アーネスト・サトウ
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サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日[1])は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(さとう あいのすけ)または 薩道 愛之助(読み同じ)。雅号に薩道静山[2]。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者の武田久吉は次男。
注釈
- ^ 当時、公使オールコックは一時帰国していた。
- ^ このころ、文久遣欧使節に随行した市川渡(清流)の著した『尾蝿欧行漫録』を英訳、一部がロンドンで東洋学の雑誌『ザ・チャイニーズ・アンド・ジャパニーズ・レポジトリー』に連載された。
- ^ 長州藩と休戦協定を結び連合艦隊が退去した後も下関監視の任務を帯びたバロッサ号に乗船し、しばしば下関・小倉に上陸した。伊藤とはしばしば面談し、下関での通商や長州征伐問題などについて話し合っている。その後、長州藩の修好使節とともに横浜に帰着した。
- ^ 神戸郊外の摩耶山や布引の滝などを訪れている。
- ^ 長崎では、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘楠本イネに会った。
- ^ 入江佐吉は、宇和島藩校の皇学教授であった鈴木重樹(穂積陳重の実父)の同僚だった。
- ^ パークスはこの時点で幕府を日本の正当政府と認めることに懐疑的であり、従って慶喜への謁見も態度を決めかねていた。
- ^ 途中、護衛と監視のために同行した幕府役人の外国方や別手組といざこざをおこしている。吉田宿でサトウ一行を追い抜いた外国奉行川勝広道に急用ありと幕府役人に早籠を仕立てることを要求したが結局早飛脚を送ることで決着した。
- ^ 日光例幣使側に犯人処罰を要求し、2名が死罪、4名が遠島などになった。
- ^ 佐渡では一時公使一行と別れて、徒歩で佐渡を横断した。
- ^ 金沢で会った加賀藩士が『英国策論』を読んでいたことを知った
- ^ サトウの日本語教師をつとめ、『英国策論』の翻訳にあたった徳島藩士沼田寅三郎を介して徳島藩主蜂須賀斉裕から招待を受けた。
- ^ このとき後藤から「議事院」など将来にわたる日本の政治体制について話をきき、ほぼ同じ時期に薩土盟約の両当事者(西郷と後藤)に会ったこととなった。交渉に時間がとられたため薩土盟約が解消された。
- ^ この船には坂本龍馬も同乗していたが船中でサトウと話した形跡はない。
- ^ 伊藤博文・坂本龍馬とも会っている。当時龍馬は偽名を使っていたため、サトウの日記には才谷梅太郎と書かれている。
- ^ 大坂ではええじゃないかを目撃している。
- ^ 藩主島津忠義と三千の藩兵を擁し上京してきていた。
- ^ このときの明治天皇から外交団に宛てた文書を翻訳している。内容は「慶喜の政権返上を認め、今後は天皇の称号が、条約に用いられた大君の称号にとってかわる」というものであった。
- ^ 神戸事件の処理(パークスは穏便な処理を考えていたが、サトウは厳罰を主張していた)と将来の条約改正の必要性について話し合った。
- ^ 天皇への謁見のために御所に向かったが、ここで2人の攘夷派に襲撃された。1人は同行していた中井弘蔵と後藤象二郎が斬殺し、1人は捕らえられた。英国人公使館員は無事であったが、サトウの馬は軽い傷を負っていた。この日の謁見は中止されたが、3日後に実現した。ただし、このときはサトウは謁見していない。パークス以外で謁見を受けたのはミットフォードのみであった。彼はサトウが謁見を受けられなかった理由を「英国の宮廷で同様な経験がなかった」ためであろうと想像している。なお、ミットフォード自身はこの時点で爵位を持っていなかったが、貴族の家系の出身であり、従兄弟のリーズデイル伯爵に後嗣が無かったため、1902年にリーズデイル男爵家を起こしている。
- ^ イギリス軍艦ラットラー号に乗船し横浜を出港、箱館・岩内・小樽を経由して宗谷に至るが、ここでラットラー号が座礁してしまい、フランス軍艦デュプレクス号に救助され横浜に帰着し、所期の目的は果たせなかった。
- ^ 当時アジア地域で勤務する外交官は勤続年数が5年を過ぎると1年の休暇を申請できた。
- ^ サトウの日記には、このときの西郷は非常に無口で、「いつまで東京にいるかわからない」と言ったと書かれている。
