アイルトン・セナ エピソード

アイルトン・セナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 02:03 UTC 版)

エピソード

パーソナルデータ
  • 利き手は左。
  • 血液型はRh+B型[73]
  • 趣味のひとつに、ラジコン飛行機ヘリコプターがあった。市販のものを購入し、独自に改造も行うほど。日本の友人から日本製の製品も多く受け取り熱中していた。
  • コーヒーが苦手と語っている。「ブラジル人ながらコーヒーが苦手なのは僕くらいかも知れない」とも語っている。
  • オフには故郷のプライベートアイランドで水上オートバイを楽しんだ。1991年のシーズン中に水上オートバイの事故に遭い、後頭部を縫う怪我を負った。
家族・恋人
甥のブルーノ・セナ
  • 両親は父ミルトン、母ネイジ、兄弟は姉ビビアーニ、弟レオナルド。「セナ」は母方のファミリーネーム。
  • 姉のビビアーニ・セナ・ラッニは弟の死後「アイルトン・セナ財団」の代表に就任し、1994年日本GPにゲストとして来日し、日本のファンへ感謝のスピーチを述べた。ビビアーニの息子(アイルトンの甥)ブルーノ・セナは後にレーサーとなり、2010年にF1デビューを果たした。
    • その後ブルーノがフォーミュラEに参戦するとかつてのライバル・プロストとピケの息子(ニコラ・プロストネルソン・ピケJr.)と戦うこととなり、日本のメディアでは「セナ・プロ対決再び」「4強の子が集う」と話題になった[注釈 19]。2016年に開催されたロンドンePではニコラがポールポジション、ブルーノがフロントローに着けて「セナ・プロ対決」が実現した。
  • 一時期、当時ブラジルの国民的アイドルシューシャ(本名:マリア・ダ・グラサ・メネゲル)と交際していた。その出演番組にセナがゲスト出演したこともある。1988年のクリスマス番組で彼女がセナに「欲しい物は何?」と聞くと「ここでは言えない」と言って彼女にだけ耳打ちした。その後シューシャはワールドチャンピオンのお祝いと称し「新年の分」「1990年の分」「1991年の分」「1992年の分」「1993年の分」として何度も彼の顔にキスをしている。能天気なまでのキスシーンとは裏腹に「1993年の分」で終わることが1994年の事故を暗示していると後に評判となる。また、1990年ブラジルGPでは、シューシャがセナの応援に来ており、後にセナの葬儀にも参列した。なお、シューシャはセナと付き合う以前はサッカー選手ペレと交際をしており、セナと付き合ってからシューシャを巡ってセナとペレの間でトラブルがあったとの噂が広まっている[74]
信仰心
  • 敬虔なカトリックの家庭で育ち、自身も聖書を携帯し、インタビューなどでたびたび神の存在について語っている。
  • 1988年日本GPで自身初のチャンピオンを獲得した際には、レース後の会見で「スプーンカーブを走っている時、宙に浮いたような神を見た。光に包まれて、天高く上がっていってるんだ」と発言した[75]
慈善活動
  • セナ自身の意向により常に完全に匿名で行われていたため存命当時に公にされることはなかったが、チャリティに非常に熱心で、数百万ドルの私財を恵まれない子供たちに寄付していたという[54][76]
ビジネス
  • F1ドライバーとしての収入とは別に、自身で発足した会社を持ち事業を展開していた。通称「セナビル」と言われる自宅兼社屋をサンパウロ市内に私有、「セニーニャ (Senninha)」という自身をモチーフにしたキャラクター商品などの販売で収益を得、またその一部は寄付などにも充てていた。
交渉術
ナシオナル銀行のロゴの入ったマクラーレン時代のレーシングスーツ
  • チームとの交渉事ではタフな一面を見せた。マクラーレンではドライバーの個人スポンサーのPRを認めていなかったが、特例としてナシオナル銀行(NACIONAL)のキャップやロゴの露出を認めさせた。契約金が合意しなかった時は、ロン・デニス代表とコイントスで決めたこともあった。
