オランダ黄金時代の絵画 オランダ黄金時代の絵画の概要

オランダ黄金時代の絵画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 07:50 UTC 版)

真珠の耳飾りの少女ヨハネス・フェルメール (1665-1666年頃) マウリッツハイス美術館

オランダ黄金時代の絵画はヨーロッパ全体でみるとバロック絵画の時代と合致し、なかにはバロック絵画の特徴がみられるものもある。しかし、バロック絵画の典型的な特徴である対象の理想化や壮麗な画面構成はほとんどなく、隣国であるフランドルのバロック絵画の影響も見られない。この時代に制作された有名なオランダ絵画の多くは、伝統的な初期フランドル派から引き継いだ細部にわたる写実主義の影響を強く受けている。

この時代の絵画を最もよく特徴づけるのは、それまでになかったジャンルの絵画が制作されたことであり、画家の多くがさまざまなジャンルに特化して絵画を描いた。このようなジャンルの専門化は1620年代後半に始まっており、1672年の仏蘭戦争までが、オランダ黄金時代絵画の最盛期となった。

絵画のジャンル

ジプシー女フランス・ハルス (1625-1630年頃) ルーブル美術館 板絵(油彩)

当時のヨーロッパ絵画の特徴といえるのが、初期のヨーロッパ絵画と比べて宗教を扱った絵画が少ないことである。オランダのカルヴァン主義教理は教会に宗教画を飾ることを禁じており、聖書を題材に描かれた絵画は個人宅では受け入れられていたとはいえ、制作されることはほとんどなかった。宗教画と同じく伝統的なジャンルである歴史画肖像画は制作されていたが、その他のジャンルの絵画が多く描かれている。農民の暮らしを描いた風俗画風景画、都市景観画、動物が描かれた風景画、海景画、植物画、静物画などさまざまな専門分野に特化した絵画が制作された。これらのさまざまな絵画ジャンルの発展には、17世紀のオランダ人画家たちが決定的な影響をおよぼしている。

絵画においても、歴史画を最上位に、静物画を最下位に位置づける「ジャンルのヒエラルキー(Hierarchy of genres)」は広く受け入れられており、多くの画家が歴史画を制作している。しかしながら歴史画は、たとえレンブラントの作品であったとしても売却が困難で、ほとんどの画家は「ヒエラルキー」としては下位ではあるものの、売却が容易な肖像画や風俗画を描くことを強いられた。「ジャンルのヒエラルキー」による絵画分野の順位付けは以下のようなものである。

  • 歴史画(宗教的主題も含む)
  • 肖像画
  • 風俗画、日常生活を描いた絵画
  • 風景画、都市景観画(オランダ黄金時代の画家サミュエル・ファン・ホーホストラーテンは、風景画家のことを「芸術家を軍隊とするならば、単なる一兵卒に過ぎない」としている[2]
  • 静物画
若い牡牛パウルス・ポッテル (1647年) マウリッツハイス美術館「ジャンルのヒエラルキー」を無視した珍しい動物画

オランダ人画家たちは「下位」に位置づけられるジャンルの作品を多く描いたが、「ジャンルのヒエラルキー」の概念を無視していたわけではない。描かれた絵画のほとんどは比較的小さなもので、複数の人物を描いた肖像画だけが一般的な大きさの作品だった。壁に直接描く壁画は辛うじて描かれていたとはいえ、公共の場所の壁を絵画で装飾する必要があるときは、ちょうどいい大きさのキャンバスが使用されるのが普通だった。硬く精密な下地を求めて、新しい支持体だったキャンバスではなく旧来からの木板を使用した板絵を制作する画家も多かった。一方オランダ以外の北ヨーロッパの画家たちは、板絵を描くことはまれになっていき、銅版画に使用したあとの銅版を支持体とする画家も出てきた。

