ガンバ大阪の前身で松下電器サッカー部創部の中心となり、初代監督を務めた水口洋次(みずぐち・ようじ)氏が、10日に亡くなったことが12日、分かった。77歳だった。近年は鳥取・米子市内で闘病生活を送っていたという。G大阪の公式ホームページでこの日、訃報が発表された。

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水口氏がいなければ、現在のG大阪はなかったという関係者は多い。

広島市生まれで広島国泰寺、中大を経て67年にヤンマーに入社し、同期の釜本邦茂氏らと活躍。その後、奈良県に松下電器サッカー部創部の動きが起こり、ヤンマーを辞めた水口氏が中心となり、奈良県社会人2部リーグ加入に向け、発足の準備を始めた。初代監督に就任した水口氏は、当時は選手数も足りず、選手を兼任するなど苦労した時代だった。

伝説を築いたのは90年度の天皇杯だった。91年元日の国立で、日産自動車(現横浜Fマリノス)と対戦。0-0のまま突入したPK戦を4-3で制し、Jリーグ参入前のチームに新たな歴史を刻んだ。

決勝の先発メンバーは、GK慶越、DF島田、ダリオ、美濃部、和田、MF東、久高、梶居、平野、FW永島、ミューレル。Jリーグへの新時代を告げる1ページになった。

職人気質の性格で決して口数は多くないが、タイ人のビタヤ・コーチと二人三脚で、情熱あふれる指導が好評だった。酒を飲めば、森進一の歌が十八番。Jリーグが創設された93年以後も、G大阪では取締役強化部長など要職を歴任。現在の名門クラブの基礎をつくった人物だった。

出向元の松下電器を02年に定年退職後も、サッカー界のために人材発掘や育成に貢献した。初芝橋本高(和歌山・橋本市)のDF辻尾真二の可能性を見抜くと、母校中大に推薦。のちに清水エスパルスなどで活躍する青年の姿を見て、心から喜んでいたという。

07年にはJリーグ入りを目指す当時JFLのガイナーレ鳥取(現J3)の監督に就任。その土地が気に入り、退任後も生活の拠点を鳥取県内に置き、サッカー界の発展を見守っていた。【横田和幸】

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水口監督時代の松下電器で頭角を現した元日本代表FWの永島昭浩氏(58=日刊スポーツ評論家)

水さん、訃報を聞き、悲しみでしかありません。ご家族の皆様に、心からお悔やみを申し上げます。

私は83年、松下電器に入社し、サッカー部の監督が水さんでした。

「ナガシ、いいか。FWは得点がすべてだ」というアドバイスと同時に、よく練習を見守ってくださりました。私自身のPSV(オランダ)留学も後押ししていただきました。

後に日本代表に選出された時、一緒になって喜んでいただいたのを今も覚えています。今の私が存在しているのも、水さんのおかげです。

水さんの思い、日本代表の世界一実現のために、サッカー人として精進して参ります。水さん、今はゆっくりしてください。