フォーク編<425>村下孝蔵(7)
今月24日は、村下孝蔵の命日である。ヒット作「初恋」の歌詞から引用した「五月雨忌」とも呼ばれている。村下の死後、この日に合わせるように毎年、故郷の熊本県水俣市などで偲(しの)ぶ会やメモリアルコンサートがファンの手で行われている。今年は没後20年になる。
広島市のRCC中国放送のラジオでは22日に「20年目の同窓会」と題して3時間の特番を予定している。そのパーソナリティーは地元の人気タレントの西田篤史(62)だ。4歳下の西田は村下を「村下兄ちゃん」、村下は西田を「あっちゃん」と呼び合う仲だった。村下の広島時代をよく知る親友である。
「十三回忌までは毎年、ラジオで追悼番組をしていました。今年は没後20年だけに是非、特集をやりたかった」
広島を訪ねたとき、西田は緊急入院中だった。西田はベッドで「場合によっては病室からでも番組をやりたい」と強い思いを語った。
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村下は1971年、新日鉄八幡製鉄所の水泳部を辞めて広島に移った。父が職を求めて、この地にいたこともあったが、村下の頭には「広島フォーク村」があった。
広島フォーク村は68年に吉田拓郎たちが結成したアマチュアの音楽集団である。当時、フォークブームは全国に広がり、地方では大学生を中心にこうした大小のフォークサークルが林立していた。同じ年、福岡にも福岡フォーク村ともいえる「ヴィレッジ・ボイス」が結成されている。
その中で、広島フォーク村は拓郎人気もあって徐々に全国的に知られるようになった。ただ、村下は思い違いをしていた。
「兄ちゃんはミュージシャンたちだけが実際に住んでいる村があると思っていたようです」
西田はこう語る。加えて村下が広島に移ったときは拓郎が上京し、広島フォーク村は第1期の活動を休止していた。
村下は日本デザイナー学院広島校のインテリアデザイン科に入学している。この入学について、西田が「することがなかったのではないか」と話すように、デザイナーを目指した積極的な選択ではなかった。水泳選手を諦めた村下にとっては音楽の道しかなかった。広島平和記念公園で、一人、ギターを弾き語る村下の姿があった。
「百年残る曲を作る」
西田にこう語った村下だが、広島生活の当初は孤独な日々だった。
=敬称略
(田代俊一郎)