日本、東南アジア占領地でユダヤ人保護 英傍受公電で裏付け

1942年3月29日 外務省からバンコクの日本大使に送られた、ユダヤ人に対する寛容な保護の継続を指示する最高機密の公電の英訳。英国が傍受、解読した(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
1942年3月29日 外務省からバンコクの日本大使に送られた、ユダヤ人に対する寛容な保護の継続を指示する最高機密の公電の英訳。英国が傍受、解読した(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)

日本は第二次大戦中、枢軸同盟を結んだナチス・ドイツから再三、ユダヤ人迫害の要求を受けたが、英国立公文書館が所蔵する日本外務省から東南アジアの大使に宛てた公電で、占領地に逃れてきたユダヤ人の保護を指示していたことが確認された。専門家は、世界で反ユダヤ主義が広がる中で日本は難民を保護し、計約4万人のユダヤ人が生き延びたと指摘している。

ドイツのヒトラーは政権を掌握した1933年にユダヤ人弾圧を開始。満州や中国に迫害を逃れる難民が押し寄せ、近衛文麿内閣の「五相会議」は38年12月、人種平等の原則によりユダヤ人を排斥せず、諸外国人と同等に公正に扱う「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を作成。世界で唯一、ユダヤ人保護を国策として宣言した。

しかし、同要綱は41年12月、日本の対米英開戦で無効となり、42年3月、代わって「時局ニ伴フ猶太人対策」ができた。特殊な事情がない限り、日本の占領地へのユダヤ人の「渡来」を禁止する内容だった。

確認されたのは同月29日にタイの首都バンコクの日本大使、31日に北部仏印のハノイの日本大使にそれぞれ宛てた公電。外務省が「対策」を占領地の在外公館に伝えたのを傍受したもので、英暗号解読拠点「ブレッチリー・パーク」が解読。最高機密文書として英訳され、英国立公文書館が「日本のユダヤ人政策」として保管していた。

ハノイ宛ての公電は「ドイツが海外在住ユダヤ人からドイツ国籍を剥奪したが、日本が特に(ドイツとの)関係を考慮する必要はない」とし、慎重に対応すべきとの認識を表明。「ユダヤ人を追放することは国是たる八紘一宇の精神に反するばかりか米英の逆宣伝に使われる恐れもある」とし、独伊の排ユダヤ政策と一線を画す考えを示した。

その上で「ユダヤ人は外国籍保有者と同様に扱い、ドイツ国籍を持つユダヤ人は(ロシア革命で逃れた)白系ロシア人と同様に無国籍者として取り扱う」とし、ユダヤ人に寛容な保護の継続を指示していた。

「猶太人対策要綱」が対米英戦勃発で廃止されたことで「外資導入と米英との関係維持を狙ったものであることが明らかになった」(丸山直起著『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』)として日本がユダヤ人に好意的な政策を転換させたとの解釈が広がり、「日本はナチスに追随し、ユダヤ人迫害を開始した」(イスラエル・ハイファ大学のロテム・コーネル教授)など極端な主張が広がっている。(岡部伸)

『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)の著者で日本のユダヤ政策に詳しいイスラエルのヘブライ大学名誉教授、メロン・メッツィーニ氏は、英国立公文書館が所蔵する日本外務省が東南アジアの大使に宛てた公電について次のように語った。

1940年、日本は、ナチス・ドイツと枢軸国同盟を結んだが、ユダヤ人に対しては、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)で600万人近いユダヤ人を強制収容所で死亡させたドイツと全く別の政策を取った。

日本国内、満州(中国東北部)、上海や日本が統治した東南アジアやオセアニアなどの地域で合計約4万人のユダヤ人が迫害されず、生き延びた事実は、日本国内、海外でほとんど知られていない。

この公文書は、日本が38年に始めたユダヤ人の命を救う上で極めて有益だった保護政策が米英開戦後も継続されたことを裏付ける貴重な史料だ。2つのユダヤ人政策に大きな差はない。占領地のユダヤ人の多くが英米蘭の敵国人であり、財産や資産を失ったものの、待遇はおおむね国際基準に沿い、日本政府、日本人の態度は公平で人道的だった。この事実は重要で、過小評価されるべきではない。

陸軍主導で4万のユダヤ人保護 人権を優先、影響力も配慮

会員限定記事会員サービス詳細