松岡恭子の一筆両断

幸せな建築「天神ビル」

昭和35年に完成した天神ビル
昭和35年に完成した天神ビル

 私の両親は見合い結婚ですが、初めてのデートの待ち合わせ場所は天神ビルの1階だったと、子供のころから聞かされてきました。この建物が、誰でもわかる天神のシンボルだったからだろうと思ったものです。

 建築主は電気ビル、設計施工を手掛けたのは竹中工務店、竣工は昭和35年です。18カ月という短い工期で、地下3階地上11階の鉄骨鉄筋コンクリート造を完成させたのは、竹中工務店が得意とした「潜函(せんかん)工法」の力でした。

 このビルの地下には変電所があります。一般に地下をつくると工期が長くかかりますが、変電所をできるだけ早く稼働させるために、短い工期への挑戦が必要となったのです。地下3階と地上1階分のボリュームを地上でつくり、その重みを利用し建物を沈めていく工法です。沈んでいる最中も2階以上の建設を続行できました。周囲の塀には目盛りが設置され、一日20センチずつ沈んでいく様を確認するのは当時の市民の大きな関心事だったそうです。

 今年8月に開催した福岡建築ファウンデーションのイベントでは、建設時と完成時を記録したフィルムを上映しましたが、当時の社会がこの建物にいかに大きな期待を寄せていたかが伝わるものでした。

 設計者は竹中工務店九州支店設計部長だった岩本博行。生まれは巨匠建築家・丹下健三と同じ大正2年。昭和7年に入社後、大阪で住宅や茶室のデザインに秀でた小林三造の下、修業を積みました。日本の風土にあった伝統的な建築のあり方に向き合った経験が、後に、統一された材料と型で構成する、落ち着きある抑制の効いたデザインへと向かう源になったと考えられています。天神ビルは当時高さでは日本第2位、延べ面積は神戸以西で最大でした。それだけでなく、戦後の復興を街並みに記す責務を、真摯(しんし)に深く受け止めた設計者でした。

 特徴は、外壁のタイルと窓サッシ、そして1階のアーケードです。茶褐色タイル85万枚は佐賀・有田で焼かれました。微妙に濃淡をつけた6枚がワンセットになり、外壁の四面全体に貼られました。サッシはステンレス製、四隅が曲線になっています。タイルに加え、このサッシを絶妙なバランスで繰り返し用いる一貫性ある手法が、前述した岩本のスタイルです。1階のアーケードは、天神を代表する3つの通り沿いに設けられ、誰でも身を寄せられるフレンドリーな公共空間を提供しています。

 建設中、徐々に現れ始めたタイルの色が、都心には濃すぎるのではないか、という疑問が新聞で取り上げられたこともありました。しかし完成後はその落ち着いた色合いが好評で、全国からこのタイルを、と注文が入ったそうです。

 天神ビル完成時は、オフィスだけでなくさまざまな用途が入った複合ビルとしても注目されました。1階の九州電力サービスセンターには、国産メーカーのさまざまな家電製品が展示され、豊かな生活への憧れを喚起しました。地下一階の食堂街「ニューフクオカ」には、寿司、天ぷら、ビアホールなど種々の飲食店が並びにぎわいました。この階には建物のデザインとの統一を図るため、デザイナーの柏崎栄助がアートディレクターに起用され、什器(じゅうき)、グラフィックを含めたトータルな室内デザインが完成しました。3階にはクリニック、10階には西日本婦人文化サークルに加え、結婚式場や美容室もつくられました。

 完成して56年。その間に建築の法令も変わり、大きな地震もありました。設備機器は必ず老朽化しますし、省エネを重視する時代にもなりましたが、天神ビルではそれら一つ一つに対策がとられてきました。外壁タイルの剥離(はくり)チェックはもちろん、耐震化、水の再利用に至るまで、所有者と施工者が手を携えて建物を守ってきたおかげで、変わらぬ姿を見せてくれています。長期にわたって適切な保全と、優れた改修を実施してきた建物に贈られるBELCA賞(ロングライフ部門)を受けたのもうなずけます。

 私の両親のように、孫たちに昔の思い出を語ることができる建物が存在し続けていること。それは市民にとっても建物にとっても幸せなことではないでしょうか。

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【プロフィル】松岡恭子

 まつおか・きょうこ 昭和39年、福岡市生まれ。福岡県立修猷館高校、九州大工学部卒。東京都立大大学院修了、コロンビア大大学院修了。建築家。設計事務所スピングラス・アーキテクツ主宰。建築、土木、プロダクトなど幅広くデザインを手がける。NPO法人福岡建築ファウンデーション理事長として建築の面白さを市民に伝える活動も続けている。

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