巻 頭 言

 
「全船協の歩みと今後」


                                          理事 三輪 史郎

 1975年に弓削を卒業したものの不況で就職先が無かった時に全船協の諸先輩と面談してからの会員です。私なりの本会歴史俯瞰をします。(会の前身、全国商船学校十一会を「十一会」と略す)1930年に結成されたが、戦時中の混乱で会の活動は中断。

キーワードその1。水平運動
1951年の再建後長く会長をされた小山亮氏は弓削商船大正8年卒。副会長徳永隆一氏は弓削商船大正12年卒。徳永氏から生前直接お聞きしたのは十一会設立の原動力は「水平運動」だった、という点。穏やかな口調ながら、それは若い時に悔しい思いを相当したと思わせる話しであった。すなわち当時の高等商船学校は「大成丸」「進徳丸」という立派な校内帆装練習船を持っていたが地方商船には無く小さい機帆船で実習するしかなかった。その為海難事故で実習中に亡くなる者も多数。それを契機に先代「日本丸」「海王丸」の建造に至る運動を地方商船学校卒業生が推進して実現したことが会の創立に至った。その後も@海技免状取得上の差別撤廃A戦時中運輸省に移管された商船学校が戦後外航海運禁止の時期に存廃の危機に陥ったのを文部省管轄の国立高等学校に再移管させた。B戦後に「地方商船生徒は帆船実習をしなくて良い」としたルール改正に対しても運動し「日本丸」「海王丸」が戦時中撤去していた帆装の復活後に乗船できるようにもした。C60年台に工業高等専門学校制度が創設された後「商船高校を高専に昇格させよう」という運動を開始し商船5校の地元と連携して67年にこれを果たした。これらは元衆議院議員であった小山会長をリーダーとして展開された政治活動により成功したというべきで十一会はその活動の中心的役割を果たした。実地出身で海技免状をとった人たちの集団だった大洋同志会と合併し「全日本船舶職員協会」という大きな名前にしたのも小山会長の時だったがこの趣旨は、出身学校を問わず商船士官がまとまって行動しよう、というものだった。一方、小山会長在任当時から既に会費納入者が少なく会の財政は苦しかった。全日本海員組合で副組合長をした鳥羽商船出身の和田春生氏は多摩地区で衆議院議員次いで全国区参議院議員となった。会は三顧の礼を以って全船協会長に就任を願った。現役国会議員は運輸省への窓口として大きく寄与し全船協活動も当時は一定の発言力があったといえる。とはいえ会員からの会費納入は向上せず、一時は名簿上1万人の会員がいたにも関わらず赤字は続いていた。これを一挙に解決すべく、諸先輩の努力で建設所有していた神戸の十一会館を和田会長の決断で売却処分し、基金を蓄えることができた。オイルショック後、日本船員界の状況は外国人船員の増加に反比例するがごとく高専卒業生の船員としての就職口はどんどん狭き門となり勢い新規会員も少なくなっていった。有力なメンバーが多数在籍していたジャパンライン、山下新日本汽船が合併、三光汽船が倒産したことなどもあり当時組織化の切り札として設けていた企業内世話人制度も弱くなった。国内有数の職場だった国鉄青函連絡船の会員は全船協函館支部として活動していたもののトンネル開通、連絡船廃止とともに消滅。宇高連絡船の高松でも同様のこととなった。会の名称を変えた意図に反し、商船5校以外の会員加入は「言うは易く行うは難し」が続いている。

キーワードその2。連合同窓会
よくこの言葉を耳にした。高等商船、商船大学等のそれに相当するのが「海洋会」だが十一会はそれに比肩する組織と言えた。粟島商船や鹿児島商船の卒業生が全船協の会誌に投稿されてその余韻があったが各位高齢となりそれも無くなった。全船協は、それら十一会を構成していた学校の歴史を語り継ぐ役割が残っている。横浜にある函館商船由来の帆船模型「北光丸」復元事業などはその好例だし最近の会誌にも話題が掲載されている。

今後
これから本協会は何をするのか?昨年のアンケート結果から構成会員の要望と意見は様々であることが分かったが、回答してくれた会員数の少なさが気になった。何を行うにしても大先輩の努力で残っている財産を無駄に使わないことが大事だと思う