ソ連崩壊30年、大国ロシア復活の野望と摩擦
1991年12月、米国と並ぶ超大国として世界の覇権を争ったソビエト連邦が消滅した。共産主義の理想を掲げたソ連は、自由と人権を抑圧する全体主義国家でもあった。ソ連崩壊から30年、継承国ロシアは「大国の復活」の野望を抱くプーチン大統領の下で再び強権体制へと傾き、中国などと連携して米欧主導の世界秩序に挑戦する。東西冷戦の勝利に沸いたのもつかの間、民主主義陣営は再び試練に直面している。
超大国の消滅
30年前の12月8日、歴史の転換の舞台となったのはベラルーシのポーランド国境に近いベロベーシの深い森の中にある別荘。エリツィン・ロシア、クラフチュク・ウクライナ両大統領とシュシュケビッチ・ベラルーシ最高会議議長のスラブ系3共和国首脳が、超大国・ソ連の消滅を宣言し、これに代わる緩やかな独立国家共同体(CIS)を結成する協定に署名した。
ソ連を構成する15の共和国が相次ぎ国家独立を宣言する中、ペレストロイカ(改革)でソ連延命を図ったゴルバチョフ大統領は敗北した。91年8月の保守派クーデターで求心力を失っていたゴルバチョフ氏は12月25日、テレビ演説で辞任を表明するしかなかった。89年の冷戦終結から2年後。米国との核軍拡競争や資源価格の低下に疲弊し、民主化運動の波が押し寄せたソ連はあっけなく崩壊し、米ソ2極体制は終わりを告げた。米主導の西側は湾岸戦争にも勝利し「歴史の終わり」に酔った。
以降、旧ソ連圏は混迷の10年を迎える。90年代前半の経済改革で新たに独立した国々ではハイパーインフレが起こり、国民生活は困窮を極めた。ロシアではエリツィン大統領が権力闘争の末に最高会議(議会)ビルを戦車で砲撃した「モスクワ騒乱事件」も発生した。性急な市場経済への転換と民主化は挫折を味わい、国民の生活と意識に深い傷痕を残す。プーチン氏は後に、ソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的大惨事」と呼び、多くの国民もソ連への郷愁に駆られるようになる。
「皇帝」プーチンの誕生
「わがロシアは繁栄し豊かで強く文明化された国になる」。2000年5月7日、モスクワのクレムリン大宮殿で、47歳の若きプーチン氏はこう表明し、第2代ロシア大統領に就任した。掲げたのは「強いロシア」の再建。だが、米欧では旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身者がエリツィン氏の後継指名を受けたことに戸惑いが広がった。その不安は21世紀が進むにつれ、ロシアと米欧の激しい対立として現実のものになる。
大統領選を前にプーチン氏が国家再建に向けて着手していたのが、チェチェン紛争の鎮圧だった。ロシア南西部で分離・独立を求めたチェチェン民族の強硬派に対し、1994年にロシア軍が進攻して泥沼化した紛争は民間人を含む何万もの命を奪った。2004年のベスラン学校占拠事件など悲惨なテロと、ロシア解体の危機ももたらした。「力で対抗するしかない」。こう言い切るプーチン氏は09年までに武力で分離・独立派を押さえ込んだ。1990年代の混迷に疲れた国民も「強い指導者」を支持した。
経済では2003年、「石油王」と呼ばれた石油大手ユーコスのミハイル・ホドルコフスキー社長を逮捕し、前政権下で暗躍した他の新興財閥たちもひれ伏した。基幹産業はKGB出身者ら側近たちに管理させ、多くの利権を手にした。国家が経済活動で主要な役割を果たすロシア型「国家資本主義」の輪郭が鮮明になりつつあった。
多極化世界の構築へ
ユーラシアの地政学を一変させる象徴的な出来事になったのが、01年7月16日の中ロ善隣友好協力条約調印だ。ソ連時代には国境紛争を抱えた両国だが、モスクワを訪れた中国の江沢民(ジアン・ズォーミン)国家主席はプーチン大統領と固い握手を交わし、「戦略的パートナーシップ」の強化へかじを切る。中ロ協力は同年に旧ソ連・中央アジア諸国とともに設立した地域協力組織、上海協力機構(SCO)を軸に広がり、米国による一極体制に対抗する「多極的世界の構築」へと向かった。
プーチン氏はロシアが国家衰退に歯止めをかけ、米国や中国、欧州連合(EU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)などと多極的世界の一極を担うべきだと考えた。そのための基盤として、結びつきの弱いCISに代わる新たな旧ソ連諸国の地域統合に乗り出す。15年1月、ベラルーシや中央アジア諸国とユーラシア経済同盟を発足させ、ユーラシア大陸での地盤固めを急いだ。
プーチン氏の世界戦略は、中東やアフリカにも広がる。転機は同じく15年の9月末、ロシア軍のシリア空爆だ。中東では米欧による03年のイラク戦争や10年に始まった民主化運動「アラブの春」により強権体制が相次ぎ倒れていた。プーチン氏はシリアで反体制派を空爆してアサド政権を支援。西側が支持する反政権運動をシリアで阻止し、流れを変えようとした。21年も米国がアフガニスタン駐留軍を撤収するなど「世界の警察官」の座を下りようとするのを横目に、プーチン氏は中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席との連携を一段と強めた。
欧州アジアへパイプライン 世界経済への統合
11年11月、ロシアとドイツがバルト海海底に敷設された天然ガスパイプライン「ノルドストリーム」で結ばれた。メルケル独首相やメドベージェフ・ロシア大統領らが満面の笑みで始動ボタンを押し、欧州での新たなエネルギー協力のスタートを祝した。だが、当時から浮上していた2本目の「ノルドストリーム2」の建設には米国から「ロシア依存が深まる」と制裁が科され、米ロ対立の象徴になる。
ロシアやカスピ海沿岸の国々をはじめ旧ソ連諸国には石油や天然ガスを豊富に埋蔵する国が少なくない。ソ連崩壊後の1990年代の深刻な経済・財政危機を脱し、国家の基礎を築くため、2000年代以降、欧州とアジアに向けて新たなパイプラインを相次ぎ建設した。資源高で外貨を稼いだプーチン氏は強固な政権基盤を確立し、輸送手段に乏しいカスピ海沿岸諸国もパイプライン稼働で経済成長を加速した。
特に、12年末に全線が開通したロシアの東シベリア太平洋石油パイプラインはロシアが日本や中国などアジア太平洋諸国向けの輸出に使う初のパイプラインとなり、プーチン政権がアジア戦略を本格化する転機になった。09年に稼働したトルクメニスタンから中国に向かう天然ガスのパイプラインも、広域経済圏構想「一帯一路」を掲げる同国と中央アジア諸国との関係強化を後押ししている。
勢力圏譲らず
世界を震撼(しんかん)させる国際的事件だった。「みなさんの支持を確信する!」。14年3月18日、ロシアのプーチン大統領がウクライナ南部クリミア半島の併合へ支持を呼びかけると、議員や政府関係者が詰めかけたクレムリンの会場は歓喜と拍手の渦に包まれた。第2次世界大戦後の欧州で武力を背景にした「併合」が初めて起きた。欧米諸国から厳しい制裁を受けても、さらにウクライナ東部への軍事侵攻を続けた。
伏線は08年8月、親米欧路線に転じた旧ソ連南西部ジョージアとロシアの軍事衝突にあった。ジョージア領内の親ロシア派地域への影響力を堅持するため、プーチン氏は武力に訴え、欧米の旧ソ連圏への影響力拡大を押しとどめようとした。そして6年後、ウクライナへの侵攻で、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大により後退を続けてきたロシアが攻勢に転じた。
旧ソ連圏にはジョージアをはじめ各地に未解決の民族・領土問題が残る。ソ連は異なる民族集団がモザイク状に入り組んで暮らす多民族国家だった。だが民族意識の高まりで15の国家が独立し新たな国境が引かれると、少数派は引き裂かれた。ウクライナ東部もロシア系住民が多い。20年9月末にはアゼルバイジャンでナゴルノカラバフ紛争が再燃した。ソ連崩壊に伴う悲劇は終わっていない。
民主化への希求は止まらない
ソ連崩壊から30年間、域内では民主化運動と強権的体制の攻防が絶えない。03年にはジョージアで野党勢力の抗議運動でシェワルナゼ政権が倒れた「バラ革命」が、04年にはウクライナの親欧米派による「オレンジ革命」が起きた。最近では20年8月、ルカシェンコ氏が6選を決めたベラルーシ大統領選での不正疑惑をきっかけに大規模な抗議デモが広がった。ベラルーシの政治危機は、同国から隣り合うEU諸国へ国境を越える不法移民問題の一因ともなった。
ジョージアやウクライナの政権交代は、民主化運動を象徴する様々な色にちなんで「カラー革命」とも呼ばれた。ロシアにも同じように民主化の波が襲う。11~12年にはプーチン体制の長期化に反発する市民による「反プーチン運動」が拡大した。政権による毒殺未遂疑惑がある反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が21年1月に逮捕されると、再び大規模な反政権デモが展開された。
「これは我々にとって教訓であり警告だ」。プーチン氏は「カラー革命」をロシア復活を望まない米欧の陰謀とみなす。1917年の共産主義革命とソ連崩壊という20世紀の「2度の革命」を引き合いに、混乱と苦難をもたらすだけだと自らの強権的政治体制を正当化しようとする。24年の次期大統領選での5選出馬を視野に入れたプーチン氏は治安部隊も動員し、ナワリヌイ氏支持のデモ参加者の大量拘束に踏み切った。
「民主化なしに国を前進させることは不可能だ」。21年のノーベル平和賞受賞が決まったロシアの独立系新聞、ノーバヤ・ガゼータのドミトリー・ムラトフ編集長はこう語り、ロシアなど旧ソ連諸国の指導者が求める強権的体制には明確な異議を唱えた。ソ連崩壊への原動力ともなった民主化への希求を止めることは難しい。
モスクワ支局 石川陽平、桑本太