オランダ黄金時代に描かれた絵画のなかには、18世紀から19世紀にかけて再利用され上から新しい絵を重ね塗りされたものもある。これは貧しい画家にとって、新品のキャンバスや額装などよりも古い絵画のほうが安価に入手できたためだった。絵画とは逆にこの時代にオランダで制作された彫刻作品はほとんどない。葬礼芸術としての墓標にわずかに見られる程度で、公共建築物や個人宅の飾りは銀製品、陶製品などに置き換えられていく。装飾に使用されたデルフト近辺で製作されたデルフト陶器のタイルは非常に安価で一般的なものとなっていた。銀細工を例外として、当時のオランダ人芸術家たちの関心と努力はもっぱら絵画・版画分野に向けられていたのである。

背景

『居酒屋で喫煙とバックギャモンを楽しむ紳士達』ディルク・ハルス (1627年)

当時大量に制作された絵画の大規模な即売会の記録を外国人たちが残しており、それによると130万枚以上の絵画が1640年から1660年の20年間にオランダだけで制作されている[注釈 3]。一握りの著名で流行の最先端を行った画家の作品を除いて、供給過多のため絵画の価格は低かったと考えられる。現在では名匠とされているフェルメールフランス・ハルス、晩年のレンブラントも、当時はさほどではない、あるいは流行に外れた画家として経済的問題を抱え、貧困のうちに死去している。多くの画家が副業をもっており、芸術家としての生計を完全に諦めた画家もいた[注釈 4]。とくに1672年のフランス侵略は絵画市場に深刻な不況をもたらし、絵画の価格が以前の水準に戻ることはなかった[3]

ハールレム聖ルカ組合ヤン・デ・ブライ (1675年) アムステルダム国立美術館 ヤン自身が左から二人目、花の画家として知られる弟のDirck de Brayが後列右端に描かれている

オランダ人画家の絵画技術は非常に高く、中世からの徒弟制度が依然として続いていた。一般的なオランダの絵画工房はフランドルやイタリアに比べると小規模で、同時に1人か2人の弟子しかとらず、徒弟数はギルドの規定で制限された。宗教改革後にカトリック教会の影響力が低下し、それまで教会の祭壇画や教会関係者からの注文を受けていた各地の聖ルカ組合の力も衰える。しかしギルドそのものは画家にとって必要で、教会に代わる新しい依頼主をその都市の有力者に求めた。こうして世俗的ギルドはこの時代に確立された。アムステルダムは1579年、ハールレムは1590年、そしてゴーダロッテルダムユトレヒト、デルフトでは1609年から1611年にかけて成立した[4]。一方ライデンでは1648年まで世俗的ギルドは成立しておらず[5]、カトリック法廷が置かれていたデン・ハーグでは1656年に宗教的ギルドと世俗的ギルドの2つに分裂している。

『醜い老婆を描くゼウクシスとしての自画像』レンブラントの最後の弟子アールト・デ・ヘルデル (1685年) シュテーデル美術館

各地のギルドが所属する画家の絵画を一括して販売する伝統的な手法は既に時代遅れで、高品質高価格の絵画を制作するには従来の徒弟制度とは別の教育が必要で、各地のギルドでの専売制は無意味であると考えられた。その結果多くの都市は学校制の芸術家教育機関を設置した。絵画の契約、販売場所も宿場、私有地、公開市場など多岐に渡る。肖像画だけは例外で、諸外国と違い特定顧客との契約なしに多くのオランダ絵画が「投機目的」で描かれた。これはオランダ美術市場が後世に影響を及ぼす一例である[6]

