アイルトン・セナ
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死後
ブラジル国内の反応
セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去のアナウンスを優先し、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していた現地のテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。
セナの亡骸がイタリアから母国に搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラス MD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。
母国の政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。多くのドライバーがセナの葬儀に出向いたため、FIA会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、5月7日にオーストリアのザルツブルクで行われたローランド・ラッツェンバーガーの葬儀に出席した[46]。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。
ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称。サンパウロ地下鉄では、彼が生まれ育った地域にある駅名「ジャルジン・サンパウロ駅」に彼の名前を付けて変更を行う(Estação Jardim São Paulo-Ayrton Senna)など、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。
また、同年に行われた1994 FIFAワールドカップではサッカーブラジル代表が1994 FIFAワールドカップ・決勝で4度目の優勝を果たし、「SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA É NOSSO!」(セナ、共に走ろう。4度目の優勝は我々のものだ)という横断幕を掲げた。
日本国内の反応
- ホンダ
- 死亡当時、セナが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際にエンジンを供給していたホンダ(本田技研工業株式会社)は、既にF1から撤退して1年以上経過しており、セナとは何も正式な契約・関係もない状況であった。しかし、セナとの「お別れ」を希望する日本のファンのために、セナが1992年にドライブしていたマクラーレンMP4/7A・ホンダと実使用したヘルメット(ロータス・ホンダ時代のもの)を青山の本社1階ショールームに展示し献花などお別れの場を設けた。
- その際、1991年に死去していた創業者の本田宗一郎の「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような社葬などしてはいけない」との生前からの言葉に合わせるように[47]、通常は一般に開放していない本社地下の駐車場を、車で訪れたファンに対して無料で開放するなど、最大限の配慮を持ってセナの死を悼んだ。記帳した人にはその後、ホンダからセナのポストカードが3枚入った封筒が郵送された。
- フジテレビ
- セナのクラッシュは、フジテレビではF1グランプリ中継の前番組である「スポーツWAVE」で報じられ、続いてF1グランプリ中継がイモラサーキットからの生中継で開始された。放送は、その後一旦決勝レースの録画放送になったが、それから約20数分後にセナの訃報が「ニュース速報」として字幕スーパーで伝えられてから、レースシーンの放映を中断。再び生中継に変わり、既にレースが終わって夕刻を迎えていたイモラサーキットから、このレースの実況担当の三宅正治と解説の今宮純、ピットリポートの川井一仁が、視聴者にセナの死を涙を堪えながら伝えた[47]。
- その後は即席のセナ追悼放送に切り替わり、その場にフェラーリの後藤治が通りかかり、ホンダ時代のセナとの思い出を語るとともに、「苦しまずに逝ったことが救い」と沈痛な面持ちで述べた。後日に深夜放送枠で、司会に古舘伊知郎、ゲストに森脇基恭・中嶋悟、セナのファンである森口博子を迎え、前出の3人もイモラから衛星放送で参加する形で追悼放送が行われた。その後に、本放送時にほとんど放送されなかった決勝レースの全編が改めて放送された。これは民放の地上波でありながら、CM無しのノーカットでの放送だった[47]。
- フジテレビ以外のテレビ局
- セナの事故死はNHKをはじめとした各局でもニュースで速報で報じられた。またワイドショーでもセナ追悼の特集が組まれた。
その他
1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーを悼むために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。
セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐ彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後、彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った[48]。
セナの死から24年後となる2018年、マクラーレン・オートモーティブよりセナの名を冠した新型スーパーカー「マクラーレン・セナ」が発表された。
注釈
- ^ 当該レースの公式プログラムにおける日本語表記は「センナ・ダ・シルバ」
- ^ セナの他ピエルルイジ・マルティニ、マウロ・バルディ、クリスチャン・ダナー、ロベルト・ゲレーロがテストドライブし、ベテランのジョン・ワトソンもブラバムの候補だった。
- ^ トールマンのメカニックだった津川哲夫が自身のYoutubeチャンネルにて「F1デビュー年のセナはまだF1を操る体力が無く、セッションごとに疲れ切っていた」と証言している。
- ^ 車体下面が歪み、グラウンド・エフェクトを発生しているのではないかなど。セナは「とにかくライドハイドが低い」と、火花の理由を語っていた。
- ^ セナが前年TG183Bをドライブした際に非常に腕力が必要で苦労したため、同じ車でセナの前年入賞を繰り返したワーウィックの力量を高く感じたという。
- ^ 当時のコンピュータ技術がまだ未熟であり、この年のみでロータスのアクティブ・サスは姿を消した。本格採用は1992年。
- ^ 最終戦オーストラリアGPでの2位が失格とならなければ、負傷欠場したマンセルを上回りランク2位となっていた。
- ^ ホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている
- ^ 2人のドライバーに優劣をつけないこと
- ^ 全16戦での総獲得ポイントはプロストが上回っていたが、有効ポイント制が適用された結果セナがタイトルを獲得した。
- ^ 決勝では1周目に先行した後、リタイヤするまでハッキネンの前を走っていた。
- ^ この件ではマンセルにはペナルティが出されず、最終的に2人が数秒差でゴールしたこともあって、解説者として現場にいたプロストは裁定に疑問を唱えていた。ナイジェルの勝利が素晴らしいとは書けない
- ^ 当時はフライ・バイ・ワイヤと呼ばれていた。
- ^ F1では、市街地で開催されたGPには37戦参加しており、半数以上を制したことになる。
- ^ モンテカルロ、デトロイト、ダラス、スパ(2/3が公道)、アデレード、フェニックス。
- ^ ポール・リカール6回、マニ・クール3回、ディジョン1回
- ^ ポール・リカールで9度中5勝、マニクールで2度中1勝、ディジョンで3度中1勝、ジャガレパグアで9度中5勝、インテルラゴスで3度中1勝。
- ^ この一件ではセナには特にペナルティが出ず、この出来事が1994年最終戦オーストラリアGPでシューマッハがコーナーでインをついたヒルに対して同様の行為をした遠因であるとも言われている
- ^ 厳密に言えばマンセルの子供は参戦しておらず、またブルーノはアイルトンの甥なので「4強」ではない。
- ^ 三宅の8回に対し、古舘は12回(1990年アメリカGP・1993年日本GP等)、大川は11回(1988年サンマリノGP・1988年日本GP等)担当している。
- ^ 1991年ブラジルGP・1992年モナコGP・1993年ヨーロッパGPなど。
- ^ ホンダエンジンでの最後の優勝となった1992年イタリアGP、自身最後の優勝である1993年オーストラリアGP等。
- ^ 1988年イタリアGP・1989年ハンガリーGP・1990年メキシコGP。
- ^ 1988年ポルトガルGP・1989年ポルトガルGP。
- ^ 1989年アメリカGP・1990年サンマリノGP・1993年サンマリノGP。いずれも馬場の該当シーズンにおける、初実況レースであった。
- ^ このGPの結果次第では、直後の日本GPを待たずしてセナのチャンピオンが決まる可能性があり、それを避けたかったフジテレビ陣営が、国際FAXで送信しコメンタリーブースに貼り付けていたもの。
- ^ ただし4勝のうち2勝は、新記録となる開幕4連勝を達成した1991年モナコGP、本田宗一郎逝去直後の弔い合戦を制した1991年ハンガリーGPという節目の勝利であった。
映像資料
- ^ 【津川哲夫のF1ヒストリー】セナvs津川哲夫 1984年トールマン時代【#28】(8分10秒付近~). 津川哲夫のF1グランプリボーイズ. 2 May 2021.
出典
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