フォーク編<421>村下孝蔵(3)
俳優でミュージシャンの加山雄三が主演した映画「若大将シリーズ」は、1961年にスタートした。10年間で17作を上映した東宝の看板映画だった。村下孝蔵の父親が経営する熊本県水俣市の映画館でも上映された。当時、映画はまだまだ庶民の娯楽として人気を保っていた。
村下は幼稚園のころから一番前の席で、映画をよく観(み)ていた。シリーズ6作目「エレキの若大将」は村下が水俣第一中学校に進んだ1965年に公開された。この年1月にベンチャーズが来日、エレキブームが起こっていた。小中学校の同級生の小嶋善人、奥龍一たちは村下が熱く語っていたことを覚えている。
「ベンチャーズと加山雄三はかっこいい。いつか加山雄三と一緒に演奏する、とも言っていました」
「ベニヤ板をギターの形に切り、釣り糸を弦にした手製のギターで弾くまねをしていました」
村下は両親に「エレキギターを買って」とねだった。家は水俣市を中心に七つの映画館を持ち、比較的裕福だった。ただ、「不良になるから」などの理由で買い与えなかった。村下は自ら模造品を作るしかなかった。それだけ新しい楽器、エレキギターへのあこがれが強かった。
後年、テレビ番組で加山と出演したことがあり、少年時代の夢が実現する。ステージでも「エレキの若大将」の挿入歌である「君といつまでも」「夜空の星」をカバーするなど、加山がシンガー・ソングライター、村下の出発点だった。
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中学では水泳部に所属する体育会系の生徒でもあった。同級生の坂本由伊子は水泳部ではなかったが、女性部員が1人だったことから地元の秋の大会に駆り出されたことがある。ひと夏、学校のプールで部員と一緒に練習した。
「部員は十二、三人くらいでしたが、村下君は一番、速かったです」
ギターに水泳、そして村下の代表作「初恋」(83年)のモチーフになる淡い恋も経験している。そこには高度経済成長期の明るい陽光の一端が差している。その一方で、56年に公式確認された水俣病が深刻な影を落とし、また、テレビに押されて映画産業も徐々に西日が差し始めていた。
祖父から父と受け継いだ村下家の映画館経営も厳しい局面を迎えた。
=敬称略
(田代俊一郎)