ジャンヌ・ダルク
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後世への影響と評価
ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。この発見からまもなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ(Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった[70]。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている[71]。
辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある[23]。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている[72]。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。
その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 — スティーヴン・リッチー[72]
男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌはフェミニストではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、時には言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった[注 13][注 14]。
しかし、ジャンヌが受けた重要な支援のなかには女性から受けたものもある。シャルル7世の姑であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、彼女がオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったリニー伯の叔母ジャンヌ・ド・リュクサンブールは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくは彼女がイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ3世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公の妃アンヌも、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった[注 15] 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが、のちにジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者クリスティーヌ・ド・ピザンから今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている[73]。
ジャンヌはナポレオン1世の時代から、フランスを代表する政治的象徴だとみなされている。第二次世界大戦では、親ドイツのヴィシー政権と反ドイツのフランス・レジスタンスの両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌがナチの占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である国民戦線もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。
フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1931年竣工の軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1964年竣工のヘリ空母ジャンヌ・ダルクである。
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エマニュエル・フレミエが1874年に制作したジャンヌの黄金像。ピラミッド広場、パリ。
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第二次世界大戦中にシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス旗。中央の赤い十字架はジャンヌを象徴するロレーヌ十字である。
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剣を振り掲げるジャンヌの騎馬像。 カリフォルニア・レジョンドヌール美術館、サンフランシスコ。
注釈
- ^ D'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓にアポストロフをつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。ジャンヌ自身は Jehanne と綴ったといわれている www.stjoan-center.com/Album/, parts 47 and 49; it is also noted in Pernoud and Clin).
- ^ 現代の研究書ではジャンヌの誕生日が1月6日だと断言しているものが多い。しかしながら、ジャンヌは自身の年齢でさえも推測で答えることしかできなかった。ジャンヌの復権審理の場でもジャンヌの年齢は推測であり、復権審理に証人として出廷したジャンヌの名付親ですら、ジャンヌの生年月日を明らかにすることはなかった。1月6日がジャンヌの誕生日であるという説は、1429年7月21日のペルスヴァル・ブーランビリエ卿の証言を元にした書簡ただ1つに拠っている[1]。しかしながらブーランビリエはドンレミの出身ではなく、このブーランビリエが語ったとされる証言の記録も残っていない。教区教会の出生記録に貴族以外の誕生日が記録され始めたのは、数世代後になってからのことである[要出典]。
- ^ 他にフランスの守護聖人として、聖ドニ、聖マルタン、聖王ルイ9世、聖テレーズなどがいる。
- ^ シャルル7世は1429年12月29日にジャック一家の家格を引き上げ、1430年1月20日には貴族に叙したというフランス会計院の記録が残っている。これによってジャック一家の姓は「ドゥ・リス(du Lys)」に変わった。
- ^ 歴史書や小説では、ジャンヌを冷遇したデュノワを別の名前で記していることが多い。ジャンヌの死後にデュノワが叙爵された、デュノワ伯爵という称号で記述している書物もある。ジャンの存命時には、デュノワは庶子でフランス王シャルル7世の最年長の従兄弟だったことから敬意をこめて「オルレアンの私生児」と呼ばれていた。現在の「私生児(bastard)という言葉には侮蔑的な意味が強いため、「私生児」と呼ばれていた当時のド・デュノワが馬鹿にされていたと勘違いされることも少なくない。オルレアン公家との関係を強調した「ジャン・ドルレアン(Jean d'Orleans)」という呼称は必ずしも正確ではないが、時代錯誤的な間違いとはいえない (see Pernoud and Clin, pp. 180 – 181)。
- ^ 敬虔なカトリック教徒はこの出来事がジャンヌが聖なる使命を帯びていたことの証拠だと見なしている。シノンとポワチエで、ジャンヌはオルレアンへ向かえという神の声を聴いたと公言した。オルレアンでの戦功で高まったジャンヌの名声は、アンブラン大司教などの有力な聖職者や著名な神学者ジャン・ジェルソンからの支持を得ることにつながった。両者ともにこの出来事の直後にジャンヌを支持する声明を発表している
- ^ 歴史家たちの間でもラ・トレモイユに対する非難の度合いには温度差があり、ちょっとした陰謀に加担したというものから、口を極めて罵倒しているものまでさまざまである。Gower, ch. 4.[1] (Retrieved 12 February 2006) ,Pernoud and Clin, pp. 78 – 80; DeVries, p. 135; and Oliphant, ch. 6.[2] . Retrieved 12 February 2006.
- ^ 判事たちによる予審が1月9日から3月26日まで、通常の審理が3月26日から5月24日まで、異議申し立てが5月24日、再審理が5月28日と29日という日程だった。
- ^ 後の復権裁判では、コーションがジャンヌの裁判について何の権能も持っていなかったことが判決文中に明示されている(Joan of Arc: Her Story, Pernoud and Clin, p. 108)。フランス人の副裁判官は、最初からこの裁判は管轄外であるとして異議を唱えていた。
- ^ 中世装束の専門家アドリアン・ハルマンは、ジャンヌが20もの留め具で上着と結びつけられた2枚のズボンを着用していたとしている。さらに表のズボンはブーツのような皮革製だった。"Jeanne d'Arc, son costume, son armure."[3](フランス語) . Retrieved 23 March 2006.
- ^ Condemnation trial, p. 78.[4] (Retrieved 12 February 2006) ポワティエの神学理論教授でジャンヌの復権裁判でも証言した司祭セガンは、直接的にはジャンヌの服装について言及していないが、その供述はジャンヌが非常に信心深い女性だったかということを肯定する心情にあふれている。[5] . Retrieved 12 February 2006.
- ^ ジャンヌはカトリック教会公式サイトで、もっとも閲覧されている聖人となっている [6]。Retrieved 12 February 2006.
- ^ 通説とは異なり、もちろん売春も行われてはいたが、女性の非戦闘従軍者の主な役割はそれではなく、炊事、洗濯、荷駄運搬といった支援の役目を果たしていた。また、従軍している兵士の妻であることも多かった。Byron C. Hacker and Margaret Vining, "The World of Camp and Train: Women's Changing Roles in Early Modern Armies".[7] . Retrieved 12 February 2006.
- ^ ジャンヌの上司だったアランソン公は、ジャンヌがサン=ドニで非戦闘従軍者に向けて剣を叩き折るのを目撃した。ジャンヌの小姓だったルイ・ド・コンテは復権裁判で、ティエリ城近くで起きたこの出来事は単なる口頭での注意に過ぎなかったと証言している。 [8] . Retrieved 12 February 2006.
- ^ ジャンヌの聴罪司祭が処女膜検査と記している手法は、処女かどうかを判断するのに十分とはいえない。しかし、当時の最上流階級の既婚女性たちが賛同した手法だった。 Rehabilitation trial testimony of Jean Pasquerel.[9] Retrieved 12 March 2006.
- ^ これらの仮説の多くが、医学者からではなく歴史研究者によって唱えられている。ジャンヌの幻視を疾病に求めた医学者の論文としては次のようなものがある。
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出典
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