話の肖像画

谷垣禎一(12)金融再生相への就任めぐり板挟み

前任者の辞任に伴い、一度は辞退した金融再生担当相に就任した=平成12年2月
前任者の辞任に伴い、一度は辞退した金融再生担当相に就任した=平成12年2月

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《平成12年2月、金融再生担当相(金融再生委員長)に就任した。11年10月の第2次小渕恵三改造内閣発足時には辞退していたが、前任者が問題発言で引責辞任し、再び白羽の矢が立った。1度目の就任要請を断ったのは、所属していた自民党の派閥「宏池会」(現岸田派、当時は加藤派)内で新旧会長の板挟みになったからだ》


つらかったのは、宮沢喜一元首相からは「小渕さんと話をしている。君に金融再生担当相になってもらう」と言われ、加藤紘一元幹事長からは「なるな」と言われたことです。宮沢さんは当時、首相経験者ながら蔵相に再登板していました。一方、宮沢さんから禅譲されて派閥の会長となっていた加藤さんは、内閣改造の直前に行われた党総裁選で、小渕さんとの間にしこりを残していたのです。

結局、私は辞退し、越智通雄元経済企画庁長官が就任したのですが、越智さんが(銀行関係者らに金融検査で手心を加えるような発言をしたことが問題視されて)辞任したため、「もう一回、谷垣に」ということになりました。

加藤さんから電話があったのは、辞任当日の午後6時。私は東京・永田町から車に乗り、帰途に就いたところでした。「小渕さんから電話があった。俺、今度は引き受けたから。1秒で『谷垣を使っていただいて結構』と返事したからな。今すぐ首相官邸に行ってくれ」。言われた通り官邸に行くと、小渕さんから「7時のNHKニュースに間に合うように記者会見してくれ」と指示を受けました。

だけど、そんなことは全然予期していなかったから、何も用意していないわけです。その日の夜には認証式に出るため、モーニングを着て皇居に行かなければなりませんでした。しようがないから官邸にあった誰かのモーニングを借りたら、ズボンがつんつるてん。見かねた支持者に「先生、カネがないのかもしれないけど、モーニングぐらい持っていてくださいよ」と苦言を呈されました。


《金融再生委員長として取り組んだ仕事の一つが「そごう問題」だった。大手百貨店そごうグループはバブル崩壊後、拡大路線が行き詰まって経営不振に陥り、巨額の負債を抱えていた。国民負担を最小限にとどめるため、金融再生委員会の主導で取引銀行による債権放棄が決まりかけたが、「税金による私企業救済」などの批判が噴出して頓挫。自主再建を断念したそごうは12年7月、4月に施行されたばかりの民事再生法の適用を申請し、事実上倒産した》


本来は担当閣僚が各所に説明に回り、ある程度の了解を得ながら進めるものですが、6月に衆院選があったため、説明が十分にできなかったのです。その間に、いよいよそごうが危ない状況になり、いつまでも待っているわけにはいかなくなりました。それで私がそういう処理をして、選挙後に説明をしたら、反対意見が噴出したのです。その急先鋒(せんぽう)が加藤さんでした。

加藤さんは「潰すものはまず潰せ」という考えでした。バブル崩壊後の不良債権処理が続き、北海道拓殖銀行も日本長期信用銀行も日本債券信用銀行も山一証券も経営破綻した。そういう中で、加藤さんが「いいかげんに終わらせちゃいけない」という気持ちを持っていたとしても不思議ではありません。

しかし、そごうのような大きな百貨店を「潰すものは潰せ」でやったら、他の金融秩序などに大きな影響を与えて大変なことになるというのが、当時の金融再生委員会の判断でした。簡単にいえば、奉加帳を回してオールジャパンで立て直すという古い手法によったわけです。

加藤さんは「そんな古い手法はだめだ」と言い、私と大いに意見が対立しました。「やってられるか!」。私はたんかを切り、それから数カ月間、宏池会の会合を欠席し続けたのです。(聞き手 豊田真由美)

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