死神の浮力 伊坂幸太郎著
物語を覆う哀しみとユーモア
小説家の山野辺は、本城崇に幼い一人娘を殺された。狡猾(こうかつ)な本城は、巧みな法廷戦術によって無罪判決を勝ち取ってしまう。しかし、山野辺と妻はそのことを悲しみはしなかった。本城を自分の手で殺(あや)める決意を固めていたからである。メディアの取材攻勢を逃れて自宅に閉じこもり、本城を追いつめる瞬間を待つ夫妻を、一人の男が訪ねてくる。山野辺の幼馴染(おさななじみ)と名乗り、自分も本城に怨(うら)みがあると語る男は、しかしどこか調子外れなところがあった。本城崇には、良心がない、と山野辺が語るのを聞いて、彼は感想を述べる。
「クローンというやつか」
それは両親なしで生まれる人間。良心と両親を勘違いしたのだ。この不思議な男・千葉が、山野辺夫妻の手助けをするという。
『死神の浮力』は、作者が2005年に上梓(じょうし)した連作短篇(ぺん)集『死神の精度』の、ひさしぶりの続篇である。実は、千葉の正体は死神で、彼は対象となる人間と7日間行動をともにし、その人物を死なせてもいいか否かを判断するという任務を負っている。その7日間がたまたま、山野辺夫妻の復讐(ふくしゅう)行と重なり合ったのだ。8年ぶりに出番を得た死神は、ちょっとだけ昔より頼もしくなっていた。
子供を亡くし、深い絶望の底にいる夫妻の横に、人間ですらない者がいるという図式がユーモアを醸し、そのことが物語を覆う哀(かな)しみを中和する。笑いと涙がほどよく配分されることにより、心地よい手触りの物語が生まれたのだ。そのなめらかさは、暗い闇に包まれた山野辺夫妻の心さえも、少し穏やかなものにしてしまう。
伊坂幸太郎は、この世界に生きる人の感じる恐怖や不安をすくい取り、小説にする名人でもある。本書で描かれているのは、もし自分の命が終わったら、大切な人がいなくなってしまったら、という根源的な死の恐怖だ。たとえば、もし我が子が、凶漢の犠牲になったとしたら。子を持つ親であれば(いや、そうでなくても)想像するだけで耐えがたい痛みを覚える考えだろう。そうした辛(つら)さに、伊坂は虚勢を張らずに向き合っている。怖いときには怖いと、正直な気持ちを吐露しながら。
(書評家 杉江松恋)
[日本経済新聞朝刊2013年8月18日付]