カール・ポパー
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1980年代撮影 | |
全名 | カール・ライムント・ポパー |
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生誕 |
1902年7月28日 オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン |
死没 |
1994年9月17日 (92歳) イギリス、ロンドン |
時代 | 20世紀の哲学 |
地域 | 西洋哲学 |
出身校 | ウィーン大学 |
学派 |
分析哲学 批判的合理主義 反証主義 進化論的認識論 心身相互作用説 リベラリズム |
研究機関 |
カンタベリー大学 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス キングス・カレッジ・ロンドン ケンブリッジ大学ダーウィン・カレッジ |
研究分野 |
認識論 合理性 科学哲学 論理学 社会哲学 政治哲学 形而上学 心の哲学 生命の起源 量子力学の解釈問題 |
主な概念 | 批判的合理主義、反証可能性、境界設定問題、開かれた社会、ポパーの3世界論、ポパーの実験、負の功利主義 |
純粋な科学的言説の必要条件として反証可能性を提起し、批判的合理主義に立脚した科学哲学及び科学的方法の研究の他、社会主義や全体主義を批判する『開かれた社会とその敵』を著すなど社会哲学や政治哲学も展開した。
フロイトの精神分析やアドラーの個人心理学、マルクス主義の歴史理論、人種主義的な歴史解釈を疑似科学を伴った理論として批判[1]。ウィーン学団には参加しなかったものの、その周辺で、反証主義的観点から論理実証主義を批判した。
生涯
ポパーは1902年にウィーンの中流家庭で生まれた。元来がユダヤ系だった両親はキリスト教に改宗しており、ポパーもまたルター派の教育を受けた。弁護士であったポパーの父親は愛書家で、書斎には1万2千から1万4千冊の蔵書を有していたと言われ、ポパーはその様な自身の父親について「弁護士というよりは学者」であったと述べている。
13歳でポパーはマルクス主義者になったが、1919年にウィーンで社会主義者や共産主義者のデモ隊と警察の衝突で若者が死亡した事件がおきると、17歳で反マルクス主義者となった[2]。その後も30歳までは社会主義者であったが、自由と社会主義が両立しうるか疑いを強めていった[2]。
1928年にウィーン大学にて哲学の博士号を取得し、1930年からの6年間中学校で教鞭を取った後、1937年に『科学的発見の論理』(Logik der Forschung)を発表。心理主義、自然主義、帰納主義、論理実証主義を批判し、科学の必要条件として反証可能性を提起し、理論として発展させた。
1937年、ナチスによるオーストリア併合(アンシュルス)の脅威が高まると、ユダヤ系オーストリア人であったポパーは、ニュージーランドに移住し、南島のクライストチャーチにあるカンタベリー大学で哲学講師となった。1945年に出版された主著の一つ『開かれた社会とその敵』 (The Open Society And Its Enemies) は、この時代にファシズムやマルクス主義の社会哲学を批判するものとして、第二次世界大戦前から戦中にかけて構想され、執筆されたものである。また、この間を通して、ポパーは自身の叔父、叔母、いとこなど親族だけで17人のユダヤ系の同胞をホロコーストの犠牲者としてナチスの強制収容所で失った[3]。
第二次世界大戦が終わるとイギリスに移り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)にて科学的方法の助教授を経て、教授となった。1958年から1年間、『アリストテリアン・ソサイエティ』誌の編集責任者を務めた。1965年にはバートランド・ラッセルからの強い推薦を受けて、女王エリザベス2世からナイトに叙任され[4]、11年後には王立協会フェロー[5]。学界を1969年の時点で退いてはいるものの、彼の学術的影響は1994年に亡くなるまで絶えることがなかった。また彼は人本主義学会の会員でもあり、ユダヤ教やキリスト教の道徳教育を顧慮しながらも自らを不可知論者と称していた。
ポパーの影響を受けた哲学者として、ラカトシュ・イムレ、ジョン・ワトキンス、ポール・ファイヤアーベントらがいる。経済学者フリードリヒ・ハイエクとは友人関係だった。
哲学者になるという夢を抱いていた投資家で慈善家のジョージ・ソロスは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)での留学生時代の夏休みに図書館から借りて読んだ『開かれた社会とその敵』に強く感銘を受けて以来(このために、ソロスはこの夏が自分の人生で最高の夏であったと述べている)、ポパーを自らの師と仰ぎ、実際に、自身の学士論文の指導教官をポパーに依頼している。
その後もソロスはポパー及びポパーの哲学から多大な影響を受け、その著書や講演で「開かれた社会」について度々語り、自身が1993年に設立した慈善団体の名称を「開かれた社会(open society)」にちなみ、「オープン・ソサエティ財団(Open Society Foundations)」と名付けている。
