ジャコモ・プッチーニ
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ジャコモ・プッチーニ Giacomo Puccini | |
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基本情報 | |
出生名 |
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ (Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini) |
生誕 |
1858年12月22日 トスカーナ大公国、ルッカ |
死没 |
1924年11月29日(65歳没) ベルギー ブリュッセル |
学歴 | ミラノ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 |
生涯
プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。
1858年12月22日、イタリアのトスカーナ地方にあるルッカで生まれる。
わずか5歳のときに父親ミケーレが没したため、叔父フォルトゥナート・マージより、温情をもって教育を与えられる。最初は教会オルガニストの職を得るが、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『アイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。1880年『4声のミサ曲』(『グローリア・ミサ』の名で知られる)の完成をもって、初期の音楽修業と、家業である宗教音楽家の道に区切りをつける。この作品では、やがてミラノの舞台においてプッチーニが開花させることとなる劇的な表現力を、魅力的なまでにうかがわせている。実際、この作品の楽想は後に彼のオペラで転用されることとなる。
1880年から1883年までミラノ音楽院にてアミルカレ・ポンキエッリとアントニオ・バッジーニに師事。1882年には、出版社ソンゾーニョ社主催による1幕物オペラの作曲コンクールに参加、入賞することはできなかったが、提出作品『妖精ヴィッリ Le villi』は後に1884年に舞台化され、出版社リコルディ社主ジュリオ・リコルディに注目されるきっかけとなった。こうしてリコルディ社の依嘱によって作曲されたのが、1889年に完成された2作目のオペラ『エドガール』である。1891年には、トスカナ地方のトッレ・デル・ラーゴに別荘を購入し、終生にわたって仕事場兼自宅とした。プッチーニの亡骸が眠っているのもこの地である。
第3作の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなった。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれた。このうち『ラ・ボエーム』はプッチーニの最高傑作としてのみならず、それまでのプッチーニ作品の中では最もロマンティックなオペラの1つに数えられている。『トスカ』はその露骨な暴力描写、主役3人が舞台上で死ぬストーリー、そして扇情的な音楽などが話題となった。『蝶々夫人』は、初演時には敵意(そのほとんどはプッチーニのライヴァル達によって組織されたものであったが)をもって迎えられたが、後にかなり手直しされてからは、プッチーニの最も成功した作品のひとつになった。
それからは御難続きで作曲の筆が緩やかになる。1902年(または1903年)の2月下旬、珍しがりやの性格から、自動車を手に入れさっそく乗り回していたところ、交通事故を起こし、脚を骨折する。1906年にはジャコーザが他界。1909年には、プッチーニの妻エルヴィーラが、誤解から、プッチーニが女中と浮気していると責め立て、疑われた女中が服毒自殺、エルヴィーラが起訴されるというスキャンダル(ドーリア・マンフレーディ事件)に発展する。そして1912年には、恩人であったリコルディ社社主ジューリオが世を去る。
しかしながら1910年に会心の作品『西部の娘』を完成させ、1917年には『つばめ』を脱稿した。『つばめ』は、はじめオペレッタの作曲を試みながらも、自分の創作様式や能力が喜劇に不向きであると悟って、書き直された作品である。
<三部作>とよばれる1幕オペラの連作は、1918年に初演された。パリのグラン・ギニョール劇場の様式による恐ろしいエピソードの『外套』、感傷的な悲劇『修道女アンジェリカ』、喜劇というよりは笑劇の『ジャンニ・スキッキ』の3曲からなる。『ジャンニ・スキッキ』は、名高いアリアのためにこのうち最も人気があるのに対して、『外套』は不人気である。『ジャンニ・スキッキ』は、たとえばマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』やレオンカヴァッロの『道化師』、ツェムリンスキーの『フィレンツェの悲劇』やコルンゴルトの『ヴィオランタ』などの、他の作曲家の1幕オペラと1夜の連続公演が行われている。
プッチーニはヘビースモーカーとして知られていたが、1923年末に喉頭癌であることが判明。翌1924年、治療のために滞在中のブリュッセルで、手術後に合併症を起こして急死した。最後のオペラ『トゥーランドット』は未完成のまま遺され、そのフィナーレは、彼の遺稿も参考にして友人フランコ・アルファーノが補筆することとなった。しかし、アルファーノ補作の大部分は世界初演時の指揮者トスカニーニが冗長と見なしてカットしたため、その短縮した版が今日一般には公演で用いられている(もっとも、1980年代からは「アルファーノ完全版」の使用も散見される)。その他、1991年にはアメリカの作曲家ジャネット・マクガイアによるプッチーニ遺稿のより厳密な資料批判を経た補筆版、2001年にはルチアーノ・ベリオの独自稿による補筆版なども作成されている。
遺体は一旦ミラノのプッチーニ家の墓に埋葬されたが、1926年になって息子アントニオの手によりトッレ・デル・ラーゴの仕事場兼自宅に再埋葬された。
作品の特徴
プッチーニは、学生時代に書かれたいくつかの器楽曲(管弦楽曲数点と室内楽の小品1点)と宗教曲を別にして、オペラの作曲に余念がなく、現在ひんぱんに演奏されているのもオペラが中心である。音楽史上の位置付けは、ヴェルディ亡き後、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラにおいて最高の作曲家というものである。出世作の『マノン・レスコー』を皮切りに『ラ・ボエーム』と『トスカ』を次々に成功させて、オペラ作曲家としての地位を確立した。続く『蝶々夫人』では初演の評判は散々だったものの、徐々に評価を高め、今日ではプッチーニおよびイタリア・オペラの代表作とされている。
プッチーニの音楽は、イタリア・オペラの伝統にのっとり、劇的な展開と緻密な描写的表現、そのために繰り出される転調や印象主義音楽的な和声技巧、オーケストレーションの豊かさが特徴的だが、とりわけ旋律の忘れがたい美しさは特筆に価する。プッチーニの旋律は、しばしば息が長いにもかかわらず、覚えやすく、しかも口ずさみやすい。しかも、とってつけたようなぎこちなさがまったくなく、自然で滑らかに流れていく(オペラ作曲家としての訓練が比較的遅いことからしても、このような生来の旋律家ぶりが最大限に発揮された事実は驚異的ですらある)。このため、クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニ作品は親しみやすく魅力的である。
- ^ “(4579) Puccini = 1978 EW5 = 1979 QE3 = 1986 KH = 1989 AT6”. MPC. 2021年10月10日閲覧。
- 1 ジャコモ・プッチーニとは
- 2 ジャコモ・プッチーニの概要
- 3 評価
- 4 主な作品
- 5 関連項目
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