ジム・クラーク (レーサー) ジム・クラーク (レーサー)の概要

ジム・クラーク (レーサー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/09 02:43 UTC 版)

ジム・クラーク
Jim Clark
OBE
ジム・クラーク (1965年)
基本情報
フルネーム ジェームズ・クラーク・ジュニア
James Clark Jr.
国籍 イギリス
出身地 スコットランドファイフ州キルマニー
生年月日 (1936-03-04) 1936年3月4日
死没地 西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ホッケンハイム (ホッケンハイムリンク)
没年月日 (1968-04-07) 1968年4月7日(32歳没)
F1での経歴
活動時期 1960 - 1968
所属チーム '60 - '68 ロータス
出走回数 73 (72スタート)
タイトル 2 (1963, 1965)
優勝回数 25
表彰台(3位以内)回数 32
通算獲得ポイント 255 (274)
ポールポジション 33
ファステストラップ 28
初戦 1960年オランダGP
初勝利 1962年ベルギーGP
最終勝利 1968年南アフリカGP
最終戦 1968年南アフリカGP
テンプレートを表示

F1の歴史において最も優れたドライバーのひとりに数えられ、天性の速さの資質においてアイルトン・セナと並び称されている[3]

プロフィール

スコットランド、ファイフ半島キルメニーの農家に4人の姉を持つ末っ子として生まれ、6歳の時、イングランドに近いボーダー地方のチャーンサイドへ引っ越す。牧童として働きながら草レース・チーム「ボーダー・リーヴァーズ」で活動しているうちに、ロータスの創始者コーリン・チャップマンに見出され、1960年に同チームからF1にデビューした[1]

ロータス・25に乗るクラーク(1962年ドイツGPにて)

1962年には、バスタブ型のモノコック構造を初めて取り入れたロータス・25で、9戦中6回のポールポジション、3度の優勝という活躍を見せた。BRMグラハム・ヒルとドライバーズ・チャンピオンシップを争ったが、最終戦南アフリカGPでエンジン部品の脱落によりリタイヤしてしまい[4]チャンピオンになれなかった。

1963年には熟成した25を駆り、10戦中7回のポールポジション、7勝で開幕戦モナコGP以外は全て表彰台という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝いた。1シーズン7勝は、1988年アイルトン・セナが8勝(年16戦)するまで、1シーズン最多勝記録だった(アラン・プロスト1984年と1988年に、いずれも年16戦でクラークに並ぶ7勝を挙げている)。獲得ポイントは全10戦中6戦の有効ポイント制でフルマークとなる54点(優勝9点×6戦)を超える73点だった。同時にロータスも初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。また、アメリカ最大のビッグレースであるインディ500に初出場し、優勝者のパーネリ・ジョーンズと僅差の2位という成績を残した[注釈 1]

1964年オランダGPで優勝したクラーク

1964年はシーズン中盤のドイツGPから投入したロータス・33の信頼性が低かったこともあって3戦連続リタイアした。それでもフェラーリジョン・サーティース、BRMのヒルとチャンピオンを争い、最終戦メキシコGPでも残り2周までトップを走り、2年連続チャンピオンはほぼ決定と思われたが、オイルパイプのトラブルでストップしてしまい、チャンピオンを逃した。インディ500ではポールポジションを獲得したが、レース序盤にサスペンション・トラブルでリタイアした。

1965年はクラークとロータスがレース界を席巻した年となった。F1ではインディ500出場のため欠場した第2戦モナコGPを除き、開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまで全てのレースで優勝し、3戦を残して2度目のチャンピオンが決定した[5]。この年も再び有効ポイント制でフルマークとなる54点を獲得した[5]。さらにロータス・38で出場したインディ500でもポールポジションから独走優勝を果たし、史上初めてインディ500とF1タイトルの同時制覇を成し遂げた[6]。このインディ制覇は、インディ500におけるそれまでのフロントエンジン車に代わる初のミッドシップエンジン車による勝利、1916年以来のアメリカ人以外による優勝など、いくつかの「初」ないし「数十年ぶり」の達成を伴った[注釈 2]

1966年はレギュレーション改定でエンジン排気量が1.5リットルから3リットルに変更されたが、ロータスはこれに十分対応できず、開幕戦モナコGPから第6戦までは排気量1.5リットルを2リットル化したコヴェントリー・クライマックス・エンジンを搭載した33、第7戦イタリアGPから最終戦メキシコGPまではBRMのH型16気筒エンジンという「珍品」を搭載したロータス・43を持ち出すなどしたため、クラークは1勝に止まった[注釈 3]。この年の3月には富士スピードウェイの開業イベントの来賓[7]、10月には「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオン・レース」(通称「日本インディ」)の出場者として2度来日している[注釈 4]

