ジャンヌ・ダルク 後世への影響と評価

ジャンヌ・ダルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 02:37 UTC 版)

後世への影響と評価

ジャンヌは文盲だったため、書簡はすべて口述筆記させたものだった。現存する3通のジャンヌの書簡にはジャンヌの署名が入っている。

ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。この発見からまもなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ(Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった[70]。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている[71]

辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある[23]。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている[72]。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。

その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 — スティーヴン・リッチー[72]

男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌはフェミニストではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、時には言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった[注 13][注 14]

しかし、ジャンヌが受けた重要な支援のなかには女性から受けたものもある。シャルル7世の姑であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、彼女がオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったリニー伯の叔母ジャンヌ・ド・リュクサンブールは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくは彼女がイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ3世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公の妃アンヌも、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった[注 15] 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが、のちにジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者クリスティーヌ・ド・ピザンから今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている[73]

ジャンヌはナポレオン1世時代から、フランスを代表する政治象徴だとみなされている。第二次世界大戦では、親ドイツヴィシー政権と反ドイツのフランス・レジスタンス英語版の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌがナチの占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である国民戦線もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。

フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1931年竣工の軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1964年竣工のヘリ空母ジャンヌ・ダルクである。


注釈

  1. ^ D'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓にアポストロフをつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。ジャンヌ自身は Jehanne と綴ったといわれている www.stjoan-center.com/Album/, parts 47 and 49; it is also noted in Pernoud and Clin).
  2. ^ 現代の研究書ではジャンヌの誕生日が1月6日だと断言しているものが多い。しかしながら、ジャンヌは自身の年齢でさえも推測で答えることしかできなかった。ジャンヌの復権審理の場でもジャンヌの年齢は推測であり、復権審理に証人として出廷したジャンヌの名付親ですら、ジャンヌの生年月日を明らかにすることはなかった。1月6日がジャンヌの誕生日であるという説は、1429年7月21日のペルスヴァル・ブーランビリエ卿の証言を元にした書簡ただ1つに拠っている[1]。しかしながらブーランビリエはドンレミの出身ではなく、このブーランビリエが語ったとされる証言の記録も残っていない。教区教会の出生記録に貴族以外の誕生日が記録され始めたのは、数世代後になってからのことである[要出典]
  3. ^ 他にフランスの守護聖人として、聖ドニ聖マルタン聖王ルイ9世聖テレーズなどがいる。
  4. ^ シャルル7世は1429年12月29日にジャック一家の家格を引き上げ、1430年1月20日には貴族に叙したというフランス会計院の記録が残っている。これによってジャック一家の姓は「ドゥ・リス(du Lys)」に変わった。
  5. ^ 歴史書や小説では、ジャンヌを冷遇したデュノワを別の名前で記していることが多い。ジャンヌの死後にデュノワが叙爵された、デュノワ伯爵という称号で記述している書物もある。ジャンの存命時には、デュノワは庶子でフランス王シャルル7世の最年長の従兄弟だったことから敬意をこめて「オルレアンの私生児」と呼ばれていた。現在の「私生児(bastard)という言葉には侮蔑的な意味が強いため、「私生児」と呼ばれていた当時のド・デュノワが馬鹿にされていたと勘違いされることも少なくない。オルレアン公家との関係を強調した「ジャン・ドルレアン(Jean d'Orleans)」という呼称は必ずしも正確ではないが、時代錯誤的な間違いとはいえない (see Pernoud and Clin, pp. 180 – 181)。
