焦土からのプレーボール 濃人渉物語(5)

放棄試合…2軍監督へ降格 帰郷、古葉カープ見守る

【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(5)】 放棄試合…2軍監督へ降格 帰郷、古葉カープ見守る
【焦土からのプレーボール 濃人渉物語(5)】 放棄試合…2軍監督へ降格 帰郷、古葉カープ見守る
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1970年に念願のリーグ優勝を遂げたロッテの濃人渉(のうにん・わたる)監督だが、日本シリーズは巨人に1勝4敗で退けられた。「来年(次は)巨人を倒したい」との強い思いを抱いたが、それはかなわなかった。

翌71年7月、オーナーの中村長芳は濃人と2軍監督・大沢啓二の入れ替えを発表した。首位阪急に8ゲーム差とはいえ2位。異例の人事だった。

伏線は同13日の阪急戦(西宮)にあった。前年に中日から移籍した濃人の教え子、江藤慎一がハーフスイングを三振に取られてロッテは猛抗議。試合再開に応じず、史上6度目の放棄試合(0-9で敗戦)となった。

「あの温厚な濃人さんが…」。後のパ・リーグ審判部長、前川芳男は事件を聞いて驚いたが、放棄試合は現場にいた中村の独断に近く、すでに濃人の意志が反映される状態になかった。

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濃人はスカウト部長を最後にロッテを退き、広島へ帰郷。地元・広島テレビの専属解説者となり、まな弟子の古葉竹識が率いる広島の戦いぶりを見守った。

79年10月6日、勝てば初めて本拠地・広島市民球場で優勝が決まる阪神戦。広島が意表を突くスクイズで勝ち越すと、濃人は放送で思わず「ナイス、古葉!」と口走る。

この日は阪神OBの村山実とのダブル解説だった。アナウンサーの加藤進は「今、広島の夜空へ向かって古葉監督の体が二度、三度と舞いました」。胴上げを実況中、隣の濃人と村山が2人ともはなをすすりながら泣いているのに気づいた。

濃人は古葉の、村山はかつての弟分、江夏豊の晴れ姿にそれぞれ感極まったのだった。

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濃人が解説する広島戦の勝率は高かったが、負けが込むと神社にお参りした。「よほど古葉さんがかわいかったのでしょう」と長男の宏。

晩年に宏の妻、玲子へ「買ってきてほしい」と頼んだのは石原裕次郎のレコード『わが人生に悔いなし』だった。濃人は針を落としながら「俺も好きなように生き、人生をおう歌したから悔いはないよ」とつぶやいた。

90年10月10日、結腸がんのため75歳で死去。広島での原爆体験はあまり語らず、医療費などが無料となる被爆者健康手帳も「他に困っている人がたくさんいる」と懐へ忍ばせたまま使わなかった。

ぼだい寺「広済寺」住職の広済兼寿(ひろずみ・けんじゅ)が穏やかな笑顔、人柄を思い起こして付けた法名は「和顔院釈徳玄(わげんいんしゃくとくげん)」。戦後70年の今年はくしくも濃人の生誕100年に当たる。(三浦馨)

=敬称略

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