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大船・横須賀線爆破事件(伊波 新之助)2003年12月

喋り始めた一粒のご飯

勝手知ったる警視庁からよその県の現場に飛び出すことは、事件取材に慣れた記者にとっても多少気の重くなることである。第一報はいい。目の前に展開している事実をとにかく集めればいいんだから。でも問題はそこから先である。

 

●「父の日」に起きた惨劇

 

あれは昭和43年(1968年)6月16日のことだった。国鉄横須賀線の上り電車が北鎌倉を発って、間もなく大船駅に差しかかろうとした午後3時半ごろのこと、10両編成の前から六両目で突然爆発が起きたのだ。白煙がたちこめた車内は悲鳴や叫び声が交錯し、たちまち修羅場と化したのである。日曜日だったので行楽帰りの乗客が多く、翌朝の新聞は「死者1、重軽傷28人」と伝えた。

 

亡くなったのは東京都武蔵野市関前二丁目の30歳になる会社員の人で、生まれて間もない長女が逗子市で入院しており、奥さんが付きっきりで看護にあたっているのを見舞って父娘の楽しい半日を過ごし、ほおずりをして別れて間もなくこの災難に遭ったのだった。この日はたまたま「父の日」にあたり、この若い父親にとっては初めての父の日がとんでもないことになってしまったのである。  頭に八針も縫う大けがをした人、耳が聞こえなくなった人など多くのけが人が出たが、多かったのが爆発物の破片が顔や手足に突き刺さった人たちで、厚さ四㍉ほどの鉄片が切開手術で体のあちこちから取り出された。なかにはネジ目のあるもの、2cm×3cmもある大きなものも出てきた。

 

現場の状況から、爆発物は後部左側のボックス席の上の網棚に置かれていたものと推定され、車内からは破片になったタイムスイッチ、電池、鉄パイプ、菓子箱、新聞紙、紙袋などがみつかった。

 

●「現場百回」と言ったって

 

警視庁の記者クラブを相田猪一郎キャップ、梅村鏡次サブキャップらと飛び出した僕は駅や病院、警察での取材、出稿が一段落したところで「さて」と考えた。

 

刑事の間では「現場百回」という格言めいたものがあって、現場を見ることがとても大切なことになっている。事件記者も同様である。しかしこの事件は特別だ。現場といったって爆発が起きたのは大船駅の手前の通称田園踏切といわれる辺りである。電車が走り過ぎたその場所に事件解決のカギがあるとも思えない。

 

そうだ電車だ。しかし電車だってすでに大船電車区の車庫に入ってしまっている。ドアも窓も閉め切った電車を外から眺めたって事件に関係のあることが分かるはずはない、と考えた。しかし、とにかく「現場百回だ」と思い直し「見るだけ見ておくか」という気になって、ひとりで夜更けの車庫に向かった。

 

静まり返った中を電車はライトに照らされて止まっていた。ちょうどこの辺が事件が起きたところかなと、6両目の辺りを外から見て回った。しかし線路に立った低い位置からは中はよく見えない。

 

外側に目を移し、しばらくすると窓枠の外に白いご飯粒がひとつへばりついているのに気づいた。「ははん、だれか弁当でも食べていてここに飛んできたのかな。それなら警察幹部に『弁当を食べていた人がいるはずだ。その人はどこに座っていたか。どこに住んでいるか』などと質問する手持ちの材料になるぞ」などと考えながら電車によじ登ってそのご飯粒をそっとはがし取ったのである。この程度のことは捜査の妨害とはいえないだろうと考えつつ。

 

●活字との格闘から始まった

 

掌のうえに大事に載せたご飯粒を子細に点検しつつ指先でそっと押したり転がしたりしてみると驚いたことに少しずつだがご飯粒に割れ目が何本か入り始め、やがてその一本一本が広がって、全体がどうやら一枚の紙へと広がっていったのである。これにはすっかりびっくりしてしまった。大変なことになってきたのである。ご飯粒ではなくて、どうやら新聞の断片であるらしいことがわかった。

 

新聞紙をたぶん犯人は爆発物を包むのに使い、それが爆発と同時に紙つぶてとなって四方に飛び、たまたま開いていた窓を通って外に出て窓の外枠にへばりついたものと推定された。ということは、いま手の上にある紙片は犯人を捜すための有力な手掛かりになる新聞紙の断片ということになる。よく見ると新聞紙は表裏とも広告欄のようで、表の面は「皇太子ご一家がどこそこで泳いだ」というたぶん週刊平凡の広告。裏は会社名は一字しか分からないが運送会社の求人広告らしく、断片的ながら電話の市外局番から東京都武蔵野市所在の会社と分かった。

 

大船署の近くに借りた民家の一室での作業である。週刊誌の記事からこの新聞のおよその発行時期が推定され、武蔵野支局への問い合わせで分かった運送会社の名称と電話番号からその会社に電話をすると、好運なことに宿直の人がいて「そのころの求人広告だったら毎日新聞かサンケイ新聞で、東京都下の多摩版に載せたはず」ということまで判明した。さあ大変なことになったぞ。

 

こうして僕が送った特ダネ原稿は6月17日付朝日新聞朝刊の一面に「新聞紙は4月15、16日ごろの毎日新聞またはサンケイ新聞とみられる」という、たった3行に削られて載ることになったのである。朝日新聞というのは一線記者が書く事件原稿をいかに大事に扱わないかがこの一件でよく分かるのである。もちろんこんな扱いではこちらは不満だ。翌朝やいのやいの言うと、夕刊にようやく「犯人は三多摩地方か」という一面4段の記事が復活した。

僕の朝刊の記事で産経新聞の榎並達記者が駆けつけ「遺された新聞はサンケイか」と記者会見の幹部にくいさがったが「捜査本部はこれから調べるところです」という回答にびっくり。仕方なく僕の方を向いてニヤニヤし、素直に感心してくれた。

 

その後捜査本部は都下に配られた毎日新聞の配達先リスト、名古屋市内で売られていた最中の菓子箱を手掛かりに11月になってついに東京都日野市在住の容疑者を逮捕、事件は全面解決を迎えたのである。僕が書いたとおりになった。失恋した大工が、昔の恋人が利用すると思われる電車に仕掛けたうっぷん晴らしの犯行だったのである。

 

じつはこの青年はのち死刑の判決を受けてやがて確定。キリストへの信仰と短歌づくりに目覚めるなか、故郷最上川への思いを胸にしつつ、処刑台に昇ったのである。「死に至る罪、純多摩良樹歌集」(短歌新聞社)がいま僕の手元にある。一首ずつを読むたびにさまざまな感慨を覚えるのである。

 

いなみ・しんのすけ会員 1935年生まれ 61年朝日新聞入社 社会部次長警視庁キャップなどを経て 東京版編集長 編集委員(治安担当) 調査研究室主任研究員を務める 95年退社

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