【直撃!エモPeople】古希を迎えた電撃ネットワークの南部虎弾(70)が衰え知らずの元気を見せつけている。一時は生命の危機に瀕した心臓手術、生体腎臓移植を乗り越え、パワーアップ。その生命力でメンズケアブランドのアンバサダーに起用され、これまでにないダンディーさを披露した。紆余曲折の半生を振り返り「ダチョウ倶楽部」脱退の真相など、本紙だけに秘話を語った。

 不摂生がたたり、8年前に糖尿病が悪化し、左足の甲の一部が壊死し治療を開始。2017年には自宅で倒れて緊急入院、検査で急性冠症候群による心不全も判明して心臓血管をバイパス手術。さらに19年には腎臓機能が低下し、人工透析か移植を迫られ、妻・由紀さん(52)がドナーとなり、生体腎臓移植を受けた。

「人工透析をすることになれば仕事、特に遠征ができなくなるので引退も覚悟しましたが、運良くカミさんがドナーになってくれて感謝してます」

 南部が37歳、由紀さんが18歳の時に結婚したが、半生は山あり谷ありだった。大学中退後、大手生命保険会社の営業マンを経て22歳で渡仏。少年時代から、誕生日が「パリ祭」の日だったことから、夢を実現したが、目的もない片道切符だった。

「経由したモスクワでは列車に無賃乗車だったので地下の防空壕を逃げてポーランドに出てパリに着いた。山中の小学校にいたら、ボランティア団体関係者に誘われ参加し、ブドウの収穫のバイトなどもした。永住したくなったけど、職業がないとダメだというので半年後、帰国したんです」

 帰国後、ロシア音楽舞踊団に入ったが、看板女優2人と関係を持ったのがバレてクビに。黒澤明監督の映画「影武者」(1980年)には、オーディションで「黒澤監督のためなら命もいりません」と宣言したのが気に入られ、出演を果たした。

 次に入った劇団にはのちに親密になる「コント赤信号」渡辺正行、ラサール石井、「ダチョウ倶楽部」上島竜兵、寺門ジモンらがいた。コント赤信号が舞台に上がっていた渋谷のストリップ「道頓堀劇場」にピン芸人として出演するようになった。

「そこでナベさん(渡辺)に弟子入り志願していた上島、寺門、別のコンビでやっていた肥後克広を、ナベさんが僕に『お前がまとめて4人一緒にやれ』と言い出して始まったのが『キムチ倶楽部』」

 南部がリーダーとなったグループは85年「ダチョウ倶楽部」に改名。「ひょうきん予備校」(フジテレビ系)などに出演する人気グループとなったが、南部は87年に脱退した。その真相を真面目にこう明かした。

「ひょうきん予備校では生徒側の最前列にダウンタウンが座り、こっちも負けてられないと、僕はゲスト講師のタモリさんに『最近、芸人らしいことしてないのに笑いの帝王と呼ばれるのはおかしい』とか毒舌を吐いたりしていた。テレビ局は大喜びでしたが、ダチョウの3人は、事前の根回しもなしに大物に失礼ばかりする僕の言動に、次第に『僕たちは知りません』と言うようになっていた。きちんとした芸でやっていきたかった3人と、僕は外れていってクビになったのが本当の話」

 90年に電撃ネットワークを結成。南部は体を張った芸にシフトした。

「ある時、出番前にダンナ小柳がくしゃみして目から鼻水が飛び出したのをヒントに、舞台で牛乳でやったら、男性客は大爆笑、女性客は『汚い!』。半分がおもしろいというのなら続けようとなった。テレビでやると、殺到した投書も半分が『おもしろい』、半分は『もう出すな』だった。テレビ局はまた出てほしいと言い出し、そこから新ネタを考えるようになった」

 缶ビールを額にくっつけてグラスに注ぐ芸から過激さは増し、ロケット花火を口にくわえて点火、布団袋に入って消火器を噴射、睾丸にヒモをくくりつけてコンクリートブロックを持ち上げるなどの他、ドライアイスやサソリ、ピラニア、ミミズも食べてきた。

 命知らずの超人芸は「トーキョー・ショック・ボーイズ」として海外進出し、大反響となった。南部はプロレス・格闘技イベントのプロデューサーとしても才能を発揮。昨年11月には古希祝いイベントを開催し、本紙の「東スポ餃子」を客に振る舞い「100歳まで現役」を宣言した。その生命力からか、メンズケアブランド「VITERA(バイテラ)」のアンバサダーに起用され、これまで見せたことのないダンディーな姿を披露した。
 今後については「とにかく楽しいことをやっていく。病気で先がないと思った時、覚悟はできている。移植した腎臓がいつまで持つかわからないけど、長く生きた分だけ幸せ。なるようになる」。

 自然体で語るその表情には、芸人としての生きざまが表れていた。

 ☆なんぶ・とらた 本名・佐藤道彦。1951年7月14日生まれ。山形県鶴岡市出身。高崎経済大中退後、第一生命営業マンを経て22歳で渡仏。帰国後、音楽舞踊団、劇団事務所を経て、お笑い業界入り。肥後克広、上島竜兵、寺門ジモンと4人で「キムチ倶楽部」として活動し、85年「ダチョウ倶楽部」に改名。87年、脱退。90年、ギュウゾウ、ダンナ小柳、三五十五(享年52)と「電撃ネットワーク」結成。92年、海外名「トーキョー・ショック・ボーイズ」として海外進出。