Schilder-boeck冒頭のページ

オランダには多くの芸術の名門家系があり、自身の師匠の娘や他の芸術家の娘と結婚する者も、富裕な家系出身の者も多かった。各都市特有の作風や得意なジャンルがあったが、もっとも繁栄していたアムステルダムは様々な画家たちが集う巨大な芸術中心都市だった[7]。オランダの画家は諸外国に比べると絵画理論にはそれほど関心がなく、芸術家間で互いに芸術論をたたかわせることもなかった。これはイタリアに比べて、芸術論が知的サークルや一般大衆間で興味を持たれなかったことを意味する[8]。ほぼすべての絵画制作依頼や絵画売買が私的なもので、諸外国に比べると中産階級相手の取引の記録は残っていないが当時の芸術はオランダが世界に誇るものであり、伝記作家たちの著作は重要な情報源となっている。

Teutsche Academieの版画

フランス・ハルスの師カレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)』(1604年)には黄金時代前半の画家たちの伝記が書かれている。アルノルト・ホウブラーケンの『De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen』(1718-1721年)にも500人以上の画家の伝記が書かれ、重要な著作である。両書ともジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』を一部底本としており、内容はおおむね正確である。アムステルダムで活動していたドイツ人美術史家・画家のヨアヒム・フォン・ザンドラルトの『高貴なる建築・絵画・彫刻のドイツ・アカデミー(ドイツ・アカデミー)The German Academy of the Noble Arts of Architecture, Sculpture and Painting, or Teutsche Academie』(1675年)も同様の形式で書かれたオランダ人芸術家の伝記である。ホウブラーケンの師で、レンブラントの弟子だったサミュエル・ファン・ホーホストラーテンの『絵画芸術の高等画派入門Inleyding tot de hooge schoole der schilderkonst』(1678年)は単なる伝記ではなく批評も含んでおり、当時についての重要な論文である。しかし、これらの著作はオランダでの芸術理論ではなくルネサンスの芸術理論に多くのページをあてている。当時のオランダ絵画を完全に網羅しているとはいえず、当時はあまり描かれていなかった歴史画についての記述も多い[9]


注釈

  1. ^ 1702年がオランダ黄金時代の終焉だとする説がある:Slive はオランダ黄金時代を1600年 - 1675年と1675年 - 1800年に分けて著述している[1]
  2. ^ 日本で「オランダ絵画」と呼称される絵画は、この時代に描かれたものをさすことが一般的である。
  3. ^ 現存しているのはそのうちの1%程度で、価値ある絵画は10%程度だった(Lloyd, 15)
  4. ^ MacLaren によると、ヤン・ステーンは宿屋を経営し、アルベルト・カイプは裕福な家庭から妻を迎えたため経済的な心配はなかった。一方カレル・デュジャルディンは画家として生計を立てるのを諦めたとされる
  5. ^ ソフィアの父Elias Trip(VOC取締役)の2人目の妻である母Alithea Adriaensdochter、妹マリア・トリップ(1619-1683)[21]をレンブラントが肖像画に描いている[22]
  6. ^ クラースは光の反射の表現にすぐれていたことで有名だった。
  7. ^ 娼婦を買うためのコインであり、この絵画が売春宿の情景であることを意味している。