また、統計学者であり、ソロスと同様に投資家として巨大な成功を収めた有名な天才トレーダーの一人として知られるナシーム・ニコラス・タレブも、ポパーから絶大な影響を受けている。
量子コンピュータの発明者であり多世界解釈の権威として知られる物理学者のデイヴィッド・ドイチュは、カール・ポパーの知識論を発展させる形で「説明的知識」という概念を提唱している。
銀行家、財務官僚で第31代日本銀行総裁の黒田東彦は、ポパーの著書の邦訳を手掛けているほか、2013年に新訳出版された『歴史主義の貧困』において「いま、ポパーを読む意味とは何か」という解説文を寄せている[6]。
思想
科学哲学
科学哲学におけるポパーの貢献としては以下のようなものが挙げられる。
- 疑似科学と科学の間の境界の設定を科学哲学の中心課題として認識したこと
- 科学とは何であるかを考えるうえで、従来の論理実証主義的な立場では、形而上学的でない言説の特徴に、また、命題の意味を検証するための理論に、主眼が置かれていた。しかしポパーは、問題の所在が、意味性にではなく、科学性と非科学性を分け隔てるところの方法性にこそある、と主張した。
- 反証可能性を基軸とする科学的方法を提唱したこと
- 蓄積主義的でない科学観を提案したこと
- 知識のあり方を進化論的に論じたこと
- 確率にまつわる新しい説を打ち出したこと
- 確率を客観的に説く立場の新しいものとして、「或る事象を特定的にもたらす傾向を内在するシステム」が確率の実体であるとポパーは考えた。
社会哲学
「開かれた社会」の敵の一つである共産主義・マルクス主義、およびそれに関する一連の思想にたいしては、ポパーはまず、「物事は一定の法則にしたがって歴史的に発展してゆく」とする歴史法則主義あるいは社会進化論を批判した。また、弁証法を基軸とするヘーゲルやマルクスやフランクフルト学派などの思想も批判した[7]。1958年にスイスの海外研究所で行った講演『西洋は何を信じるか』において彼は、「赤でもなく、死でもなく」と言って、断固、ソビエト連邦の政治体制を拒否し、これに反対してゆくことを訴えた。
ポパーによれば、マルクス主義は政治制度を支配集団が握っているとみなすが、これはひどい誇張であり、マルクス主義の、いかなる国家も独裁国家であり、民主制とは階級的独裁でしかないという主張は、神話であり、それこそが空想であるとポパーは批判する[8]。たとえば、マルクスは所得税の累進課税システムは資本主義とは相容れないと信じていたが、イギリスでは国民所得の大半は所得税、法人税、直接税といった形で国へと流れており、こうしたことは、階級的独裁のドクトリンが支持されないことを証しているし、もし階級的独裁の萌芽について語ることができるとしても、それに劣らぬ強い議論によって多様な民主制がそれぞれの程度に無階級社会に近い形をとっていると主張することもできる、とポパーはいう[8]。
自由で合理的な討論が政治に及ぼす影響が、民主制の最大の美徳であるが、これに対して、革命的マルクス主義者やファシストは、力や暴力を信じ、討論相手が自分たちと同じ前提(資本主義への拒絶など)を共有していることが確信できなければならないと主張するが、これではまじめな討論のしようがない、とポパーはいう[8]。ポパーによれば、革命的マルクス主義者とファシストたちは、意見を異にする人とは討論できないし、すべきでないという点で一致しており、どちらのグループも批判的討論はすべて拒絶する[8]。この批判的討論の拒絶の意味するところは、政権を握れば反論はすべて抑圧し、開かれた社会と自由を拒絶していくこととなる[8]。
ポパーは「左翼の革命の帰結として一つ確かなのは、批判し反対する自由の喪失ということでしょう。私の主張は、民主制、つまり、開かれた社会だけが害悪を治療する機会を私たちに与えてくれる、というものです。もし民主的な社会秩序を暴力革命によって破壊するならば、私たちは革命が引き起こす諸々の重大な帰結に対して責めを負うだけでなく、社会の害悪、不正、抑圧を排するために闘うことを不可能にするような社会秩序を新たに打ち建てることにもなるでしょう。」と述べ、政府は必要悪であり、人間性は暴力によって容易く破壊されるとし、「必要とされているのは、私たちの基本的な対立が合理的な手段の向上によって解決されるようなより賢明な社会のために力をつくすことなのです」と語る[9][8]。
また、今日のマルクス主義知識人のほとんどは、大言壮語を好み、ひどくもったいぶった言い回しで学識を見せびらかすが、彼らの源流はヘーゲルにあり、彼らはソクラテスの「私たちはごくわずかしかーあるいはほとんど何もー知ってはいない」という無知の自覚のような知的謙虚さを欠いているとポパーは批判する[8][10]。
- ^ 『推測と反駁 科学的知識の発展』P.57~67、カール・R・ポパー著
- ^ a b 『カール・ポパー 社会と政治 「開かれた社会」以後』ミネルヴァ書房、2014, p.229.
- ^ カール・ポパー『カール・ポパー 社会と政治 「開かれた社会」以後』ジェレミー・シアマー、ピアズ・ノーリス・ターナー編、神野慧一郎、中才敏郎、戸田剛文訳、ミネルヴァ書房、2014,p110.
