「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)は、武器として用いられる刀でありながら、人々を苦しみから救い出すための仏教で用いられる「数珠」(じゅず)という言葉が、その号に付けられています。それ故に、名刀とされる「天下五剣」(てんかごけん)の中でも、とりわけ異彩を放つ存在であると言えます。ここでは、数珠丸恒次にまつわるエピソードなどを紐解きながら、日本刀と仏教、一見すると相反する両者が結び付いた理由について探っていきます。
数珠丸恒次を作刀したと伝えられているのが、鎌倉時代の刀工・青江恒次(あおえつねつぐ)です。
青江恒次の父「青江守次」(あおえもりつぐ)は、備中国青江(びっちゅうのくに:現在の岡山県倉敷市)で活動していた刀工集団・古青江派を開いたとされる人物。青江恒次は3兄弟の次男で、その兄と弟も刀工でした。
彼らは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、82代天皇であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)に献上する日本刀を打つ刀工「御番鍛冶」(ごばんかじ)を、兄弟揃って務めています。
また、青江恒次は「備前守」(びぜんのかみ)という受領名(ずりょうめい:権威ある者が功績ある家臣などに授けた官名)を朝廷から授かっており、刀工として高い評価を受けていたことが窺えるのです。
「数珠丸」という号の由来は、かつての所持者である日蓮が、その柄に数珠を巻き付けていたことにあります。
現在の千葉県鴨川市の東部に生まれた日蓮は、10歳で出家し、仏道に進みました。その後、日蓮宗を立教開宗した日蓮は、「誰もが平等に成仏できる」という仏教思想を説いた「法華経」(ほけきょう/ほっけきょう)の布教に努めます。
しかし、すでに「浄土宗」(じょうどうしゅう)が広まっていたことから、その布教活動は多くの困難を伴いました。
そんな日蓮が、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の身延山に登って久遠寺を開いた際、信奉者から「山賊にご注意を」と、護身用に献上されたのが数珠丸恒次でした。その刀身の美しさに魅せられた日蓮は、柄に数珠を巻いて「破邪顕正[はじゃけんしょう:邪なものを打ち破って正しい考えを示すこと]の太刀」として、数珠丸を佩刀したのです。
また、数珠丸には、日蓮が身延山に登山中、数珠丸恒次を杖代わりにすると、不思議と転ばなかったという逸話も残っています。
日蓮に数珠丸恒次を献上した信奉者については、はっきりとは分かっていませんが、そうではないかと見られている人物が2人います。
ひとり目が、鎌倉時代の御家人「南部実長」(なんぶさねなが)。日蓮の支援者であった南部実長は、自身が領地として治めていた身延山に住居(のちの久遠寺)を建て、日蓮を招きました。この際に数珠丸恒次を献上したと言われています。
そして、2人目の「北条弥源太」(ほうじょうやげんた)は鎌倉幕府の重臣で、南部実長と同じく日蓮を支援していた人物のひとりでした。日蓮に日本刀を献上しており、それが数珠丸恒次だったのだろうと長年言われてきました。
しかし近年の研究により、北条弥源太の献上した刀は数珠丸恒次ではなく、刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)が作刀したという説も浮上。一般的には、南部実長が献上した説の方が有力視されています。
日蓮が没すると、その遺品である「袈裟」(けさ)、「中啓」(ちゅうけい:扇の一種)、そして数珠丸恒次は三遺品と称され、久遠寺で厳重に保管されていましたが、いつの間にか寺から消えてしまいます。「紀州徳川家[きしゅうとくがわけ]に伝わったが1645年[正保2年]頃に行方不明となった」という説や、「1736年[享保21年/元文元年]頃に寺から盗まれた」など、消えた理由とその時期には諸説があり、はっきりしたことは分かっていません。
しかし、1920年(大正9年)に刀剣研究家の「杉原祥造」(すぎはらしょうぞう)が、長い間行方不明になっていた数珠丸恒次を見付けたのです。
杉原祥造は、1883年(明治16年)に兵庫県尼崎市で生まれ歯科医を志していましたが、19歳の頃から刀剣研究に没頭していきました。30代の頃には國學院大學(こくがくいんだいがく)で刀剣の講義を毎月行なうなど、刀剣研究家として活動。また、刀剣の学術的研究及びその成果の発表、愛刀趣味を国民へ普及させることを目的として、1920年(大正9年)に「杉原日本刀学研究所」を設立しました。
