<ちばライブ>市川・国府台 下総国の国庁の位置確定したい 市民団体、工事での遺構破壊懸念

2023年6月11日 07時47分

下総国府が置かれた、高台の国府台地区一帯=いずれも市川市で

 奈良・平安時代などに、「下総(しもうさ)国」の中心地である国府が置かれた千葉県市川市国府台地区。残念なことに、国司が政務や祭司を行った中心施設「国庁」がどこにあったかは判明していない。近年の発掘調査の結果、地元研究者の間では「市営野球場にあったのでは」と推測されるようになった。ところが、現在は施設の改修・建て替え工事が相次いでおり、埋まったままの遺構が工事で破壊されかねないと、地元の市民団体が「調査体制の整備を」と市や県に要望を続けている。(保母哲)

◆野球場と南側か

 下総台地の南西端にあたる国府台地区は高台で、縄文期の遺跡なども多数出土している。国府が置かれた後、明治時代には陸軍の施設が造られた。第二次大戦後、軍施設は大学など教育機関や運動施設、病院などに生まれ変わった。
 下総国の国庁の位置を巡って、地元研究者らの多くが推測するのは、現在の国府台公園(スポーツセンター)野球場。周辺にある各施設の改修などに伴う発掘調査で、これまでに区画を区切る溝状(みぞじょう)遺構や、土を突き固め建物の基礎とした版築(はんちく)遺構、下総国庁につながるとみられる道路遺構などが発見されたことから、野球場が有力視されている。
 二〇一九年発行の「市川市史歴史編Ⅲ まつりごとの展開」でも、国府台地区で野球場が最も標高が高いことや、隣接の陸上競技場などでの発掘調査で確認できなかったとして、「野球場に国庁を推定」と記述している。
 野球場のすぐ近くには、かつては下総総社(六所(ろくしょ)神社)があった。国庁近くには、国内の神社を合わせてまつった神社が建てられたとされる。その下総総社は移転し、現在は石碑が残っている。

下総総社跡の石碑。右後方の白囲いは、野球場改修工事のため設けられている

 一方で、二一年夏から始まった野球場の再整備工事に伴う市教育委員会の発掘調査で、国庁跡の明確な遺構は見つかっていない。このため長年、下総国府の研究を続けている市民団体「市川緑の市民フォーラム」運営委員の高柳俊暢(としのぶ)さん(78)は「野球場から、南側の千葉商科大学構内にかけての可能性が高くなった」とみている。

◆調査結果踏まえて

 野球場の改修工事は老朽化によるためで、二五年三月まで続く予定だ。工事に伴う発掘調査が行われることが決まった一九年二月、同フォーラムは下総国庁跡の遺構が見つかる可能性があるとして「調査結果を踏まえて野球場の再整備を進めてほしい」と、市長と市教育長宛てに要望書を提出した。
 千葉商科大南側には二棟の県営住宅があり、現在建て替え計画が進んでいる。一号棟跡は新築されたが、工事に伴う調査で国庁につながるとみられる遺構が出土している。
 ところが、地下の排水施設工事などで多くが破壊されたとして、同フォーラムは昨年十月、市長と市教育長宛てに「建て替え計画の抜本的な見直しを県に求めてほしい」と要望書を提出。近く二号棟の新築工事が始まることから、今年四月には知事と県教育長宛てに同様の要望書を提出した。
 国府台地区では今後も、他施設の改修工事などが行われる見通しのため、高柳さんは「市や県、文化庁、有識者らで『下総国府発掘調査検討委員会』のような組織をつくり、調査や保存方法などを練るべきだ」と説く。
 同フォーラム事務局長の佐野郷美(さとみ)さん(68)も、国庁の位置を確定するとともに「この場所に下総国府があったと市民や訪れる人が分かるよう、遺構の一部を残したり、説明看板を設置してほしい」と強調。今後も市や県に働きかけることにしている。

<下総国> 天皇中心の国家をつくるため、北海道などの一部を除き、全国に六十数カ国を設置。7世紀後半に成立した下総国は千葉県北部を中心に、茨城県、東京都、埼玉県の一部が範囲だった。国司は中央から派遣され、国庁は現在の県庁に相当。国府には政務や祭司を行う重要施設が置かれた。現在の下総国分寺跡と下総国分尼寺跡(いずれも国史跡)は、国府台公園の東側にある。


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