オートバイ オートバイの概要

オートバイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/15 06:09 UTC 版)

自動車 > オートバイ
日本国外にも広がったホンダスーパーカブの初期時代(カブF型)
国産オートバイが世界に通用することを証明したホンダ・ロードレーサー RC142
世界最速の公道走行可能な市販オートバイとしてギネス世界記録に登録されたスズキ・GSX1300Rハヤブサ

概要

2つの車輪を前後に配置して、ガソリンエンジンや電気モーターといった原動機によって走行する乗り物を指す。自転車に原動機を備えたもので、原動機の動力のみで走行することができるものも含めてこのように呼ぶこともある。

基本的には二輪のものを指しているが便宜上、サイドカーを備えて三輪になっているものや、エンジン付き二輪車をベースにして開発・改造されてできた三輪車も広義の「オートバイ」に含める場合がある。

オートバイという呼び方は「autobike」に由来する和製英語である[2]1902年明治35年)にアメリカからエンジン付き自転車「トーマス」が輸入された当時は英語と同様に「モーターサイクル」と呼ばれていたが、1923年大正12年)に月刊誌『オートバイ』が発売されて以来、「オートバイ」という呼び方が日本人に広く認知されるようになった[3]

日本語では、他に「自動二輪車[1]」「単車[1]」「バイク」とも呼ばれる。「単車」はサイドカーを付けたものを「側車付き」と呼ぶのに対して、サイドカーを付けていないオートバイ単体を指す言葉として用いられていたが、サイドカーが希少なものとなった現在も「単車」という言葉が生き残っている。なお、中国語でも二輪車の意味で単車という言葉が存在する。

英語で単にbikeバイクと言うと二輪車全般を指すものの、どちらかというと自転車bicycle[注釈 2]の略語として使われる場合が多く、自動二輪車については「原動機」を意味する「motor」を加えて「motorbike」、あるいは「motorcycle」と呼ばれることが多い。 1988年に出版された百科事典では「日本では…(中略)…、またスクーターはオートバイの範疇に含めないのがふつうである」と書かれたが[4]、2012年現在では、様々な文献やメーカーのホームページにおいて、スクーターもオートバイの範疇に含まれるように変化した[5]

2012年現在のオートバイの車両区分は、主に道路交通法で定められた免許区分である排気量やギアチェンジの有無による区分を用いるのが一般的であるが、四輪と二輪を両方製造するメーカーの場合、それら二つで大別することや、コンセプトとしてスポーツ性を持たせたスクーターなどを開発した場合、他のスクーターと別記載し差別化することもあり、様々である[注釈 3][注釈 4][注釈 5][注釈 6][注釈 7]

歴史

 
(上)1885年にダイムラー社が造ったオートバイ・Reitwagenレプリカ
(下)Reitwagenの設計図
1885年8月29日作成、メルセデス・ベンツ博物館)

世界のオートバイ史

1863年フランス発明家のルイ-ギヨーム・ペローが蒸気機関を動力とする二輪車を考案して特許を取得し、1873年ウィーン万博に出品したものがオートバイの原型と言われている。しかし、蒸気機関の時代から実用化されていた鉄道自動車船舶に対してオートバイや飛行機は常に動力を確保しなければ体勢を維持できないという共通の課題があり、活発な開発や運用がなされるのはゴットリープ・ダイムラーによって内燃機関の発明がなされてからのことだった[6]1883年に最初のガソリン機関の製作に成功、1885年に特許取得、1886年に実地運転に成功、補助輪付きの考え方によっては四輪車とも呼べる車体に搭載されたエンジンは、縦型シリンダー、F型配置のバルブ、自動負圧式吸入バルブ、熱管型点火装置といった技術が用いられており、それまでは高性能なガス・エンジンなどでも毎分200回転程度であった回転数を一挙に4倍の毎分800回転程度まで引き上げた[6]。この排気量260cc、4ストロークエンジンは、出力0.5ps、最高速度6 - 12km/h程度のものであった[7]。また、当時は二輪車(自転車)の技術開発がオートバイの開発に先駆けて活発で、車体構成の基礎技術であるスポークホイールチューブタイヤベアリングチェーンスプロケットハンドルといった技術が完成の域に達しており、そのまま転用ができ、人がまたがって搭乗するため基準値を算出しやすく、車体設計の方針が定めやすい[注釈 8]といった点がオートバイの開発進度を速める上で非常に有利にはたらいた[6]

