貿易の街育てた友好 「落地生根」神戸と華僑(1)
軌跡
きらきら輝く大阪湾から微風が吹いてくる。ここは神戸や大阪の華僑の墓地「神阪中華義荘」(神戸市長田区)。丘にひな壇状に並ぶ墓はすべて先祖が渡ってきた海を向き、墓石には「原籍 中国広東省増城県新塘村」など必ず来歴が刻まれている。
最初は日本で客死し戻るすべのない華僑を仮埋葬していたが、今は永代墓地として約1000基を数える。故郷に錦を飾る「落葉帰根」から、その地に根ざす「落地生根」へ。戦争や日中関係に翻弄されながらも、着実に足元を固めてきた歴史がある。
神戸に初めて華僑が来たのは兵庫(神戸)が開港した1868年。以来、神戸の発展に深くかかわってきた。最初は雇い主の西洋人についてきた理髪、洋服仕立て、コックの「三刀業」が多く、洋風文化を広める役割を果たした。
「北米航路の横浜が広東出身者が多かったのに対し、アジアに近い神戸は広東、福建、上海、台湾など多元的なコミュニティーでバランスがよい」と、陳来幸・兵庫県立大教授。「彼らがそれぞれのつてを利用して中国各地や南洋との貿易を活発にさせる原動力となった」と、安井三吉・神戸大名誉教授は指摘する。
マッチや繊維など神戸、大阪の軽工業は、呉錦堂ら華僑の貿易網とともに成長し、1930年で見ると神戸港から華中、華南、南洋への輸出の53%を華僑が占めていた。「日本のマッチ王」といわれた滝川弁三・儀作ら「神戸の経済人と華僑のつながりは独特の強さがあった」(安井氏)。
12年の中華民国建国を神戸の華僑は物心両面で支援した。「東京に近く官憲の目が光る横浜と違い、神戸には亡命者が多かった」(陳教授)。華僑や経済人は亡命者をかくまい、「建国の父」孫文は最低18回は神戸を訪れている。
24年11月、孫文は神戸で「大アジア主義」の演説をし、日中が連携して仁義道徳に基づく東洋の王道文化を実現するよう呼びかけた。講演は日中の友好こそが経済発展の基礎と考える神戸経済界の依頼で実現したといわれる。
日中国交正常化翌年の73年、神戸市は全国に先駆け中国・天津市と友好都市関係を結ぶ。華僑と経済界の長い友好関係も寄与したといえよう。
編集委員 宮内禎一が担当します。
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