出典

  1. ^ Slive, 296, 294, 32
  2. ^ Fuchs, 104
  3. ^ Franits, 217 and ff. on 1672 and its effects.
  4. ^ Prak, 241
  5. ^ Lloyd, 97
  6. ^ a b Fuchs, 43
  7. ^ Franits' book is largely organized by city and by period; Slive by subject categories
  8. ^ Fuchs, 76
  9. ^ See Slive, 296-7 and elsewhere
  10. ^ Fuchs,107
  11. ^ Fuchs, 62, R.H. Wilenski, Dutch Painting, "Prologue" pp. 27-43, 1945, Faber, London
  12. ^ Fuchs, 62-3
  13. ^ Slive, 13-14
  14. ^ Fuchs, 62-69
  15. ^ Franits, 65. Catholic 17th century Dutch artists included Abraham Bloemaert and Gerard van Honthorst from Utrecht, and Jan Steen, Paulus Bor, Jacob van Velsen, plus Johannes Vermeer who probably converted at his marriage. Jacob Jordaens was among Flemish Protestant artists.
  16. ^ Slive, 22-4
  17. ^ Fuchs, 69-77
  18. ^ Fuchs, 77-78
  19. ^ Ekkart, 130 and 114.
  20. ^ "Sold in july 2008 by Sotheby's for 8,8 milj. euro".
  21. ^ 歴史家Isabella Henriette van Eeghenのレンブラント研究がBalthasar Coymansの妻の肖像画であるとした(1956年)。
  22. ^ トリプ家系図
  23. ^ Ekkart, 17 n.1 (on p. 228).
  24. ^ Shawe-Taylor, 22-23, 32-33 on portraits, quotation from 33
  25. ^ Ekkart, 118
  26. ^ Ekkart (Marike de Winkel essay), 68-69
  27. ^ Ekkart (Marike de Winkel essay), 66-68
  28. ^ Ekkart (Marike de Winkel essay), 69-71
  29. ^ Ekkart (Marike de Winkel essay), 72-73
  30. ^ BS朝日 - 世界の名画 ~美の迷宮への旅~”. archives.bs-asahi.co.jp. 2024年1月14日閲覧。
  31. ^ Fuchs, 42 and Slive, 123
  32. ^ Franits, 1, mentioning costume in works by the Utrecht Caravagggisti, and architectural settings, as especially prone to abandon accurate depiction.
  33. ^ Franits, 4-6 summarizes the debate, for which Svetlana Alpers' The Art of Describing (1983) is an important work (though see Slive's terse comment on p. 344). See also Franits, 20-21 on paintings being understood differently by contemporary individuals, and his p.24
  34. ^ On Diderot's Art Criticism. Mira Friedman.p. 36
  35. ^ Fuchs, 39-42, analyses two comparable scenes by Steen and Dou, and p. 46.
  36. ^ Franits, 24-27
  37. ^ Franits, 34-43. Presumably these are intended to imply houses abandoned by Catholic gentry who had fled south in the Eighty Years War. His self-portrait shows him, equally implausibly, working in just such a setting.
  38. ^ Fuchs, 80
  39. ^ Franits, 164-6.
  40. ^ MacLaren, 227
  41. ^ Franits, 152-6. Schama, 455-460 discusses the general preoccupation with maidservants, "the most dangerous women of all" (p. 455). See also Franits, 118-119 and 166 on servants.
  42. ^ Slive, 189 – the study is by H.-U. Beck (1991)
  43. ^ Slive, 190 (quote), 195-202
  44. ^ Derived from works by Allart van Everdingen who, unlike Ruysdael, had visited Norway, in 1644. Slive, 203
  45. ^ a b Slive, 225
  46. ^ Rembrandt owned seven Seghers; after a recent fire only 11 are now thought to survive – how many of Rembrandt's remain is unclear.
  47. ^ Slive, 268-273
  48. ^ Slive, 273-6
  49. ^ Slive, 213-216
  50. ^ Slive, 279-281. Fuchs, 109
  51. ^ Fuchs, 113-6
  52. ^ and only a few others, see Slive, 128, 320-321 and index, and Schama, 414. The outstanding woman artist of the age was Judith Leyster. Other female artists are described here
  53. ^ Fuchs, 111-112. Slive, 279-281, also covering unseasonal and recurring blooms.
  54. ^ Slive, 212
  55. ^ See Reitlinger, 11-15, 23-4, and passim, and listings for individual artists
  56. ^ See Reitlinger, 483-4, and passim
  57. ^ Slive, 319
  58. ^ Slive, 191-2
  59. ^ Slive, 144 (Vermeer), 41-2 (Hals), 173 (Steen)
  60. ^ Slive, 158-160 (coin quote), and Fuchs, 147-8, who uses the title Brothel Scene. Franits, 146-7, citing Alison Kettering, says there is "deliberate vagueness" as to the subject, and still uses the title Paternal Admonition.
  61. ^ Reitlinger, I, 11-15. Quote p.13


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