20世紀初頭のアメリカでは、マーケル、ポープ、カーチス、ミッチェル、ワグナー、オリエント、ローヤルなどといったオートバイメーカーが存在し、これに少し遅れハーレー、インディアン、リーディング・スタンダード、ヘンダーソン、エキセルシャー、エースなどといったメーカーが創立された[8]。現存するメーカーによる製品の例としては、1903年、ウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンによって創業されたハーレーダビッドソン社が発売した、自転車にエンジンを搭載したモペッドがなどが挙げられる。

活発に開発が行われていたオートバイに対して、同時期に発生した飛行機の技術開発は、同1903年、ライト兄弟によって動力飛行に成功してからも産業にまで拡大されるには更なる時間を要した[9]。飛行機の黎明期にあっては、航空エンジンに必要とされる小型、軽量なエンジンという条件は鉄道や船舶など、小型化より高出力を優先する内燃機関とはコンセプトが異なり、同様に大型化が難しく、先んじて開発が進んでいたオートバイの技術から転用されるものが少なくなかった[9]。なかには、フランスのアンザーニ社などオートバイの製造を行っていた企業の中に航空機エンジン開発に着手するものもあらわれた。アンザーニ社が開発したW型三気筒エンジンは出力25ps、パワーウェイトレシオ2.5ps/kgを発生し、これをつんだブレオリ単葉飛行機1909年ドーバー海峡横断に成功した[9]1907年には競技会としてマン島におけるオートバイレースが開催されており、そこではデイ式2ストローク機関エンジンの小型化に適した特性を利用したスコット式2ストロークガソリンエンジンを搭載したオートバイが4ストロークエンジンと並んで注目を集めた[6]

飛行機に先んじて開発が行われていたオートバイであったが、直後1914年に発生する第一次世界大戦において飛行機の有用性が認識され、国家規模でこの開発が行われるようになったために、その立場を逆にする[9]。オートバイから転用された諸々の技術[注釈 9]は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降レシプロエンジン開発の花形は動力をジェットエンジンに移行するまで飛行機であり、逆輸入されるようなかたちでオートバイに再転用されることとなった[9]

それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーター[注釈 10]という自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品精度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといた状況であった。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は押しがけクラッチ変速機フロントブレーキも装着されていなかったため[注釈 11]、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求された。また、キャブレターは布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものであった[9]。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著であった。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であった[8]

その後の第二次世界大戦では、サイドカーを付けて将校の移動手段や、偵察部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用された。

日本のオートバイ史

三共によって生産されていた陸王
富士産業が戦後まもなく生産したラビットスクーター

日本における最古のオートバイの記録としては、1898年に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されているが、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下、目覚しい勢いで国産化のすすめられた産業を尻目に特別な注力がなされることはなかった[8]。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎなかった。

1909年に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造し、その後1910年には山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリストライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立、1917年には大倉商事がハーレーの輸入を開始を開始した。[注釈 12] しかし、その後島津楢蔵は一度航空業界に転身、帝国飛行協会でのコンテストに出品した9気筒回転型空冷80馬力エンジンで見事1等を受賞するなどの実績を残した[8]。だが、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった三井物産で取締役を勤めた山本条太郎の助言を受け自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年に閉鎖の憂き目にあう[8]。こうした紆余曲折を経た後、オートバイ開発に復帰、航空業界で培った技術を応用し、3年後にエーロ・ファースト号を完成させる[注釈 13]。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した[8]。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化や不況や影響から計画は難航し、1930年には廃業を余儀なくされる[8]。結局、日本で始めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは、1914年宮田製作所が製作し、一部が警察に納入され黒バイと呼ばれていた車両を発展させたアサヒ号A型が発売される1933年のことであった[8]。この車両は2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5ps。翌年1934年に増加思索13台、翌々年1935年4月から量産体勢に入り、売値は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937年から1939年の期間に月産150台を製造していた[8]

以後、大戦下の日本で陸王のみが生産されるようになるまでには、陸王の他にアサヒ号を代表として、JAC号[注釈 14]、SSD号[注釈 15]、あいこく号[注釈 16]、キャブトン[注釈 17]、リツリン号[注釈 18]、くろがね号[注釈 19]、メグロ号[注釈 20]などが存在していた[8]

戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、こうした状況下でオートバイは陸王内燃機でのみ製造されていた。同社は1931年に三共の系列企業で、ハーレーの輸入販売を行うハーレー・ダビッドソン販売所として設立された[8]。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えるなどの助力の結果、1935年に国産ハーレー第一号は品川工場で完成した[8]。陸王の名称の由来は、こうして国産ハーレーの製造に奔走した永井信二郎の母校である慶應義塾大学若き血のフレーズにちなんでつけられたという[8]。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年から製造を行っていた97式側車付き軍用オートバイは1943年には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台がせいぜいであった[8]

第二次世界大戦終戦後、日本軍用機軍用車を製造していた企業が航空機や自動車の製造を禁じられたため、所属していた技術者達はその技術を生かす場を求めていた[10]1945年当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターが陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、解体、平和産業へ転換させられた富士産業[注釈 21]の技術者の目に留まり、材料が十分に確保できない状況で作れる製品としてその簡素な車体が関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入しだした[10]。開発をはじめたものの材料不足は深刻で、一時海軍機である銀河の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用するなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた[10]。 こうして1946年の夏に試作機が完成、同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価11000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった[10]

それから半年後、三菱を源流に持つ中日本重工(戦後の財閥解体にともなう三菱重工の分社)はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧であった[10][注釈 22]。 ラビットが好調な売れ行きをみせ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、1948年日本小型自動車工業会が発足し、GHQや官庁との交渉を経てさまざまな規制撤廃に成功[10]。オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れた[10]。 新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かった[注釈 23]

一方、スクーターに手が出なかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーター[注釈 24]を発売、本田技研工業は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジン[注釈 25]をベースに開発を重ね、後にホンダ・カブF型(通称「バタバタ」)を1952年に発売する[11]。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、スズキもオートバイ製造を開始した。

群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、1950年頃に復活しだしたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていった[10]。当時はオートレース場は存在していたがサーキットは存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、のちに公道で行われるようになっていった[10]。まず口火を切ったのは1953年3月21日に行われた名古屋TTレース、浜松静岡間レース、富士宮市浅間神社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レースの最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになった[12]。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していたヤマハは設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、YA-1を浅間火山レースへ参加させ、見事125ccクラスで上位を独占するといった功績を残した。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界は動き出した[12]

当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、クライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮[注釈 26]、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外のオートバイに追いつく技術開発をすすめる場としても活躍した[10]

こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の好景気と相まって消費者による峻別がはじまった。三種の神器と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要はなくなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けた[11][注釈 27]。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きかった。戦前においてはアメリカンが人気であったが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れた[13][注釈 28]。また、当時の流行であったトライアンフやDKWなどのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれるはずもなかった。 加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくなかった[14][注釈 29]。目黒製作所が1960年に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年にそのまま吸収されるかたちで戦前から続いていた企業は全て消滅することとなった[13]

こうした過当競争は当然、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていく。1958年に発売されたスーパーカブは対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮、なおかつ55000円の低価格、加えて当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えた[14]。他の有力メーカーはこれに対抗し、同価格帯で対抗車種を販売、あるいは対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされた[14]

1959年、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術を生かした並列多気筒エンジンを引っさげ、自動車レースの草分けであるマン島TTへの参加を表明、1961年には優勝を達成する[15]。外国製オートバイの後塵を拝し続けてきた日本のオートバイが世界一になった瞬間であった。 ホンダの偉業に負けじと国内各社も相次いでロードレース世界選手権へ参加を始め、日本車の国際舞台での勝利が常態化する[15]。翌1962年には国内初の全面舗装のサーキットである鈴鹿サーキットが完成、ロードレース世界選手権が開催され、この年のマニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門中4部門を日本勢が制する。こうした権威あるレースでの実績は日本製オートバイの輸出を推し進め、日本はオートバイ大国の仲間入りを果たした。

