香港の華人系財閥はいわゆる同族企業が圧倒的に多い。企業の最高責任者はあるときは親から子、あるときは兄から弟へと引き継がれ、莫大な資産を一族で蓄積している。
恒隆集団の前身にあたる恒隆有限公司は、現主席の陳啓宗(ロニー・チャン)氏の父親にあたる陳曽煕氏によって1960年に設立された。開発から販売までを一手に引き受ける不動産デベロッパーとして成長し、1972年に上場を果たしている。
その後恒隆集団は、香港華人系デベロッパー5強の一角として活躍したが、香港証券取引所の株価指数であるハンセン指数が高値の半分以下に落ち込んだ81年の株式・不動産市場の大暴落(1981年香港股災)で大打撃を被り、陳曽煕氏が亡くなった80年代後半にはその力はかなり衰えていた。80年代から90年代にかけては香港が世界に向けて存在感を示し大きく発展した時期であり、一方香港返還に関する中英交渉がまとまるなど、中国との関係にも重大な変化が生じた時代でもある。保守的な社風を堅持する恒隆集団はこの大きく急激な時代の変化に乗り遅れたのであろう。
恒隆集団の礎を築いた陳曽煕氏は香港実業界の隠遁者と呼ばれることもあったほど謎多き人物である。戦前、日本に留学し土木工学を専攻したことは分かっているが、どの大学かは不明で、生年月日さえ公開されていない。大財閥の主席でありながら1986年に亡くなるまで、メディアや公の場にめったに姿を表さず、記者のインタビューすら受けなかったという。苦労人らしく事業が軌道に乗ってからも節約を貫き、金の計算には厳しかったというが、これは彼が熱心なクリスチャンであることと関係があるのかもしれない。
また、陳曽煕氏は自身の息子である陳啓宗氏が恒隆集団の経営に携わるのをよしとせず、86年に亡くなると、陳曽煕氏の弟が恒隆集団を継ぐ。91年にようやく陳啓宗氏が恒隆集団の主席に就任するが、その時すでに恒隆集団は眠れる大財閥と化していた。
返還を控え、先行きに不安が残る香港の社会情勢は、恒隆集団の再建には不利な状況とも思われたが、歴史は陳啓宗氏に味方した。
97年に突如発生したアジア通貨危機を見事乗り切り、さらに香港返還を逆手に取って中国大陸の不動産開発に進出、見事香港最大手のデベロッパーのひとつとして返り咲いたのである。(執筆者:田中素直・株式会社ユニオール代表取締役)
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