  • 1983年オフにセナと共にF1テストを受けたマーティン・ブランドルは、「セナはあの当時からF3ボーイズと思えない老練な考え方をしていた。彼はトールマンと最初のF1契約を結ぶときに違約金さえ何とかなればいつでも破棄できる契約を結び、より強力なマシンに乗るチャンスを逃さないよう準備出来ていた。あの時点でセナは精神的に大人だった」と証言している[77]
  • 1990年夏にロン・デニスと行われた契約延長交渉でも年俸や契約年数など条件面の隔たりが大きく、セナはウィリアムズとフェラーリから契約を望まれていることを隠さずにデニスにプレッシャーを与え[37]、デニスが3年契約を希望していたものをセナが主張する1年契約プラス1年のオプション契約になり、報酬額もセナの希望した約22億円とされる額をデニスは全て飲むことになった。デニスをして「彼(セナ)はこのグランプリ界随一の交渉家だ」と言わしめた[37]
  • 1993年はフォードのワークスエンジン獲得を訴え、サンマリノGPでは金曜日のフリー走行開始直前までサーキット入りせずチームにプレッシャーをかけた。
  • 一方、ベルガーと共にワニの棲む池にロン・デニスを叩き落とし、「契約金を上げると約束すれば、助けてやる」という交渉をしたこともあった。なお、この際は、ロン・デニスが契約金上昇を約束し、2人に助けられている。
投票結果
  • イギリスのF1 Racing誌(2007年2月号)は、史上最速のF1ドライバーとしてアイルトン・セナを選出した。同誌は、FIAマックス・モズレー会長、当時のフェラーリチーム代表のジャン・トッド、元チャンピオンのケケ・ロズベルグ、元チームオーナーのエディ・ジョーダンなどのF1界を代表する有識者(28人)に投票を依頼し、最速ドライバー歴代50傑を決定した。セナはミハエル・シューマッハを抑えてランキング1位になった。3位はジム・クラーク
  • イギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載され、1位にアイルトン・セナを選出した。これは同誌のリーダーパネル会員の数千におよぶ投票で決定されたもので、2位はミハエル・シューマッハ、3位にファン・マヌエル・ファンジオ
  • 英誌オートスポーツは、F1ドライバー経験者217人の投票により「F1で最も偉大なドライバー」にセナを選出した。2位はミハエル・シューマッハ。3位はファン・マヌエル・ファンジオ。現役ではフェラーリのフェルナンド・アロンソの9位が最高だった(2009年12月)[78]
日本のメディア関連
  • フジテレビによるF1中継では、セナの印象的なレースとして語られることの多いGPは、三宅正治が実況を担当していたケースが多かった。優勝レースの担当回数は古舘伊知郎大川和彦に及ばない[注釈 20]が、名レースとして語られることの多いGP[注釈 21]や節目の勝利[注釈 22]の割合が高かった他、優勝レース以外でも、パトレーゼの猛攻を凌ぎ2位を死守した1992年ドイツGP、最期となった1994年サンマリノGP等が三宅の実況であった。
  • 一方で、単純にセナと相性の悪いアナウンサーとしてよく話題に挙がるのは当時関西テレビアナウンサーの馬場鉄志であり、終盤までトップを走行しながら勝利を逃す[注釈 23]、大きな遺恨を残す事態を生む[注釈 24]、シーズン初リタイヤを喫する[注釈 25]等、単に「優勝出来なかった」という以上の出来事を伴うレースが多くあった。ホンダ陣営も馬場との相性に関するエピソードを知っており、1990年スペインGPでは、馬場の顔写真[注釈 26]を見たホンダスタッフが「悪ふざけが過ぎる!」と怒ったこともあった[79]。1993年のスペインGPでは馬場が実況、古舘が解説を担当したが、古館が「馬場さんがアナウンサー担当の時にセナが勝った確率はなんと1割8分です。22戦して4勝[注釈 27]です」と発言し、それを聞いた馬場自身も「あまりその話題には触れたくないのでありますが…」と困惑する場面もあった(結果はプロストが優勝し、セナは2位)。
