昭和の首相

平沼赳夫氏が「平沼騏一郎」を語る 大切にしたのは「国体」「右翼の総帥」は右翼や軍部ににらまれた

 --騏一郎がいなければあの時の日本はどうなっていたか 

 「最後の最後は陛下の御聖断だが、終戦の流れにならなかったら、このまま日本本土は間違いなく戦場になり、日本は本当になくなっていたんじゃないかなと思う」

 「ただ騏一郎も、御前会議の後では国体を大切にするよう主張した。ポツダム宣言の英文に『subject to』というのがあった。外務省は『制限下』と訳したが、本当は『隷属』ではないのかと論争になった。騏一郎は『陛下をちゃんと守れるか』と、しつこいほどGHQ(連合国軍総司令部)に問い直させるよう求めた。陛下が戦犯にされて、GHQの好きなように処刑でもされたらたまらないと思ったんだよ」

 --「祖父」としての騏一郎はどうだったか

 「私の母が騏一郎の兄で早稲田大学長をやった平沼淑郎(よしろう)の孫娘だった。子供がなかった騏一郎は、母を孫のようにかわいがった。それで、一家そろって騏一郎の養子になった」

 --騏一郎は独身だったと聞いているが

 「正確に言うと、1回は結婚していた。しかし、騏一郎が肺病になった。昔は、肺病は不治の病というので、女性の父親が心配の余り娘を引き取ってしまった。騏一郎は奇跡的に治り、司法省で徐々に活躍していた。すると、復縁の話が出てきた。騏一郎は、その女性が嫌いだったわけではなかった。しかし『覆水は盆に返らず』と言ったらしい。そのまま、独身を通した」

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