- ^ この会談では、士族の特権解消にともなう家禄整理と藩札処分について話し合った。
- ^ 東京三田伊皿子の指物師の娘という説、公使館出入りの植木職人倉本彦次郎の娘という説がある。
出典
- ^ “デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説”. コトバンク. 2018年2月4日閲覧。
- ^ a b “幕末を動かした英外交官が日本人妻へ送った500通のラブレター”. 週刊朝日 (2014年9月1日). 2020年11月1日閲覧。
- ^ a b c 井戸桂子「アーネスト・サトウにとっての日光中禅寺」『駒沢女子大学研究紀要』第16巻、駒沢女子大学、2009年12月、31-46頁、doi:10.18998/00001064、ISSN 13408631、NAID 110007522793。
- ^ ローレンス・オリファント著、岡田章雄訳「エルギン卿遣日使節録」新異国叢書〈9〉。雄松堂書店(1978年) ASIN: B000J8FCNI
- ^ 司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談『日本人と日本文化』(1984年4月、中公文庫)P174
- ^ 佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと 今井一良、日本英学史学会英学史研究15号、1982、P.20(PDF-P.6)
- ^ ヒューブナーは各国大使を務めた高級外交官で、退官後に世界旅行した紀行本がベストセラーとなり、1888年に伯爵が与えられた。日本滞在については邦訳『オーストリア外交官の明治維新――世界周遊記「日本篇」』がある。
- ^ 「大山町史」第6章 交通・通信の発達 p550 大山町史編纂委員会編 1964年発行
- ^ THE STORY OF ENGLAND’S JEWS The First Thousand Years Marcus Roberts,National Anglo-Jewish Heritage Trail,2007
- ^ The City of London, page1 Marcus Roberts,National Anglo-Jewish Heritage Trail
- ^ a b 『明治維新を見た外国人 アーネスト・サトウのその後を追う』第2章旅立ち 山崎震一、マイナビ, 2014/11/29
- ^ a b 『幕末維新を動かした8人の外国人』第7章 倒幕の理論家サトウ 小島英記、東洋経済新報社, 2016/01/15
- ^ “企画展「近代日本学のパイオニア」-武田家と戸田家の寄贈資料から”. 開港のひろば. 横浜開港資料館 (2014年10月22日). 2020年11月1日閲覧。
- ^ a b c 『明治維新を見た外国人 アーネスト・サトウのその後を追う』第1章序章 山崎震一、マイナビ, 2014/11/29
- ^ 朝日新聞、明治28年8月2日
- ^ “Vol.24 法政大学 市ケ谷キャンパス内史跡 アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡と市ケ谷キャンパス”. 読売新聞 (2011年10月27日). 2020年11月1日閲覧。 “1976年に法政大学が購入し、同大市ヶ谷図書館が建設された。”
- ^ Sir Ernest Satow's Private Letters to W.G. Aston and F.V. Dickins: The Correspondence of a Pioneer Japanologist from 1870 to 1918 Ernest Mason Satow, Lulu.com, 2008
- ^ Alfred T Satow 1920 United States Census[リンク切れ]
- ^ 『横浜150年の歴史と現在』横浜開港資料館、読売新聞東京本社横浜支局,2010
- ^ 自著『一外交官の見た明治維新』
- ^ a b c d 『蒐書家・業界・業界人』 反町茂雄、八木書店, 1979
- ^ 1902年戴冠式受賞者。
- 1 アーネスト・サトウとは
- 2 アーネスト・サトウの概要
- 3 家族
- 4 給与
- 5 叙勲
- 6 脚注
固有名詞の分類
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