  • 1991年には週刊少年ジャンプ集英社)がマクラーレンのスポンサーとなっていたことから、35号から51号にかけてセナを主人公として同年のシリーズを描く『Fの閃光-アイルトン・セナの挑戦!!-』(原作: 西村幸祐 画: 長沢克泰・鬼窪浩久)が連載された。
  • 1992年10月20日、日本GP直前にフジテレビの依頼で「笑っていいとも!」「タイム3」「FNNスーパータイム」にはしご出演。「いいとも」の収録後、フジテレビへ向かうセナを出待ちをする人混みで新宿アルタ前が一時騒然となった。石橋貴明はオフの日に「いいとも」を見ていたところ、偶然セナの番組出演を知り、フジテレビ関係者を通じて「会いたい」と交渉したところ、許諾が下りた。当時、「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」内の「生ダラCART GP」で"アイルトン・タカ"と名乗っていた石橋は、番組で使っていたヘルメットを持参してセナと対面し、意気投合する。石橋はかねてより、セナの生ダラCART GP参戦を願っていたが、モナコGP観戦のため現地へ向かう空港で出会ったグッドイヤー幹部の仲介が奏功し、1993年12月に実現する。コーナーレギュラーの定岡正二と共に念願のカート対決を楽しんだ。セナはコースを逆走したり、石橋を真似て「シェー」のポーズをとるなど終始リラックスしていた。レース後、石橋から「鈴鹿で優勝した際のヘルメット」のプレゼントを頼まれ、これを快諾した。セナは日本の友人である石橋との交流を楽しみにしていたようで、折に触れ石橋のことを気にかけていた。前述のヘルメットはセナの死から約1年後、財団からホンダのスタッフを通じて石橋に手渡されたが、一度も被らずに自宅で丁重に保管されているという[80]
  • 1993年、南アフリカGP参戦の為にヤン・スマッツ空港へ到着。待機していた報道陣から今回F1参戦を表明した経緯についてインタビューを受けていたところ、プロレスラーのアントニオ猪木が突然目の前に現れ、日本の報道陣はどよめいたがセナと猪木は握手を交わし、ポルトガル語でしばし会話。同じブラジルにルーツを持つ両者だっただけに、「知り合いなのか?」と尋ねられたが、お互いに「テレビで観た事はある」と答えた[81]
  • 2013年に発売されたPlayStation 3用ゲーム『グランツーリスモ6』で、アイルトン・セナ財団がグランツーリスモ6と長期的なパートナーシップを締結。5月に追加コンテンツ「アイルトン・セナ・トリビュート」が登場し、セナが運転したマシンを運転、セナの人生をたどることができる。収録されたフォーミュラカーはロータス・97T。また、オープニングムービーにセナ財団がサポートしている学校も実写で登場する。なお、1993年のF1を題材とするゲームでは開幕前に休養も取りざたされていた一連の影響のためか、セナが初期設定では登録されていないというゲームが多かった(多くの場合はエディット機能による登録は可能だった)。
伝記映画
  • 死後16年以上が経過した2010年日本GPに合わせ、ドキュメンタリー映画アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ』が公開された。この映画は全世界での公開になるが、世界に先駆けて日本は先行上映された。映像や声の出演は生前のセナ本人だけでなく、善きライバルであったプロスト、所属チームのオーナーだったフランク・ウィリアムズやロン・デニス、親族では実姉のヴィヴィアーニ・セナから実父、実母などセナの生涯に携わった人物が多数登場する[82]
  • この映画のプロデューサーのジェイムズ・ゲイ・リースによると、セナが死の1か月ほど前にイモラサーキットでテストを行った際に、タンブレロに立ち、イモラサーキットの関係者に路面に凹凸があり危険だと指摘し、「ここで今年誰かが死ぬ」と話している映像があるが、映画にはうまく組み込ませることができなかったという[83]
  • また、その現場を個人カメラマンが別角度から撮影した映像もあり、セナの死から数日後のフジテレビのニュース番組で放送された。

