あおもり110山
(よこだけ  1339.6m  黒石市・青森市)
 
■ 沖揚平住民の心の支え

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横岳のアオモリトドマツ帯を登る。2番目を歩いているのが、沖揚平分校ただ一人の児童の諏訪雅子さん=1997年4月16日
 1997(平成9)年4月16日の朝。黒石市の大川原小沖揚平分校に続々人が集まってきた。分校の正面にどんとそびえる横岳に登るためだ。

 毎年恒例の学校登山。が、同年の児童は、6年生の諏訪雅子さん(11)ただ1人。98年春からは児童がゼロとなり分校は休校することになっている。今回が最後の学校登山だ。

 戦後、引き揚げ者らが沖揚平に入植、畑を切り開いた。そして51(昭和26)年に分校が開校した。記録によると、横岳学校登山が始まったのは57年。以来、約40年間続いてきた。

 南八甲田の一角を占める横岳は斜面が緩やかで沖揚平から見ると優美な姿をしている。夏道は無いが、残雪期にはどこからでも容易に登れる。学校登山も残雪期を利用してきた。雅子さんの父で分校PTA会長の光雄さん(47)は横岳登山の趣旨について、(1)子供たちの体力づくり(2)登ってふるさとの良さを知る(3)地域の結び付きを強める−と説明する。

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尾根が横に長い横岳。左が山頂。尾根の右端が逆川岳=1997年4月13日、駒ケ峰山頂付近から
 最後の学校登山ということで、例年になく地域の人たちが集まった。雅子さん一人じゃ寂しいだろう、と本校の3人も参加、総勢30人に膨らんだ。

 雪がちらつく中、一列縦隊になって登り始めた。先頭は光雄さん、後ろに雅子さんが続く。雪は固く締まり沈まない。ブナ林の緩斜面をゆっくり登る。思い出を胸に刻みながら、一歩一歩登る。

 眺望が良い所で休憩。「学校はどこだ」「あっ、青森市だ」「陸奥湾だ」「あれが黒森山だ」。子供たちや先生はにぎやかだ。こんな自然な会話のなかで、ふるさと教育が進んでいく。

 アオモリトドマツ帯を抜け、約2時間で山頂に着いた。晴れていれば正面に迫ってくる櫛ケ峰は雲の中だ。地域の人たちが心尽くしの豚汁を振る舞う。食後、記念撮影をしたころから櫛ケ峰、北八甲田が姿を見せ始めた。最後の学校登山にエールを送っているようだった。

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下山はスキーで。正面に北八甲田を見ながら滑り降りる=1997年4月16日、横岳山頂付近
 雅子さんは、使い捨てカメラを手に風景の写真を撮り始めた。思い出をいつまでも鮮やかに残しておきたいのだろう。隣で母の美代子さん(37)が優しく見守っている。

 下山はスキーだ。登りに苦労していた子供たちが、急に生き生きしてきた。逆川岳を経由して一気に滑り降りた。このコースは近年、初級者向け春スキーコースとして人気がある。

 分校に戻ってからの閉会式で雅子さんは「登るときはつらかったけど、下りのスキーは楽しかった」と感想を述べた。これに対し、大川原小校長の西崎正二さん(49)は「楽しいことだけだと思い出はできない。つらいことと楽しいことが一緒になってこそ思い出が出来るものです」 と言葉を贈った。

 開拓に苦労を重ねてきた沖揚平の人々にとって、横岳は心のよりどころのような存在だった。光雄さんも言う。「守り神とまではいかないまでも、横岳あって私たちが生活しているような感じ」

 98年春で児童がいなくなる分校だが、また入学する子供がいるかもしれないから、と閉校ではなく休校扱いとなる。「1年生のときから毎年横岳に登ってきました。山に囲まれている沖揚平が大好きです」と言う雅子さんに続く児童の入学は、いつになるのだろうか。

<メモ> こう着続くスキー場問題

 高冷地野菜の価格が不安定になってき1985(昭和60)年ごろ、沖揚平地区の再建とリゾート開発を狙い、黒石市は横岳に大規模スキー場建設計画を打ち出した。リゾート法施行の“追い風”もあり複数の開発業者が動いたが、建設予定地の一部が十和田八幡平国立公園内だったため、環境庁は91(平成3)年に「待った」。ほどなくバブルが崩壊し、業者の動きが鈍った。スキー場問題は現在、こう着状態が続いている。

(1997/12/20  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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