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スポット紹介
王道からディープなスポットまで2,500箇所以上掲載!
弥山展望台
瀬戸内の多島美が望める霊峰
宮島の最高峰で、標高は535m。島全体が神聖視されていた宮島では弥山も信仰の対象であり、806年に弘法大師が開基したとされています。国の天然記念物に指定されている弥山原生林は世界遺産「嚴島神社」指定区域の一角を担っています。 山頂からの景色は絶景で、瀬戸内海、四国連山などの景観を一望におさめることができます。また、山頂付近にひしめき合う巨石・奇石はパワースポットとしても有名で、神秘的な光景が広がります。2015年に「弥山展望台からの眺望」がミシュラン・グリーンガイド・ジャポンにて、三ツ星を獲得しました。
鞆の浦の町並み
日本遺産。江戸期の豪商の屋敷や小さな町家がひしめく港町
鞆の浦は、古くから「潮待ちの港」として栄え、江戸時代からの港湾施設や情緒ある町並み、昔の土蔵などがそのまま残っています。2017年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 歴史上の人物も多く立ち寄り、宮崎駿監督が滞在し「崖の上のポニョ」の構想を練った場所としても有名です。 また、ハリウッド映画「ウルヴァリン:SAMURAI」や長澤まさみ主演の「潔く柔く」などのロケ地となったり、元AKB48の岩佐美咲の演歌「鞆の浦慕情」もリリースされるなど話題にこと欠きません。 レトロでノスタルジックな路地裏をぶらりと歩いてみませんか。まるでタイムスリップしたかのような気分を味わえます。
筆影山
瀬戸内海随一の多島美が見られる山
三原市にある標高311mの筆影山。江戸時代後期の儒者・詩人であった頼山陽が、海に映ると山の形が筆の様に見えることから命名したと言われています。 山頂の園地は、春には2,000本のソメイヨシノが咲き花見を楽しむ多くの市民でにぎわいます。そして夏から秋はハイキング、冬には海霧を見ることができ、1年を通して楽しめます。 展望台から眺められる多島美は瀬戸内海随一と評され、1950年、瀬戸内海国立公園の一部に指定されました。また、筆影山の南西に位置する竜王山からは、しまなみ海道10橋のうち7橋を一望することができます。
大久野島
うさぎ好きにはたまらない、通称「うさぎの島」
竹原市の忠海港から船で約15分。周囲約4kmのこの小島は、かつて毒ガス工場があったことから「地図から消された島」と呼ばれていました。現在は国立公園に指定され、約500~600羽ものうさぎが棲息することで知られており、国内外を問わず多くの観光客が癒しを求めて訪れています。 島内には、宿泊をはじめ、温泉、ご当地グルメなどが満喫できる休暇村大久野島や毒ガス資料館、大久野島ビジターセンターといった施設があります。休暇村大久野島では、キャンプやサイクリング、テニス、釣りなども楽しむことができ、夏には海水浴場や屋外プールもオープンします。 瀬戸内海の美しい自然の中でうさぎとふれあいながら、のんびりとした時間が過ごせる島です。
千光寺
広島が誇る日本遺産尾道市を境内から一望
大宝山権現院千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、弘法大師の開基(806年)で中興は多田満仲公と伝えられています。 珍しい舞台造りの朱塗りの本堂(1686年)は別名「赤堂」とも呼ばれ、林芙美子も放浪記の中で「赤い千光寺の塔が見える」と書いています。 「赤堂」や「玉の岩」、"残したい日本の音風景100選"に選定された「鐘楼」は、お寺のシンボル的な存在です。
御手洗町並み保存地区
江戸時代にタイムスリップ!日本遺産 御手洗の町並み
江戸時代、風待ち、潮待ちの港町として栄えた御手洗は、平成6年重要伝統的建造物群保存地区として国から選定されました。土地が狭いため数度にわたって埋め立てられた御手洗は、大小の商家、茶屋、船宿、住宅、神社、寺院などが混在し、集落中心路、集落連絡路、集落生活路の小路等が網の目のように巡っています。また大波止、石橋、高燈籠、石垣護岸、雁木等、港町の生活上必要な土木的建造物が当時のまま現存しているものもあります。御手洗地区は17世紀の中頃形成されて以来、江戸時代の約200年間を経て昭和初期に至るまで、瀬戸内海交通の中継港として、時代時代に応じた発展を示し、その痕跡を今も集落内に留めています。