]

歴史

5世紀頃からホタン方面から入ってきた遊牧民の政権が王国を建設した。テュルク諸語モンゴル語などではトベットとよび、漢文では吐蕃と記される。7世紀頃に盛強となる。その後も異民族による直接支配を受けたことがなく、1642年にはダライ・ラマ政権が成立した。

1723-32年の「雍正のチベット分割」により、チベットの東部(アムド全域・カム東部)の諸侯は分割されて青海およびチベットに隣接する甘粛四川雲南に分属し、西寧弁事大臣と甘粛・雲南の巡撫四川総督などの中国の地方官より六部の「兵部」を介し、清朝皇帝から所領の安堵を受けることとなった。引き続きダライ・ラマとチベット政府ガンデンポタンの管轄下に置かれたチベットの中央部(ウーツァン)および西部(ガリ)は、中国側ではまとめて「西蔵」と称されるようになった。

1912年の辛亥革命により清国が滅亡すると、ガンデンポタンはチベット全土の奪還を目指して東征の軍を起こしたが、甘粛・青海を掌握する馬氏政権、四川・雲南の地方政権などに阻まれた。その後、中華民国の全時期(1912-1949)を通じ、中国の地方政権がチベットの東部を分割支配し、チベットの西部・中央部をガンデンポタンが掌握するという形勢は変わらなかった。

1949年に建国した中華人民共和国は、まず1949年から1950年にかけて中華民国の諸地方政権が支配していたチベット東部を掌握、ついで1950年にガンデンポタン治下のカム地方の西部に侵攻、翌1951年にはガンデンポタンを屈服させて(十七ヶ条協定)チベットの西部・中央部を制圧した(いわゆる西蔵和平解放)。1955年、チベットの東部で勃発した抗中蜂起は1959年中央チベットに波及、1959年3月10日のラサ市民の蜂起、中国軍による鎮圧をへて[9]、チベットの君主ダライ・ラマ、チベット政府ガンデンポタン、約10万人の難民がチベットを脱出し、チベットの全土が中国の直接統治下に組み込まれた。

2017年現在は独立国家としてブータン王国を持っているが、他の地域では他国の支配を受けている。特に中国支配下のチベット本土においては自治拡大を主張している。


  1. ^ 中国の2000年の国勢調査・第5次人口普査統計でチベット族(蔵族)として識別された数。中国政府が公認する56の民族の中で10番目に多い
  2. ^ ダライ・ラマ14世とチベット”. ダライ・ラマ法王日本代表部事務所. 2012年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月30日閲覧。
  3. ^ Hammer MF, Karafet TM, Park H et al. (2006). "Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes". J. Hum. Genet. 51 (1): 47–58. doi:10.1007/s10038-005-0322-0. PMID 16328082.
  4. ^ Yali Xue et al 2006, Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times Archived September 6, 2008, at the Wayback Machine.
  5. ^ 崎谷満 『DNAが解き明かす日本人の系譜』 勉誠出版
  6. ^ Shi, Hong; Zhong, Hua; Peng, Yi; Dong, Yong-li; Qi, Xue-bin; Zhang, Feng; Liu, Lu-Fang; Tan, Si-jie et al. (October 29, 2008). “Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations”. BMC Biology (BioMed Central) 6: 45. doi:10.1186/1741-7007-6-45. PMC 2605740. PMID 18959782. http://www.biomedcentral.com/1741-7007/6/45 2018年8月4日閲覧。. 
  7. ^ Shi H, Zhong H, Peng Y et al. (2008). "Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations". BMC Biol. 6: 45. doi:10.1186/1741-7007-6-45. PMC 2605740. PMID 18959782.
  8. ^ Richard INGHAM (2014年7月3日). “チベット人の高地適応能力、絶滅人類系統から獲得か 国際研究”. AFPBB News. https://www.afpbb.com/articles/-/3019567 2014年7月5日閲覧。 
  9. ^ マッシモ・イントロヴィーニャ (2018年12月13日). “1959年のラサの戦いはどのようにして起きたのか - 今週の特集”. Bitter Winter (日本語). 2019年3月19日閲覧。


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