オートバイの生産台数、および輸出台数の推移[15]
年度 生産台数 輸出台数 輸出比率 輸出金額
1963 1,926,970 400,385 20.8 69,308
1964 2,110,335 592,739 28.1 101,630
1965 2,212,784 868,754 39.3 163,033
1966 2,447,391 976,360 39.9 180,358
1967 2,241,847 944,168 42.1 143,406
1968 2,251,335 1,136,636 50.5 184,312
1969 2,576,873 1,298,866 50.4 230,902
1970 2,947,672 1,737,602 58.9 370,327
1971 3,400,502 2,278,513 67.0 569,028
1972 3,565,246 2,437,185 68.4 774,608
1973 3,763,127 2,492,147 66.2 958,394
1974 4,509,420 3,240,466 71.9 1,473,434
1975 3,802,547 2,690,801 70.8 1,241,415
1976 4,235,112 2,922,254 69.0 1,294,894
1977 5,577,359 3,916,197 70.2 1,966,411
1978 5,999,929 3,749,415 62.5 2,166,193

しかし、モータリゼーションの到来とともに自動車が実用的な乗り物として普及すると、オートバイは一部の業務用を除いて趣味の乗り物として扱われるようになり、販売台数は頭打ちになった。

1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪おうとして、日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争が起きた。この競争のなかで、ラインナップが増えるとともに価格が下落し、さらに1980年代後半からは好景気(バブル景気)も重なり、1990年代前半にかけて日本にバイクブームが訪れた。しかし、このバイクブームから暴走族が全国各地で増え、危険走行や騒音、交通事故が社会問題となった。それによって三ない運動に代表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という社会の認識が強くなり、バブル景気の崩壊と共にバイクブームも急速に終息に向かった。

1990年代は東南アジアを中心とする発展途上国の市場が拡大する一方、2000年代には日本国内向け車種の生産も始まっている。

近年の国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者のシフトや、都市部での路上駐車の取り締まり強化や排ガス規制強化にともない、ピーク時に対して1/10という市場の大幅な縮小がおこった。趣味の乗り物としての需要は減少したものの、配達業務での用途は依然として根強い。また、緊急時の機動性が見直されて、救急や消防での利用が新たに着目されている。

オートバイ製造に携わった日本企業

日本のオートバイメーカーや工場は、戦後復興期に移動手段としての高い需要から、多くのメーカーが興っては消えていった。以下の表に記されたメーカーは、生産ラインの整備された大規模な工場を有するものから、町工場規模で少数生産していたにすぎない企業までさまざまである。




