阪急か阪神か-。昭和31年2月13日、〝二重契約問題〟にコミッショナー裁定が下った。当時のコミッショナーは1月13日に就任したばかりの元最高裁判事の井上登、70歳。裁定は「阪急」に軍配が上がった。理由はこうである。
「米田君の契約は阪神、阪急ともに対面契約であり、書類に不備はない。しかし、阪急の方が早い時期に契約を結んでおり、優先しなければいけない」
実は裁定の前にコミッショナーは「君はどちらのチームに行きたい?」と米田の希望を聞いていた。選手の気持ちを大事にした〝名裁定〟でもあった。
それにしても、あれだけ阪神と言っていた米田哲也の心が、なぜ阪急に変わったのだろう。
「背番号や。阪急はボクにエースナンバーの18を用意してくれていた。それに僕も子供やったから」と後年、米田は笑って振り返った。
阪急の高知キャンプに参加した米田はいきなり、150球の本格投球を披露して首脳陣の度肝を抜いた。
「梶本と並んで将来、阪急を背負う投手になる」と西村正夫監督。井野川利春投手コーチも「猫はいくら育てても猫だが、米田は虎。育て甲斐がある」と絶賛した。その予言通り〝ヨネカジ〟コンビを組み、そして19年後、移籍して虎になった。
初勝利は2度目の先発。31年4月11日、本拠地・西宮球場での高橋ユニオンズ戦。一回に主砲・戸倉のホームランで3点を先制した阪急は三回、なんと米田がプロ4打席目で満塁ホームラン。これは58年、駒田徳広(巨人)がプロ初打席で放つまで「満塁弾の最短記録」となった。終盤3点を失ったものの、大量点に守られ11-3で完投勝利。通算350勝への〝第一歩〟を踏み出した。
米田にはプロでやれる自信があったという。高校3年生の30年8月3日、米子市営湊山球場で国鉄スワローズ-大阪タイガースの試合が行われた。国鉄はエースの金田正一、大阪は渡辺省三が先発。試合は金田が猛虎打線を8安打9奪三振の1点に抑え、5-1の完投勝利。この試合のスタンドに米田がいた。
「省さんはコントロールはええがスピードがない。カネさんはスピードはあったが、コントロールがいまいち。これならボクでもプロでやれる-と思った」
どえらい心臓の18歳である。(敬称略)