  6. ^ 敬虔なカトリック教徒はこの出来事がジャンヌが聖なる使命を帯びていたことの証拠だと見なしている。シノンとポワチエで、ジャンヌはオルレアンへ向かえという神の声を聴いたと公言した。オルレアンでの戦功で高まったジャンヌの名声は、アンブラン大司教などの有力な聖職者や著名な神学者ジャン・ジェルソンからの支持を得ることにつながった。両者ともにこの出来事の直後にジャンヌを支持する声明を発表している
  7. ^ 歴史家たちの間でもラ・トレモイユに対する非難の度合いには温度差があり、ちょっとした陰謀に加担したというものから、口を極めて罵倒しているものまでさまざまである。Gower, ch. 4.[1] (Retrieved 12 February 2006) ,Pernoud and Clin, pp. 78 – 80; DeVries, p. 135; and Oliphant, ch. 6.[2] . Retrieved 12 February 2006.
  8. ^ 判事たちによる予審が1月9日から3月26日まで、通常の審理が3月26日から5月24日まで、異議申し立てが5月24日、再審理が5月28日と29日という日程だった。
  9. ^ 後の復権裁判では、コーションがジャンヌの裁判について何の権能も持っていなかったことが判決文中に明示されている(Joan of Arc: Her Story, Pernoud and Clin, p. 108)。フランス人の副裁判官は、最初からこの裁判は管轄外であるとして異議を唱えていた。
  10. ^ 中世装束の専門家アドリアン・ハルマンは、ジャンヌが20もの留め具で上着と結びつけられた2枚のズボンを着用していたとしている。さらに表のズボンはブーツのような皮革製だった。"Jeanne d'Arc, son costume, son armure."[3](フランス語) . Retrieved 23 March 2006.
  11. ^ Condemnation trial, p. 78.[4] (Retrieved 12 February 2006) ポワティエの神学理論教授でジャンヌの復権裁判でも証言した司祭セガンは、直接的にはジャンヌの服装について言及していないが、その供述はジャンヌが非常に信心深い女性だったかということを肯定する心情にあふれている。[5] . Retrieved 12 February 2006.
  12. ^ ジャンヌはカトリック教会公式サイトで、もっとも閲覧されている聖人となっている [6]。Retrieved 12 February 2006.
  13. ^ 通説とは異なり、もちろん売春も行われてはいたが、女性の非戦闘従軍者の主な役割はそれではなく、炊事洗濯、荷駄運搬といった支援の役目を果たしていた。また、従軍している兵士であることも多かった。Byron C. Hacker and Margaret Vining, "The World of Camp and Train: Women's Changing Roles in Early Modern Armies".[7] . Retrieved 12 February 2006.
  14. ^ ジャンヌの上司だったアランソン公は、ジャンヌがサン=ドニで非戦闘従軍者に向けて剣を叩き折るのを目撃した。ジャンヌの小姓だったルイ・ド・コンテは復権裁判で、ティエリ城近くで起きたこの出来事は単なる口頭での注意に過ぎなかったと証言している。 [8] . Retrieved 12 February 2006.
  15. ^ ジャンヌの聴罪司祭が処女膜検査と記している手法は、処女かどうかを判断するのに十分とはいえない。しかし、当時の最上流階級の既婚女性たちが賛同した手法だった。 Rehabilitation trial testimony of Jean Pasquerel.[9] Retrieved 12 March 2006.
  16. ^ これらの仮説の多くが、医学者からではなく歴史研究者によって唱えられている。ジャンヌの幻視を疾病に求めた医学者の論文としては次のようなものがある。
    d'Orsi G, Tinuper P (August 2006). “"I heard voices...": from semiology, an historical review, and a new hypothesis on the presumed epilepsy of Joan of Arc”. Epilepsy Behav 9 (1): 152–7. doi:10.1016/j.yebeh.2006.04.020. PMID 16750938. http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S1525-5050(06)00175-2.  (idiopathic partial epilepsy with auditory features)
    Foote-Smith E, Bayne L (1991). “Joan of Arc”. Epilepsia 32 (6): 810–5. doi:10.1111/j.1528-1157.1991.tb05537.x. PMID 1743152.  (epilepsy)
    Henker FO (December 1984). “Joan of Arc and DSM III”. South. Med. J. 77 (12): 1488–90. doi:10.1097/00007611-198412000-00003. PMID 6390693. http://meta.wkhealth.com/pt/pt-core/template-journal/lwwgateway/media/landingpage.htm?issn=0038-4348&volume=77&issue=12&spage=1488.  (various psychiatric definitions)
    Allen C (Autumn–Winter 1975). “The schizophrenia of Joan of Arc”. Hist Med 6 (3–4): 4–9. PMID 11630627.  (schizophrenia)
  17. ^ 「当初の彼女(ジャンヌ)は狂人ではないかとみなされており、(ほうてき)すべきだという意見もありました。しかしながら彼女の立ち居振る舞いに皆が魅了されていったのです」:復権裁判での王室顧問官未亡人マルグリットの証言。 [10] Retrieved 12 February 2006.