- ^ "No. 43592". The London Gazette (英語). 5 March 1965. p. 2239. 2016年1月29日閲覧。
- ^ "Popper; Sir; Karl Raimund (1902 - 1994)". Record (英語). The Royal Society. 2016年1月29日閲覧。
- ^ 日経BOOKプラス (2023年11月3日). “黒田東彦氏が解説「いま、ポパー『歴史主義の貧困』を読む意味とは何か」”. 日経BOOKプラス. 2024年3月18日閲覧。
- ^ ただし『推測と反駁』(P.64~65)では、「マルクス主義の初期の歴史理論は反証可能な科学であったが、後の追従者は辻褄合わせのための再解釈で反証可能性を無くした理論(疑似科学)に修正した」という趣旨であり、マルクス自身の理論及び初期のマルクス主義の歴史理論は反証可能な科学であったとしている。
- ^ a b c d e f g 「理性と開かれた社会について ある対談 - 1972年」(『カール・ポパー 社会と政治 「開かれた社会」以後』2014、p.229-248)
- ^ カール・ポパー『カール・ポパー 社会と政治 「開かれた社会」以後』ジェレミー・シアマー、ピアズ・ノーリス・ターナー編、神野慧一郎、中才敏郎、戸田剛文訳、ミネルヴァ書房、2014,p240.
- ^ カール・R・ポパー『よりよき世界を求めて』第六章,p142-166、同『フレームワークの神話』第三章,p120-148.
- ^ Magee, Bryan (1973). Popper. Fontana
- ^ Kuhn, Thomas (1970). The Structure of Scientific Revolutions. Chicago: University of Chicago Press
- ^ 'K R Popper (1970)', "Normal Science and its Dangers", pages 51-58 in I Lakatos & A Musgrave (eds.) (1970), at page 51.
- ^ 'K R Popper (1970)', in I Lakatos & A Musgrave (eds.) (1970), at page 56.
- ^ Popper, Karl, (1934) Logik der Forschung, Springer. Vienna. Amplified English edition, Popper (1959), ISBN 0-415-27844-9
- ^ See: "Apel, Karl-Otto," La philosophie de A a Z, by Elizabeth Clement, Chantal Demonque, Laurence Hansen-Love, and Pierre Kahn, Paris, 1994, Hatier, 19-20. See Also: Towards a Transformation of Philosophy (Marquette Studies in Philosophy, No 20), by Karl-Otto Apel, trans., Glyn Adey and David Fisby, Milwaukee, 1998, Marquette University Press.
- ^ ポストモダン批判書であるアラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹共訳、岩波現代文庫、2012年2月16日初版、ISBN 978-4-00-600261-9)でも同様の批判がなされている(p95-97)。そして、ポパー自体がポストモダンと同様の難点を抱えているわけではないが、ポパーの理論の矛盾点がファイヤアーベントなどの反科学的な姿勢を生み出したのだとソーカルらは論じている(p93、p105)。
- ^ a b c 伊勢田哲治 カールポパーの生い立ちと哲学
- ^ 高島弘文「帰納の実践的問題:反 D.ミラー 論」『批判的合理主義・第1巻:基本的諸問題』、未來社、2001年8月30日。ISBN 4624011562
- ^ [1](日本ポパー哲学研究会HPより)
- ^ 蔭山泰之「第2章 正当化主義と帰納の問題」『批判的合理主義の思想』未來社、2000年10月30日。ISBN 978-4-624-93244-2
- ^ 『実在論と科学の目的』上下巻、岩波書店、2002年3月25日
- ^ Hacking, Ian (1979). “Imre Lakatos' Philosophy of Science”. British Journal for the Philosophy of Science 30 (30): 381–410. doi:10.1093/bjps/30.4.381.
- ^ John Kadvany. Imre Lakatos and the Guises of Reason. Durham: Duke University Press, 2001. ISBN 9780822326496
- ^ Taylor, Charles, "Overcoming Epistemology", in Philosophical Arguments, Harvard University Press, 1995, ISBN 0-674-66477-9
- ^ Philosophia. Philosophical Quarterly of Israel, William W. Bartley: The Philosophy of Karl Popper, Part I: Biology and Evolutionary Epistemology, Philosophia Vol 6 (1976), pp. 463–494.
(deposit account required) - ^ Michel ter Hark, Popper, Otto Selz and the rise of evolutionary epistemology,ISBN 0-521-83074-5,2004.
- ^ John Gray, Straw Dogs, p.22 Granta Books, London, 2002
- ^ John Gray,「わらの犬」 Straw Dogs, p.22, Granta Books, London, 2002
- ^ Karl Popper, Replies to my Critics, Open Court, London, 1974
- ^ Karl Popper, Replies to my Critics, p1009 Open Court, London, 1974
- ^ "Professor Paul Krugman at war with Niall Ferguson over inflation"
- ^ When "Ludwig met Karl..."
- See also (by the same authors as the online review listed above): David Edmonds and John Eidinow (2001) Wittgenstein's Poker: the story of a ten-minute argument between two great philosophers ISBN 0-06-621244-8 340pp. index, chronology of Wittgenstein's and Popper's lives.
- 1 カール・ポパーとは
- 2 カール・ポパーの概要
- 3 批判
- 4 エピソード
- 5 関連項目
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