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注釈

  1. ^ 「ガソリン機関による動力で走る二輪車」(出典:大辞泉)。大辞泉では「ガソリン機関による」とされたが、2012年現在ではガソリン機関だけでなく、モーターやガスタービンを動力とするものも市販されている。
  2. ^ bi」は「2」を意味する接頭辞で「cycle」は「輪」輪を示す。いずれもラテン語に由来する。
  3. ^ また、ヤマハ発動機のウェブサイトでは、2012年3月29日時点で、Motorcyclesのページ内に大きく「スポーツバイク」「スクーター」「競技用」の3つを立てている[1]が、「スポーツバイク」の中に、TMAX(=スクーター タイプ)も含めている[2]
  4. ^ http://megalodon.jp/2012-0329-2122-59/www.honda.co.jp/motor/ ホンダのホームページ、http://megalodon.jp/2012-0329-2122-08/www.honda.co.jp/motor-lineup/category/ 同ページカテゴリー区分
  5. ^ スズキのホームページでは、2012年3月29日時点で、「二輪車」というタイトルのページをつくり、そこで排気量別で大きく分け、各排気量の中に、スクーターも含めて表示した。[3]
  6. ^ 「週刊バイクTV」は、オートバイに関する番組であるが、各社の大型スクーターの紹介を頻繁に行っている。
  7. ^ あるいは「オートバイ」という用語は最初から避け、「motorcycles」「二輪車」という用語を用いてスクーターも含めて様々なタイプのそれを説明・紹介している。
  8. ^ 人体を基準にするため黎明期から現代に至るまでおよそ全長200cm、幅70cm、高さ80cm程度の車格が用いられている
  9. ^ 代表的な技術としてサイドバルブ機構がOHV機構に、自動負圧式バルブが機械駆動式に、鋳鉄シリンダーおよびピストンがシリンダーで鋼製削りだし、ピストンが鋳鉄、あるいは鍛造アルミ、オイルリングの装着などが挙げられる
  10. ^ 60*60mm、180ccの空冷4ストローク単気筒エンジンは回転速度2000rpmまで回り、出力公証1.5psを発揮した
  11. ^ フロントブレーキや手を使ってのクラッチ操作には後にボーデンケーブル英語版が用いられ、これは現代においても同様の機構を用いた車種が存在する。
  12. ^ 1935年までに日本にはAJS、アリエル、ダグラス、BSA、JAP、ノートン、ラッジ、サンビーム、トライアンフ、ヴェロセット(以上イギリス)、モトグッチ(イタリア)、クリーブランド(アメリカ)、BMW(ドイツ)といった各国のオートバイが輸入されていた。
  13. ^ 当時であってもエロと省略され、冷やかされたという。
  14. ^ 1928年、日本自動車の蒔田鉄司により設計された250cc、空冷2ストロークエンジンを搭載した車両。
  15. ^ 1930年に宍戸兄弟の手により製作された350cc、および500ccエンジンを搭載した車両
  16. ^ 1934年東京モーター用品製造組合会員による共同製作車両。エンジン設計はJAC号と同じく蒔田鉄司。
  17. ^ 1927年愛知県犬山のみづほ自動車製作所により製作された車両。キャブトンとは、Come And Buy To Osaka Nakagawaの頭文字を並べたもので、もともとは大阪の中川幸四郎商店が設計したものであった。
  18. ^ 1936年にプロレーサーとしても活躍した栗林氏が経営する栗林部品店が製作した車両。同社は1928年創業、1933年にヴィリアース社製2ストロークエンジンを搭載した車両を製作し、1936年には500cc、4ストロークエンジンを搭載した車両を製作した。
  19. ^ 1937年、日本内燃機会社が製作した1296cc、4ストロークV型2気筒の大型エンジン搭載し、最高出力は12psに達した。エンジン設計は蒔田鉄司、車名は同氏の名前にちなむ。
  20. ^ 1936年目黒製作所が製作、販売した車両。目黒製作所は1923年村田延治、鈴木高広の二名によって創業され、当初は変速機やエンジンの製造を行っていた。この車両では500cc、4ストロークOHV単気筒エンジンを日本で始めて搭載していた。
  21. ^ 現在の富士重工
  22. ^ もっとも、このような最低限の製品であっても一般庶民の手に届くものでは到底なかった。
  23. ^ このようなメーカーは五大メーカーをもじって(月の生産台数で)五台メーカーと揶揄された。
  24. ^ 2ストローク42×45mm、62ccのエンジンで1.2馬力を発揮した。
  25. ^ 戦中2ストローク無線電源用発電機の多くはトーハツが製造、納品していた。
  26. ^ また、国産車にはないスリーブレスアルミメッキシリンダーといった技術も用いられていた。
  27. ^ ビスモーターを他社に先駆け発売したみづほは需要の変化に戦前からの実績があった350cc単気筒や600cc二気筒エンジンを搭載した車両を市場に送り出すが、当時の流行からは大きすぎた。こうした市場との乖離による業績不振や、晩年のなりふり構わぬ小型車の発売などはブランドイメージの低下に拍車をかけ、最盛期であった1954年のわずか2年後に倒産。
  28. ^ 戦中唯一オートバイを製造していた陸王も最後に販売した陸王AC型は空冷4ストロークOHV345cc単気筒、最大出力18ps/4,750rpm シャフトドライブで最高速度120km/h 車両重量180kgのドイツ車のような車両であった。1960年倒産。
  29. ^ 。戦前の川西航空機が終戦を機に新明和興業と改名。航空機で培った技術を元にバイクモーターを手始めにオートバイ事業に参入したが、新進オートバイメーカーの躍進に業績が悪化。1963年に18年のオートバイ事業に幕を下ろす。
  30. ^ 画像は、ウィキメディア・コモンズの「[Category:Motorcycles with FWD (front wheel drive 前輪駆動のモーターサイクル]」を参照。
  31. ^ 重篤なものとしては大腿部の動脈を損傷した場合などがある
  32. ^ 2006年から、北米生産のアメリカンツアラー「ゴールドウィング」を皮切りに装備された。
  33. ^ C1に装備して発売し、ヨーロッパの一部の国ではヘルメット着用義務の例外として扱われる車種となった。
  34. ^ ヘルメットリムーバーまたエアジャッキの要領でヘルメットを頭から抜くツールも開発されており、ヘルメットリムーバーにおいてはロードレースなどの競技会で義務化されつつある。

出典

  1. ^ a b c d 広辞苑 第五版
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