クリミア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 01:29 UTC 版)
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
クリミア戦争 | |
---|---|
クリミア戦争でのイギリス軍の補給基地 | |
戦争:クリミア戦争[1] | |
年月日:1853年10月 - 1856年3月[1] | |
場所:主にクリミア半島[1] | |
結果:連合軍の勝利、ロシアの敗北[1]。 | |
交戦勢力 | |
ロシア帝国 | オスマン帝国 フランス帝国 イギリス帝国 プロイセン王国 サルデーニャ王国 |
指導者・指揮官 | |
ニコライ1世 アレクサンドル2世 |
アブデュルメジト1世 ナポレオン3世 ヴィクトリア女王 ジョージ・ハミルトン=ゴードン ヘンリー・ジョン・テンプル フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 オットー・テオドール・フォン・マントイフェル ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 |
戦力 | |
侵攻部隊80,000人 要塞部隊50,000人[1] |
英軍20,000人 仏軍30,000人 トルコ軍6,000人[1] |
損害 | |
130.000人戦死[1] | 70,000人戦死[1] |
フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍およびサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。
クリミア戦争と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
フランスの戦争 |
ブルゴーニュ戦争 擬似戦争 アメリカ独立戦争 大同盟戦争 クリミア戦争 |
イギリスの戦争 |
シエラレオネ人質救出作戦 アメリカ独立戦争 イギリス・ザンジバル戦争 大同盟戦争 クリミア戦争 |
19世紀の戦争 |
バーバリ戦争 下関戦争 普墺戦争 イギリス・ザンジバル戦争 クリミア戦争 |
オスマン帝国の戦争 |
エジプト・トルコ戦争 イタリア戦争 バーバリ戦争 ギリシャ独立戦争 クリミア戦争 |
ロシア帝国の戦争 |
第一次世界大戦 カフカーズ戦争 ロシア・スウェーデン戦争 日露戦争 クリミア戦争 |
- クリミア戦争のページへのリンク