出典

  1. ^ a b (see Pernoud's Joan of Arc By Herself and Her Witnesses, p. 98: 「ブーランビリエはジャンヌがドンレミで生まれたと語った。そして正確な、あるいは正確だと思われるジャンヌの誕生日は、御公現の祝日1月6日だと証言した」
  2. ^ Chemainus Theatre Festival > The 2008 Season > Saint Joan > Joan of Arc Historical Timeline”. Chemainustheatrefestival.ca. 2013年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年11月30日閲覧。
  3. ^ http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=295
  4. ^ アカデミー・フランセーズ国語辞典([11])(Dictionnaire de l'Académie française, 仏語)
  5. ^ 新グローバル英和辞典([12]
  6. ^ Marina Warner, Joan of Arc, Image of Female heroism, p.5
  7. ^ a b Andrew Ward (2005) Joan of Arc - IMDb(英語)
  8. ^ John Aberth. From the Brink of the Apocalypse,Routledge, 2000 ISBN 0-415-92715-3, ISBN 978-0-415-92715-4 p. 85
  9. ^ DeVries, pp. 27 – 28.
  10. ^ Charles VI”. Institute of Historical Research. 2010年3月9日閲覧。
  11. ^ The Glorious Age of the Dukes of Burgundy”. Burgundy Today. 2010年3月9日閲覧。
  12. ^ DeVries, pp. 15 – 19.
  13. ^ Pernoud and Clin, p. 167.
  14. ^ DeVries, p. 24.
  15. ^ Pernoud and Clin, pp. 188 – 189.
  16. ^ DeVries, p. 24, 26.
  17. ^ Pernoud and Clin, p. 10.
  18. ^ DeVries, p. 28.
  19. ^ Condemnation trial, p. 37.[13]. Retrieved 23 March 2006.
  20. ^ Pernoud and Clin, p. 221.
  21. ^ Condemnation trial, pp. 58 – 59.[14]. Retrieved 23 March 2006.
  22. ^ DeVries, pp. 37 – 40.
  23. ^ a b Nullification trial testimony of Jean de Metz.[15]. Retrieved 12 February 2006.
  24. ^ Oliphant, ch. 2.[16]. Retrieved 12 February 2006.
  25. ^ a b Richey, p. 4.
  26. ^ Richey, Stephen W. (2000年). “Joan of Arc: A Military Appreciation”. The Saint Joan of Arc Center. 2011年7月10日閲覧。
  27. ^ a b Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 55.
  28. ^ Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 56.
  29. ^ ペルヌー & クラン 1992, p. 74 - 76.
  30. ^ 清水 1994, p. 148 - 150.
  31. ^ Perroy, p. 283.
  32. ^ Pernoud and Clin, p. 230.
  33. ^ DeVries, pp. 74 – 83
  34. ^ DeVries, pp. 96 – 97.
  35. ^ Nullification trial testimony of Jean, Duke of Alençon.[17] . Retrieved 12 February 2006.
  36. ^ 清水 1994, p. 197 - 201.
  37. ^ DeVries, pp. 114 –115.
  38. ^ DeVries, pp. 122 – 126.
  39. ^ Lucie-Smith, pp. 156 – 160.
  40. ^ DeVries, p. 134.
  41. ^ Pernoud and Clin, pp. 258 - 259.
  42. ^ a b Geiger,Barbara (April 2008). “A Friend to Compiegne”. Calliope Magazine 18 (8): 32 – 34. 
  43. ^ DeVries, pp. 161 – 170.
  44. ^ Pernoud, Regine. Joan of Arc: Her Story, p. 96.
  45. ^ 清水 1994, p. 265 - 272.
  46. ^ "Joan of Arc, Saint". Encyclopædia Britannica. 2007. Encyclopædia Britannica Online Library Edition. 12 September 2007 <http://www.library.eb.com.ezproxy.ae.talonline.ca/eb/article-27055[リンク切れ]>.
  47. ^ Nullification trial testimony of Father Nicholas Bailly.[18] . Retrieved 12 February 2006.
  48. ^ Taylor, Craig, Joan of Arc: La Pucelle, p. 137.
  49. ^ Condemnation trial, p. 52.[19] . Retrieved 12 February 2006.
  50. ^ a b Pernoud and Clin, p. 112.
  51. ^ Shaw, "Saint Joan". Penguin Classics; Reissue edition (2001). ISBN 0-14-043791-6
  52. ^ Pernoud and Clin, p. 130.
  53. ^ Condemnation trial, pp. 314 – 316.[20] . Retrieved 12 February 2006.
