スターダム6月25日の代々木競技場第二体育館で行われたクイーンズ・クエスト対大江戸隊の金網マッチは、敗れた鹿島沙希が大江戸隊を強制追放された。女子の金網マッチといえばブル中野対アジャ・コング(1990年11月)の怪獣対決が伝説となっているが、両軍計12人がスピーディーかつ華麗にノンストップで戦い続けるスリリングな展開は、まさに令和の金網マッチと呼べる好試合だった。

1970年に決行された日本初の金網デスマッチ
1970年に決行された日本初の金網デスマッチ

 昭和の金網といえば国際プロレス。“金網の鬼”と呼ばれたラッシャー木村の独壇場だった。70年10月8日大阪でドクター・デスと日本初の金網デスマッチを敢行して勝利すると、国際の看板マッチとして定着させ、木村は不敗を誇った。

 ただしストロング小林がエースとして君臨していたため、IWA世界ヘビー級王座にはなかなか手が届かなかった。73年7月9日大阪では小林の王座に挑戦。力道山対木村政彦戦以来の大物日本人同士の対決と話題を呼んだが惜敗した。74年に小林がアントニオ猪木との一戦に向かうため退団すると、75年4月19日札幌でマッドドッグ・バションから王座奪取。以降、金網マッチの王座戦で団体崩壊の81年までエースとして君臨した。

 実に5度の王座奪取と合計57回の防衛(最多は26回連続防衛)を記録したが、最後の防衛戦となったのが81年8月6日室蘭のジ・エンフォーサー戦だった。当時、国際は経営危機にあり会場は暗く切ないムードに包まれていた。

 スターダムのきらびやかな世界とは正反対だが、そこに国際が国際たる魅力と味があった。台風12号が直撃した北海道・室蘭で最後の王座戦は行われた。

「台風12号に踏み荒らされた北海道。悪コンディションの中、木村は力いっぱいのファイトを展開。2800人の観衆を興奮させた。先手を取ったエンフォーサーは急所打ちから目潰し、さらにはライターを持ち出し火炎殺法。木村はさらにかみつかれ大流血となった。エンフォーサーはそこへ爪を立てブレーンクロー。しかし木村はチョップで反撃すると金網に叩きつけ形勢逆転。140キロの挑戦者を抱え上げてパイルドライバーを決め、のびたところに得意の逆エビ固めをガッキと決めて断末魔の悲鳴を上げさせた。木村は火攻めをくぐり抜け、IWAのベルトの海外流出を血ダルマで阻止した」(抜粋)

国際プロレス解散後は猪木(左)との抗争で注目された(中央右はアニマル浜口)
国際プロレス解散後は猪木(左)との抗争で注目された(中央右はアニマル浜口)

 国際は3日後の9日に羅臼小学校グラウンドの野外大会で最後の大会を迎え、団体は帰京後に解散となったが、木村は最後まで体を張って傷だらけになりながら低迷期の団体を支え続けた。その後は新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争でファンの憎悪を集めたが、素顔は誰もが認める実直で温和な人格者だった。

 その後は第1次UWFを経て84年から全日本プロレスに参戦。実は当時新日本からも再参戦を打診されたが「新日本はお偉いさんが来た。全日本は馬場さんが直接料亭で誘ってくれた。どっちを選ぶかは明白でしょう」と後日、和田京平レフェリーに語ったという。

 後年は馬場のパートナーとなり、“マイクの鬼”として場内を沸かせた。92年4月には超世代軍とのサバイバル戦に出場したが、三沢のエルボーに耐える姿は往年の“鬼”健在を感じさせた。当時三沢は「やっぱり金網の鬼は違うよね。体の丈夫さはハンパじゃなかった。打っても体の芯がぶれないからすごかった」と驚きの声を上げている。

 ノアには旗揚げと同時に移籍、2004年7月に引退し終身名誉選手会長に就任。晩年は腰痛に苦しんだが、誰からも愛された全日本→ノア時代は、激動の人生の末にようやく見つけた「安息の地」だったに違いない。 (敬称略)