鯛麺(県内各地)

2001年7月30日

婚礼の象徴も今は昔

おめでたい宴席の「トリの料理」だった鯛麺。婚礼のスタイルが近年、様変わりし、現在ではめったにお目にかかれなくなった。漁村では船の進水式でも振る舞われた
おめでたい宴席の「トリの料理」だった鯛麺。婚礼のスタイルが近年、様変わりし、現在ではめったにお目にかかれなくなった。漁村では船の進水式でも振る舞われた

 「鯛麺(たいめん)。すっかり見なくなったねえー。昔は婚礼の宴席のトリの料理。定番メニューで、これが出ると、そろそろ宴もお開きという合図だった」

 県内各地で同じ質問を試みた。「鯛麺、今でもやっていますか」。答えはいずれもほぼ同じ。冒頭の言葉に要約できる。理由を尋ねると、生活様式の変化を挙げる人がほとんどだ。

 「昔は、それぞれの家で婚礼があった。二間続きの座敷でね。ただ、昭和四十年代の終わりごろから、ホテルや式場で行う披露宴が増えてきた」

 多くの人は、ここ十五年か二十年ほど前から、「見なくなった」と口をそろえる。懐かしがるのは、決まって五十代から上の世代。三十、四十代になると、「聞いたことはあるけれど…」と急にトーンダウンしてしまう。

 先日、婚礼の席を訪ねた。披露宴を大阪で済ませ、当日出席できなかった身内を招いての、ささやかな宴。その席で鯛麺を再現するという。

鯛麺のタイは煮る地域が大半。詫間町などでは焼くという
鯛麺のタイは煮る地域が大半。詫間町などでは焼くという

 調理自体は極めてシンプル。塩でキュッと身を締めたタイを宴席のころ合いを見計らいながら、ぐつぐつと大鍋(おおなべ)で煮込んでいく。尾頭付きで重さ三・五キロ、体長七十センチは優にある。そんな大物を醤油(しようゆ)、砂糖、酒などで煮崩さないよう丁寧に、そして慎重に。三、四十分すれば、出来上がり。後は大皿に盛り、ゆでたそうめんを流し込めば、豪快な鯛麺の完成だ。

 大皿は座卓に載せられ、それごと客の前に運ばれていく。伊勢音頭に合わせて、二人がかりで座卓ごと揺すりながら出すのがポイントだ。ちょっとしたお座敷芸のような雰囲気があり、それは威勢がよくてにぎやか。「トリの料理」といわれる訳が伝わる。トリの杯が客の間で回される間に、小皿に手際よく取り分けられていく。

 「海も山も関係なく、婚礼には付き物だった。山の方では何日も前から、予約を入れタイを仕入れた。大きい方がもちろん、喜ばれた」とは、琴平町の料理研究家・塩田弘子さん(78)。高松市内や塩江町内のホテルで長く板場を務めた綾野忠美さん(60)は「洋式でいうと、鯛麺はウエディングケーキ。最近は和洋折衷のコース料理が主流だが、洋風の会場に鯛麺自体が似合わないため、注文が減った」という。

 タイの浜焼きが盛んだった詫間町では、タイは煮ずに焼くという。ピンクや紫など、そうめんは五色と色鮮やかだ。子宝に恵まれるよう、雄と雌を腹合わせにして出すところもある。

伊勢音頭に合わせて、鯛麺をお披露目。最後にこの辺りでは「繁盛せー、繁盛せー」と言って鯛麺を天高く差し上げる=飯山町内
伊勢音頭に合わせて、鯛麺をお披露目。最後にこの辺りでは「繁盛せー、繁盛せー」と言って鯛麺を天高く差し上げる=飯山町内

 県内で鯛麺が盛んになったのは明治に入ってから。ラポールイン・タカマツの料理長・今井豊さん(51)は「江戸中期には既に武家の献立に見られた。城の中の料理人たちが明治以降、市中に出て一般に広まったのではないか」と推測する一人だ。

 婚礼は両家が対面する、めでたい祝いの席。そうめんのように長く二人の幸せが続いてほしいと願う、ささやかな気持ちが込められる。そんな、婚礼を象徴するハレの料理も、今は昔。時の流れとともに姿を消しつつある。

文・山下 和彦(生活文化部)  写真・鏡原 伸生(写真部)