ロータス・49のデビューウィンを果たしたクラーク(1967年オランダGP)

ロータスとコスワースイギリス・フォードの支援の下、1967年に向けてひそかにフォード・コスワース・DFVエンジンを開発。このエンジンを搭載したロータス・49のデビュー戦1967年オランダGPで優勝するなど、この年クラークは4勝をあげた。第9戦イタリアGPでは、トップを走行中に右後輪のパンクで周回遅れとなったクラークは猛然と追い上げて再びトップに立つ走りを見せた(最終ラップでガス欠を起こし3位)。しかしこの年はDFVエンジンの初期トラブルやZF製ギアボックスの信頼性が低く、クラークは5回リタイア(43で1回、33で1回、49で3回)してチャンピオンの座はブラバムデニス・ハルム(2勝)に譲ったが、F1での通算勝利数を24に伸ばし、歴代1位のファン・マヌエル・ファンジオに並んだ。

1968年1月1日の開幕戦南アフリカGPで歴代単独1位となる通算25勝を記録。マシンの信頼性も向上し、この年のチャンピオン最有力候補と見られていた。

事故死

第2戦スペインGPまでのインターバル中、クラークは4月7日にドイツホッケンハイムリンクで開催されたヨーロッパF2選手権第2戦に出場した[8]。その第1ヒートの5周目、森の中の右高速コーナーでクラークの乗るロータス・48英語版が突然コースアウトして木に激突し、クラークは事故死した。当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかったため、車から放り出されて頭と首の骨を折り、即死状態だった。32歳没。事故原因は後輪タイヤのバーストといわれているが、完全には特定されていない[9]

1968年のドライバーズ・チャンピオンはロータスのチームメイトだったグラハム・ヒルが獲得した。ホッケンハイムリンクの事故現場付近に設置された第1シケインは「ジム・クラーク・シケイン」と命名された。また事故現場にはメモリアルが立てられたが、ホッケンハイムリンクの改修により森の中となったため、新コースの第2コーナー付近に移設された。

故郷スコットランド、チャーンサイドに眠るクラークの墓碑には、レーサーとしての業績の前に"FARMER"(農夫)と刻まれている[10]


注釈 

  1. ^ 優勝したジョーンズのマシンはオイルを吹きながら走行していたが、オフィシャルは失格としなかったため、アメリカ人贔屓の判定ではないかと物議を醸した。
  2. ^ 詳細は英語版en:1965 Indianapolis 500
  3. ^ アメリカGPでのクラークの1勝は、F1における最多気筒数エンジンの勝利となった。
  4. ^ 富士で開催された日本インディではマシンが壊れたため、決勝は不出走 (DNS) だった。

出典 

  1. ^ a b c 福江 2009, p. 15.
  2. ^ 福江 2009, p. 34.
  3. ^ 福江 2009, pp. 46–47.
  4. ^ ジム・クラーク編/池田英三訳『エンジンが唸る時』荒地出版社、1968年、43頁。
  5. ^ a b 福江 2009, p. 42.
  6. ^ a b 福江 2009, p. 43.
  7. ^ 富士SWの開幕戦は滝、砂子、生沢の白熱戦だった(16) - 銀座新聞ニュース
  8. ^ 福江 2009, p. 68.
  9. ^ 福江 2009, p. 70.
  10. ^ 福江 2009, p. 47.
  11. ^ スティーブンに聞く! - 2011年3月6日 - ESPN F1(2011年3月12日)
  12. ^ 福江 2009, p. 29.
  13. ^ ダグ・ナイ(森岡しげのり訳)『ジム・クラーク/偉大なるヒーロー像』(ソニー・マガジンズ、1991年)
  14. ^ 福江 2009, p. 66.
  15. ^ 福江 2009, p. 33.
  16. ^ 福江 2009, p. 51.
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 福江 2009, p. 53.
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at 福江 2009, p. 55.
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd 福江 2009, p. 57.


「ジム・クラーク (レーサー)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジム・クラーク (レーサー)」の関連用語

ジム・クラーク (レーサー)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジム・クラーク (レーサー)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジム・クラーク (レーサー) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS