No.168
2017.09.29
音楽
矢野顕子さんの世界が詰まった『若い広場』!
前回に続いて『若い広場』の発掘です。1977(昭和52)年放送、22歳のシンガーソングライター・矢野顕子さんを追った番組です!
コンサート直前のメイクシーンから始まる番組は、ドキュメントVTRとスタジオでのインタビューで構成されています。
VTR部分はナレーション無し、いわゆる“ノーナレ”です。『若い広場』では、よくみられた演出です。
まずはコンサートで歌った曲、「サイコ・サイコ」そして「津軽ツアー」から。デビュー・アルバム発売の翌年のこと。ステージ上で楽しそうにキーボードを演奏しながら歌う矢野さんの姿に合わせて、字幕でプロフィールが紹介されます。
「矢野顕子22歳」「東京で生まれ、青森で育つ」
「3歳から、カナダ人のピアニストのきびしい訓練をうける」
「クラシック、ジャズを経て15歳で再び上京、米軍キャンプなどで弾きはじめる」
続いて登場したのはジャズピアニストの山下洋輔さん。矢野顕子さんとの出会いを語ります。
「最初に彼女に会ったのは青山のちっちゃなクラブで、あの子がまだ15歳ぐらい、時々遊びに来ては半分仕事、半分遊びで、深夜近い時間だけどピアノ弾いたり歌を歌ったりしてて…。ビックリした覚えがあります。天才少女という印象がまずあったですね。…ピアノを弾きながら自分で“わらべ歌”を歌ったりしてるのが、めちゃくちゃ面白くて、聞くなり笑い転げて…笑い転げるというのは僕らの間では大変な良い評価ということで。」
こちらはNHKの食堂。
すでに結婚して子供がいた矢野顕子さん。子連れでNHKに来たこの日は、一緒に食事をしたあと…
NHKの「軽音楽オーディション」に。さまざまな分野の歌手を目指す皆さんにとって、このオーディションに合格することが一つのステイタスでした。
審査員の一人がこの方、藤山一郎さん。
矢野さんの順番、歌う前にまず語り始めます…
「15番の矢野顕子です。こうやって第2次審査に残るのは2回目なんですけど…。一番最初の時はグループを組んでいまして、その時は一発でOKだったのに、今年の初めだったか受けにきたら、にべも無く落とされまして非常に傷つきました…。では日本が世界に誇る名曲をお送りします。」
歌ったのは『丘を越えて』。審査員の藤山一郎さんが昭和6年から歌う名曲、いわば“昭和歌謡”を矢野顕子さんならではのアレンジで楽しげに歌います!それはまったく別の曲とも思えるほど…。
「素晴らしいピアノにのせて思い切った表現で歌われた。これにはビックリした。弾き語りと簡単に言うけどね、できるもんじゃないですよ。…もっともっとチャレンジして、若さはチャレンジだ。ぶつかっていって新しい形をこしらえて。あれでなけりゃいけないってことは無いと思うな。」
結果は合格!翌日には小室等さんのレコーディングに参加。小室さんは…
「特に矢野顕子のような音楽は儲からないと思うの。俺は儲かって欲しいと思うし、矢野顕子の音楽がもっとたくさん受け入れられるっていうことは、俺にとって心強いことであると思うし。だけどレコード会社をやって色々知ると、楽観的なものでもないという気がしている。」
矢野さん「日本でいるぶんには真っ暗だけどね。それ以外のところ見てるから。」
画面は変わってNHKのスタジオ、インタビューパートの始まりです。「へこりぷたあ」という曲の弾き語りから始まります。インタビューの聞き手は作家の五木寛之さんです。
五木さん「今の曲、レコードのジャケットには“へこりぷたあ”って書いてあるでしょ?それはどういうことなんですか?」
矢野さん「小さい時にね、鉄筋コンクリートのことを“てっこんきんくりーと”とかね。」
五木さん「僕は、野球のベテランのことを“べらてん”って(笑)」
矢野さん「それとおんなじ!」
五木さん「さっきから矢野さんのピアノをここで聞いていると、どんどんお尻がずれていってズッコケて落ちそうになるんだ。」
矢野さん「それはいいことだ(笑)」
五木さん「クラゲみたいにグニャグニャになって楽な姿勢になるっていうか、対談の前に今のピアノを聞いているとすごく楽になる、肉体が物理的にグニャグニャになってくるんだよね、マッサージされたみたいに。すごく面白い音楽だと思った。」
矢野さん「どうもありがとうございます。」
子供の頃、矢野顕子さんはいわゆる“歌謡曲”をまったく聞かずに育った時期があったといいます。朝ドラのテーマ音楽も聞きたいと思わず、音声を絞ったといいます。
五木さん「子供の頃から普通の日本人だったら自然に覚えちゃう流行歌を、ある音楽的な過程を得たあとで、なにかこう珍しいところの音楽みたいな感じでぶつかったんじゃないかと思って。」
矢野さん「まったくそうですね。今ある“懐メロ”とか全然知らないでしょ。『おとみさん』だったかな?あれなんかも是非やりたいんだけれど、新鮮ですね、めっちゃくちゃ。」
五木さん「僕たちにとってみると映画というのはとっても古いものなんです。ところが生まれた時からテレビが家にちゃんとあったという人たちにしてみると、中学校なんかに行くころになって初めて映画を見て、なんて画面が鮮明で大きいんだろうと映画を“発見する”世代があるわけね。さっきの歌謡曲にしてもそういうことだと。」
五木さん「国際的に活躍している音楽家とか演劇の人たちが、日本の伝統的な楽器や音楽なんかに今非常に強い関心を示していますね。矢野さんはどう受け止めていますか?」
矢野さん「波が高まっているなというのがよく分かるんです。…ヨーロッパ人というのはアジアをよく研究するでしょう。ファッションや音楽も次はこうなるだろうと予測してきたことがホントにそうなってきた。日本人の中でもルーツを探す人はいっぱいいるし、掘り下げる人もたくさんいるのかもしれないんだけど、私がこれからやらなければいけないことは“創造者”であるべきだと思う。創造したものがどんな形になっているかだとか、どういう形にしなければいけないか、今一生懸命つかもうとしているんで…レコードに現れたのは暗中模索の最中の一つ。和楽器を使うこととかも。」
五木さん「日本っていう事を絶対考えなければいけないだろうし、自分が日本人であることをごまかして、どんなにアメリカ人や白人に近づこうとしても絶対無理だと思うんです。…向こうを手本にして追いつこうとする限りは。」
矢野さん「そうなんですよね。私なんかずっとキーボードを弾いてて、みんな周りが男の人ばかりできたから女であるとかそういうことを全然忘れてたんです。女だから楽器運ばなくていいよだとか、言われるのがシャクで、ずっとスカートも履かないでとにかくジーパンで、楽器運びもみんなと同じにして、同じになろうと…ところが、もっとタッチを強くしたいとか考えてがむしゃらに練習したらたちまち腱鞘炎になっちゃって、しばらくピアノが弾けなくて…」
「何でこんなことしなきゃいけないのかと思って。まず性別が違うって言うことは人種が違うんだから、そこへ追いつこうとしても肉体的にダメなものはどうしようもないですからね。そうじゃなくて自分を生かす方法を考えようと思って、“歌うように弾く”っていうのを発見して、自分のスタイルになりました。」
このビデオテープは、矢野顕子さんの弟の鈴木伸吾さんからの提供です。亡くなったお父様が録りためていたビデオテープの中から発掘された『若い広場』です。
ありがとうございました!