  54. ^ Condemnation trial, pp. 342 – 343.[21] (Retrieved 12 February 2006) Also nullification trial testimony of Brother Pierre Migier, "As to the act of recantation, I know it was performed by her; it was in writing, and was about the length of a Pater Noster."[22] (Retrieved 12 February 2006) In modern English this is better known as the en:Lord's Prayer, Latin and English text available here:[23] . Retrieved 12 February 2006.
  55. ^ See Pernoud, p. 220, which quotes appellate testimony by Friar Martin Ladvenu and Friar Isambart de la Pierre.
  56. ^ Nullification trial testimony of Jean Massieu.[24] . Retrieved 12 February 2006.
  57. ^ Nullification trial testimony of Guillaume de Manchon.[25] . Retrieved 12 February 2006.
  58. ^ Fraioli, "Joan of Arc: The Early Debate", p. 131.
  59. ^ Pernoud, p. 233.
  60. ^ [26]. Retrieved 1 March 2006)
  61. ^ [27] . Retrieved 17 December 2006.
  62. ^ DeVries, pp. 179 – 180.
  63. ^ ペルヌー & クラン 1992, p. 266 - 267,269 - 270.
  64. ^ 清水 1994, p. 351 - 353,353 - 359.
  65. ^ 清水 1994, p. 359 - 362,365 - 379.
  66. ^ ペルヌー & クラン 1992, p. 272 - 273,279.
  67. ^ 清水 1994, p. 379 - 381,387 - 389,392 - 393.
  68. ^ Deuteronomy 22:5
  69. ^ Nullification trial sentence rehabilitation.[28] . Retrieved 12 February 2006.
  70. ^ Pernoud and Clin, pp. 247 – 264.
  71. ^ DeVries in "Fresh Verdicts on Joan of Arc", edited by Bonnie Wheeler, p. 3.
  72. ^ a b Richey,[29] . Retrieved 12 12 February 2006.
  73. ^ English translation of Christine de Pizan's poem "La Ditie de Jeanne d'Arc" by L. Shopkow.[30] (Retrieved 12 February 2006) Analysis of the poem by Professors Kennedy and Varty of Magdalen College, Oxford.[31] Retrieved 12 February 2006.
  74. ^ Condemnation trial, pp. 36 – 37, 41 – 42, 48 – 49. . Retrieved 1 September 2006.
  75. ^ Nores JM, Yakovleff Y (1995). “A historical case of disseminated chronic tuberculosis”. Neuropsychobiology 32 (2): 79–80. doi:10.1159/000119218. PMID 7477805. 
  76. ^ Pernoud, p. 275.
  77. ^ Pernoud and Clin, pp. 3, 169, 183.
  78. ^ 復権裁判でのギョーム・ド・マンションの証言。 [32] Retrieved 12 February 2006.
  79. ^ APA's Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, fourth edition, pp. 273 – 275. Online copy of the print manual available at: [33]. Retrieved 19 November 2010.
  80. ^ Hoffman, "Auditory Hallucinations: What's It Like Hearing Voices?" in HealthyPlace.com, 27 September 2003.[34]. Retrieved 12 February 2006.
  81. ^ ペルヌー & クラン 1992, p. 305 - 306.
  82. ^ Declan Butler. (4 April 2007). “Joan of Arc's relics exposed as forgery”. Nature 446 (7136): 593. doi:10.1038/446593a. http://www.nature.com/nature/journal/v446/n7136/full/446593a.html. 
  83. ^ a b 『ジャネット』『ジャンヌ』”. ブリュノ・デュモン監督『ジャネット』『ジャンヌ』公式サイト. 2021年12月17日閲覧。
  84. ^ Cast/Staff”. 舞台『ジャンヌ・ダルク』公式サイト (2023年7月21日). 2023年7月21日閲覧。
  85. ^ “9年ぶりの再演がスタート 清原果耶、小関裕太らによる 舞台『ジャンヌ・ダルク』公演レポート”. SPICE (株式会社イープラス). (2023年12月4日). https://spice.eplus.jp/articles/324368 2023年12月5日閲覧。 






ジャンヌ・ダルクと同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャンヌ・ダルク」の関連用語

ジャンヌ・ダルクのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャンヌ・ダルクのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャンヌ・ダルク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS