<視点>変貌したロシア ソ連崩壊30年 権威主義は必然か 外報部・常盤伸

2021年12月27日 18時00分

1991年12月25日、辞任演説の直前、核兵器の管理権をエリツィン・ロシア大統領に移譲する法令の書面を示すゴルバチョフ・ソ連大統領=AP

 静かな夜だった。1991年12月25日、モスクワの赤の広場。ソ連のゴルバチョフ大統領が国民向けの最後のテレビ演説で辞任表明した後、クレムリン宮殿の上にはためいていたつちと鎌の赤いソ連国旗が降ろされ、白青赤のロシア国旗がするすると掲げられた。その光景は目に焼き付いている。
 超大国ソ連が崩壊して25日で30年を迎えた。当時、私はゴルバチョフ演説終了後、当時所属していた新聞社のスタッフとともに、車で赤の広場に向かった。その瞬間は、あまりにあっけない幕切れだった。ロシア帝国の領土をほぼ継承した特殊な帝国、ソ連邦は消滅し、新生ロシアを含む15の民族共和国が独立したのだが、実感は湧かず、それが歴史的、地政学的にどれほど図りきれないほどの重大な意味をもつ出来事だったのか、当時の私は正確に理解できたとはいえなかった。
 ロシア3色旗は、4カ月前に起きた左翼強硬派のクーデターを挫折させ、抑圧的体制を続けてきた共産党を自主解散に追い込む「8月民主革命」のシンボルだった。実は3色旗はロシア帝国の国旗だが、当時はソ連という全体主義帝国に対抗する、民主主義や自由を掲げた新生ロシアを象徴していたのだ。マルクス・レーニン主義の教義を国家存立の原理とした「赤い帝国」が消滅し、民主的な連邦国家へロシアが再生する。しかし当時は厳寒で、経済的にどん底状態だった。全体主義体制を倒した8月革命の熱気はすっかり冷め、お祝いムードからほど遠かった。それでも私自身は、巨大帝国消滅後の、新時代の幕開けに、内心では武者震いする思いだった

12月9日、「市民社会と人権」評議会とのビデオ会議で、議長役を務めるプーチン大統領=AP

◆"ネオソビエト"的な統治に変質

 30年後の現在、全てが反転したかのようだ。消費生活は欧米化したが、プーチン大統領が指導するロシア国家は、現状変更を狙う修正主義国家に変貌した。3色旗は排外的で大国主義的なロシア愛国主義の象徴となった。強弱はあるが、ロシアの一部知識人が「イデオロギー抜きのソビエト」と呼ぶ状況が20年近く続いている。
 プーチン政権はソ連のスターリン時代さながらに人権活動家や野党政治家、独立系ジャーナリストらをスパイを意味する「外国の代理人エージェント」に次々に指定する。典型的なソ連国家保安委員会(KGB)の手法である。プーチン氏が最も尊敬するソ連指導者は、KGB議長を長年務め、反体制派の弾圧に力を入れたユーリ・アンドロポフ書記長とされる。1977年9月、KGB議長だったアンドロポフ氏は、内部会議でこう演説した。
 「ソ連の市民は批判し提案する権利を有する。この権利は批判の抑圧を禁じた憲法で保障される。だが少数者が個人の権利をゆがめ反ソ活動、法律違反、西側宣伝機関への偽りの情報提供、反社会活動の組織化などをやるならことは別問題だ。これらの裏切り者はソ連市民の支持を受けていない。ソ連国内に反体制派が存在しうるのは、外国報道機関キャンペーンと 「反体制派」に外貨その他をふんだんに支払う外交機関、特務機関などの支援があるからこそなのだ」
 ここにでてくる「ソ連」を「ロシア」と置き換えると現在のプーチン政権がナバリヌイ氏ら民主派野党政治家や人権活動家らに対して行っている弾圧を正当化する際の論法とほとんど変わらないことに驚かされる。

◆歴史を貫く帝国的行動パターン

 さて、プーチンのロシアは中国と並んで、リベラルな国際秩序を揺るがす2大権威主義国家として国際社会の脅威認識は高まるばかりだ。その対外行動は、これまで以上に攻撃性を増している。現在、隣国ウクライナとの国境近くに計約10万人の軍部隊を集結。侵攻の構えを示し、北大西洋条約機構(NATO)がこれ以上、東方に拡大しないことの文書での確約などを欧米に迫っている。プーチン氏は七月に発表した論文であらためて「ウクライナとロシアは一つの民族」と帝国的発想むき出しの持論を展開。結論では、「ウクライナの真の主権はロシアとのパートナーシップによってのみ可能だ」と時代錯誤の主張をした。ウクライナの国家主権を否定したのも同然であり、ウクライナのみならず国際社会の懸念が高まるのも当然だ。

12月21日、ロシア軍のウクライナ侵攻が懸念されるなか、ウクライナ北東部で、ロシアとの国境を監視するウクライナの国境警備隊員=AP

 帝政ロシア、「ソ連帝国」、そして帝国さながらのプーチン・ロシア。それぞれ具体的な特徴は異なるが、圧倒的に国家が優位で、国民はそれに従属する臣民に過ぎず、周辺国は勢力圏とみなされる。こうした歴史的な類似性をもって、ロシアで安定的に国家を維持する原理は、権威主義以外にないとの見方もある。一見もっともらしいが、連続性だけを重視したやや単純な見解ではないだろうか。

◆自由を求める不断の闘い

 ステレオタイプ的なロシア観とは裏腹に、ロシアにおける政治権力と自由の相克という問題は、それほど単純ではない。欧州の影響もあり、近代以降ロシアでは、一部の開明的な貴族やインテリゲンチャ(知識人)を中心に、自由や民主主義を求める運動は、官憲の弾圧を受けながらも、絶えることなく連綿と続いた。ある意味でその頂点ともいいうるのが1917年の2月革命だ。ほとんど忘れられているが、レーニン率いるボリシェビキ(共産党の旧名)のクーデター、つまり10月革命で倒されるまで、2月革命で成立した、パーベル・ミリュコーフの率いる自由主義政党「立憲民主党」や、穏健社会主義政党などからなる臨時政府というロシア初の民主派政権は、女性参政権、司法の独立など、レーニン自身が認めているように、欧州で最も先進的な政策を打ち出していたのだ。
 そしてソ連末期には、共産党書記長という絶対的な権力者であったゴルバチョフ氏が、長期間の停滞からの脱却のために、ペレストロイカ(改革)に踏み出した。一党独裁の放棄と複数政党制、国際的には冷戦終結、東欧自由化など今から見てもその歴史的意義は否定しようがない。ゴルバチョフ氏のもと、上からの改革と下からの民主化運動が歩調を合わせたことで、長期の共産党独裁体制を打破することが可能となった。今ではロシア国内でさえその記憶は風化してしまったが、これもロシアの歴史の中で画期的な出来事だった。
 そしてソ連崩壊の主役ともいえるエリツィン大統領(当時)。エリツィン氏がゴルバチョフ氏のこだわる新連邦条約ではなくソ連解体を選択したのは欧米の影響などではなかった。当時のソ連の状況からして、ごく自然な決断だった。ゴルバチョフ氏がいくら緩やかな国家連合への転換を主張しても、モスクワ中央が存在する限り帝国の存続を連想させるだけで説得力はなかった。
 ただ、ソ連崩壊後のエリツィン政権の急進的な経済自由化が、肝心の政治的自由の空洞化を招いた側面は否定できない。
 普通の市民らにとっては経済が極度に落ち込んだ90年代の記憶は、空前の混乱と貧困だった。苦難の経験からロシア人は、獲得された民主主義や自由の擁護には関心が低く、プーチン氏という「強い主人」の下でパンを求める従順なナロード(国民)に舞い戻ってしまったともいえるだろう。
 実は筆者がモスクワ支局で取材にあたった14年前の2007年12月に行われた議会選や、翌2008年3月の大統領選でも、多数の不正疑惑があった。反体制派が抗議行動への参加を呼び掛けたが、モスクワ市民の反応は鈍かった。しかし2011年秋、モスクワでは普通の市民の自発的な抗議行動によって、プーチン政権が守勢に立たされる状況が惹起された。しかもそうした事態は、鋭い政治分析で知られるロシアの政治学者リリヤ・シェフツォワ氏のような専門家でさえ、予測できず、まさに歴史的な現象というべきだった。ロシアにおいて、持続的な民主化運動を支える市民社会がついに登場するに至った。そう言って過言ではなかったが、その影響を恐れるプーチン政権が、その後、非常に様々な手段で徹底した弾圧や情報操作を行った。つまり市民社会の動きを、人為的に封じ込めただけにすぎないのだ。
 こう見てくれば、自由や民主主義、人権擁護の思想が欧米の「敵性思想」で、ロシアに適さないかのようなプーチン政権の主張は、根拠のないプロパガンダであることは明白であるといえるだろう。

◆プーチン統治の限界

 ソ連崩壊後の多くの年月を占める21年間のプーチン統治はロシアに何をもたらしたのか。プーチン氏にとって 最大の成果は何といっても軍改革で近代化した軍事力や情報操作など各種の手法を組み合わせた、旧ソ連以来のハイブリッドな作戦によって、国際舞台で影響力や存在感を向上させたことだといえよう。中東のみならず南米、アフリカ諸国にも着々と影響力を拡大しつつある。さらには、超大国米国の大統領選挙などに介入、欧米民主主義に手痛い打撃を与えた。共産党が指導する世界規模での革命をもくろんだレーニンや、ソ連を超大国に押し上げたスターリンもできなかった「成果」だが、ロシアの威信は傷付き、経済に大きな打撃となる欧米からの制裁を受けるに至った。
 国力の基本である経済力では、ロシア帝国やソ連邦の時代からみれば、世界有数の大国とは言い難い。石油・天然ガスなど資源に依存した産業構造の改革は、プーチン氏とその周辺のエリートを中心とする巨大な利権構造の壁に阻まれ、いまだに手付かずのままで、教育水準が高く優秀な人的資源を生かせていない。

12月20日、ウクライナ西部イワノフランキーウシク州の大統領公邸で、首脳会談前に記念撮影に収まる、(左から)ポーランドのドゥダ大統領、ウクライナのゼレンスキー大統領、リトアニアのナウセダ大統領=AP

◆低迷するロシア民主主義と旧ソ連諸国

 さてソ連時代から現在までのロシアでの政治的民主主義の状態を数値化して客観的に評価するとどうだろうか。フリーダムハウスの「自由度」調査、「世界銀行のガバナンス指標」、「エコノミストの民主主義インデックス」、「トランスパレンシーインターナショナル腐敗認識指数」など幾つかの調査結果を付き合わせることで 調査の客観性を高めることができるが、ロシアは残念ながら旧ソ連諸国を含め、旧東欧諸国と比べても、下位を低迷している。
 フリーダムハウスの1980年以降のロシアの「自由度」調査の結果は、興味深い推移を示す。80年といえば、停滞の時代と呼ばれるブレジネフ時代だ。政治的自由度は劣悪だが、これがアンドロポフ時代にさらに下がった。ゴルバチョフ氏のペレストロイカ後期は政治社会改革を反映し、スコアが最低の1から4に急上昇。さらにソ連共産党体制崩壊移行で4・5まで上昇したのだ。しかしこれがエリツィン末期に3まで下降、プーチン第2期で2・5まで下がってしまった。一方、旧ソ連の欧州部ウクライナは最初から4・5と高得点だった。それが「オレンジ革命」で5・5まで評価が上昇した。旧ソ連でもバルト諸国エストニア、ラトビア、リトアニアなどはほぼ軒並み民主化に成功。ベラルーシは例外的に独裁的だ。
 そうした評価はロシア国内の民主派知識人や独立系ジャーナリストや人権活動家などの見解とも概ね一致しており、客観的な評価といえるが、現在のプーチン政権はそうした調査はすべて「反ロシア主義だ」と断罪するだけだ。ソ連が海外からの批判を全て「反ソ」ときめつけたのとも同じである。
  「ソビエト体制」は、ソ連共産党解体、ソ連消滅で跡形もなく消え去った。それなのにロシアではなぜ、一党支配体制から多元的、競争的な民主主義体制には移行せず、新たな権威主義体制が確立したのか。簡単に説明ができる問題ではない。しかし現在の統治者プーチン氏や彼が構築した政治体制に、ソビエト的な統治手法が色濃く刻印されていることは確かだ。イデオロギー的な擬制や形式的な制度を取り払い、社会を動かした「支配エリートの変遷」という視点から見ていくと、ソ連時代との共通性が浮かび上がってくるのではないだろうか。また支配エリートだけではなく、一般的なロシア人の民主主義観について考察する必要もあるだろう。

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