そしてその年、杉原祥造が華族の競売品の中から、数珠丸恒次を偶然にも発見。杉原祥造は私財を投げ打ってこれを買い取ると、各新聞社を通じて大々的に報じたのです。
約200年もの間、歴史の闇をさまよっていた名刀が、その価値の分かる人物に見出されたことは、まさに奇跡と言えます。
数珠丸恒次を発見した杉原祥造は、もともと保管されていた久遠寺に返還を申し出ました。しかし久遠寺は、その真贋のほどが定かではないと判断し、返還の申し出を拒否したのです。久遠寺が杉原祥造の発見した数珠丸恒次を贋作と判断した理由は、2つありました。
ひとつ目は、銘が佩表(はきおもて:太刀の刃を下にして腰に帯びたとき、表側になる面)にあるということ。数珠丸恒次を作刀した刀工・青江恒次は、現在の岡山県倉敷市で栄えた刀工一派「青江派」に所属していました。
青江派は銘を茎(なかご)の裏側である「佩裏」(はきうら:太刀の刃を下にして腰に帯びたとき、体側に接する面)に刻むことが多く、青江派の特徴として認識されていましたが、数珠丸恒次の銘は、茎の表側である「佩表」にあったのです。
2つ目の理由は、「鑢目」(やすりめ)が青江派の特徴に合わないというところにあります。鑢目とは、茎を柄から脱落するのを防ぐため、茎を仕上げる際に付ける鑢の跡のこと。青江派の鑢目は、大きく右下がりに傾斜角度を付け、長い直線で茎を横断する「大筋違」(おおすじちがい)です。一方、数珠丸恒次の鑢目は「切り」(きり)でした。
切りは、真横に短い直線で茎を横断する鑢目で、青江派の特徴である大筋違とは大きく異なっていたのです。
また、刀剣鑑定の権威である「佐藤寒山」(さとうかんざん)は、青江派には見られないこれら2つの特徴から、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)で栄えた「古備前派」(こびぜんは)に属した「正恒」(まさつね)の子「恒次」(つねつぐ)が、数珠丸を作刀したとする説を唱えています。
数珠丸恒次を贋作と判断されてしまった杉原祥造は、久遠寺と同じく日蓮の教えを信仰する本興寺に奉納したのでした。
それから現在まで、数珠丸恒次は本興寺が収蔵しており、同寺で毎年11月3日に実施されている「虫干会 大宝物展」(むしぼしえ・だいほうもつてん)において、年に1日だけ一般公開されています。
青江派の傑作として知られるもう1振の日本刀が、脇差「にっかり青江」です。もとは太刀として作刀されましたが、1尺9寸9分(約60cm)にまで磨上げられて、脇差になりました。
にっかり青江という奇妙な名前の由来は、この刀が持つ、ある逸話にあります。昔、領内に子供を抱いた女性の幽霊が出るという噂を耳にした武士が、脇差でその幽霊を退治しました。脇差で切られた際にその幽霊は、「にっかり」と不気味に笑ったと言われます。翌朝、武士が同じ場所を訪れると、そこには、真っ二つに割れた石灯籠(いしどうろう)が転がっていたのです。このような逸話から、幽霊を切った脇差は、にっかり青江と呼ばれるようになりました。
このにっかり青江は、まず「柴田勝家」(しばたかついえ)が所持し、その後継者である「柴田勝敏」(しばたかつとし:「柴田勝久」[しばたかつひさ]の説もあり)が受け継ぎます。
しかし柴田勝敏は、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で「丹羽長秀」(にわながひで)に討ち取られ、にっかり青江は、そのまま丹羽長秀の手に渡りました。
その後、丹羽長秀が仕えていた「豊臣秀吉」に献上され、子の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)のもとへ。豊臣秀頼がにっかり青江を、自身に仕えていた「京極高次」(きょうごくたかつぐ)に与えたのち、讃岐国丸亀藩(さぬきのくに・まるがめはん:現在の香川県)の「京極家」(きょうごくけ)に伝来したのです。江戸時代以降、その京極家で長い間秘蔵されてきましたが、1940年(昭和15年)頃に手放されると、国内を転々とすることになりました。
そして1997年(平成9年)、銀座の古美術店に売りに出されていたところを、丸亀市が購入。にっかり青江は、それから現在まで「丸亀市立資料館」に収蔵されています。