注釈

  1. ^ 当該レースの公式プログラムにおける日本語表記は「センナ・ダ・シルバ」
  2. ^ セナの他ピエルルイジ・マルティニマウロ・バルディクリスチャン・ダナーロベルト・ゲレーロがテストドライブし、ベテランのジョン・ワトソンもブラバムの候補だった。
  3. ^ トールマンのメカニックだった津川哲夫が自身のYoutubeチャンネルにて「F1デビュー年のセナはまだF1を操る体力が無く、セッションごとに疲れ切っていた」と証言している。
  4. ^ 車体下面が歪み、グラウンド・エフェクトを発生しているのではないかなど。セナは「とにかくライドハイドが低い」と、火花の理由を語っていた。
  5. ^ セナが前年TG183Bをドライブした際に非常に腕力が必要で苦労したため、同じ車でセナの前年入賞を繰り返したワーウィックの力量を高く感じたという。
  6. ^ 当時のコンピュータ技術がまだ未熟であり、この年のみでロータスのアクティブ・サスは姿を消した。本格採用は1992年。
  7. ^ 最終戦オーストラリアGPでの2位が失格とならなければ、負傷欠場したマンセルを上回りランク2位となっていた。
  8. ^ ホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている
  9. ^ 2人のドライバーに優劣をつけないこと
  10. ^ 全16戦での総獲得ポイントはプロストが上回っていたが、有効ポイント制が適用された結果セナがタイトルを獲得した。
  11. ^ 決勝では1周目に先行した後、リタイヤするまでハッキネンの前を走っていた。
  12. ^ この件ではマンセルにはペナルティが出されず、最終的に2人が数秒差でゴールしたこともあって、解説者として現場にいたプロストは裁定に疑問を唱えていた。ナイジェルの勝利が素晴らしいとは書けない
  13. ^ 当時はフライ・バイ・ワイヤと呼ばれていた。
  14. ^ F1では、市街地で開催されたGPには37戦参加しており、半数以上を制したことになる。
  15. ^ モンテカルロデトロイトダラススパ(2/3が公道)、アデレードフェニックス
  16. ^ ポール・リカール6回、マニ・クール3回、ディジョン1回
  17. ^ ポール・リカールで9度中5勝、マニクールで2度中1勝、ディジョンで3度中1勝、ジャガレパグアで9度中5勝、インテルラゴスで3度中1勝。
  18. ^ この一件ではセナには特にペナルティが出ず、この出来事が1994年最終戦オーストラリアGPでシューマッハがコーナーでインをついたヒルに対して同様の行為をした遠因であるとも言われている
  19. ^ 厳密に言えばマンセルの子供は参戦しておらず、またブルーノはアイルトンの甥なので「4強」ではない。
  20. ^ 三宅の8回に対し、古舘は12回(1990年アメリカGP・1993年日本GP等)、大川は11回(1988年サンマリノGP・1988年日本GP等)担当している。
  21. ^ 1991年ブラジルGP・1992年モナコGP・1993年ヨーロッパGPなど。
  22. ^ ホンダエンジンでの最後の優勝となった1992年イタリアGP、自身最後の優勝である1993年オーストラリアGP等。
  23. ^ 1988年イタリアGP・1989年ハンガリーGP・1990年メキシコGP。
  24. ^ 1988年ポルトガルGP・1989年ポルトガルGP。
  25. ^ 1989年アメリカGP・1990年サンマリノGP・1993年サンマリノGP。いずれも馬場の該当シーズンにおける、初実況レースであった。
  26. ^ このGPの結果次第では、直後の日本GPを待たずしてセナのチャンピオンが決まる可能性があり、それを避けたかったフジテレビ陣営が、国際FAXで送信しコメンタリーブースに貼り付けていたもの。
  27. ^ ただし4勝のうち2勝は、新記録となる開幕4連勝を達成した1991年モナコGP、本田宗一郎逝去直後の弔い合戦を制した1991年ハンガリーGPという節目の勝利であった。

映像資料

出典

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  78. ^ 偉大なF1ドライバー1位はセナ 日刊スポーツ2009年12月12日付。
  79. ^ 別冊宝島 F1マクラーレン・ホンダ 栄光の1988年 16戦15勝の舞台裏 ISBN 4800214815 内インタビュー
  80. ^ 「生々しい傷が残って…」衝撃の死から1年後、アイルトン・セナから石橋貴明に届いた“約束のヘルメット”「一度も頭を入れたことはありません」”. Number Web. 文藝春秋 (2022年5月1日). 2022年5月3日閲覧。
  81. ^ 「ピットリポーター川井ちゃん F1ワハハ読本③」、川井一仁著、ソニー・マガジンズ
  82. ^ “アイルトン・セナ初のドキュメンタリー映画、世界最速、日本先行公開決定”. オリコン. (2010年7月28日). https://www.oricon.co.jp/news/78561/full/ 2011年1月10日閲覧。 
  83. ^ The Making of Senna part 5: The lost scenes
  84. ^ Formula Ford 2000 Rushen Green Racing, Van Diemen 1982”. www.sennaworld.com. 2021年2月11日閲覧。






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