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interview with Kiyoshi Matsutakeya

interview with Kiyoshi Matsutakeya

ジャパニーズ・レゲエの夜明けから

──松竹谷清、松永孝義を語る

野田 努    写真:小原泰広   Jun 18,2014 UP

松永孝義
QUARTER NOTE
~The Main Man Special Band Live 2004-2011~

Precious Precious Records 
ライナーノーツ:こだま和文 / エマーソン北村

Tower HMV Amazon

 80年代の日本で、ふたりの偉大なベーシストを見つけるとしたら、ひとりはじゃがたらのナベ、もうひとりはミュート・ビートの松永孝義である、と言いたくなるのは僕だけではないでしょう。ニューオーリンズのファンクからジャマイカのレゲエ、UKのポストパンクまで、異種交配を繰り返しながら、ビート・パンク全盛期の日本で、ふたりはグルーヴを意識したダンス・ミュージック作りのひとりとして演奏に励んでいた。1986年には、インクスティック芝浦ファクトリーの「東京ソイソース」がそのうねりの拠点となって、S-KENのホットボンボンズ、ミュート・ビート、じゃがたら、そして松竹谷清のトマトスの4バンドが集まった。

 初期のじゃがたらは、いまからざっと30年ほど前の下北沢のとあるバーにたびたび集まっていた。当時その店で働いていたのがトマトスを結成する松竹谷清、通称、清さんだった。パンクの熱が容赦なく残っている時代において、音楽の探求者たちは同じ場所と同じ時間を共有した。トマトスには、ベースがナベ、ギターがEBBY──じゃがたらのメンバーして知られたふたりが加入している。

 トマトスはミュート・ビートと同様に、80年代前半の東京の、レゲエのリズムを取り入れたバンドだった。インストのミュート・ビートに対して、しかし、トマトスには日本語の歌があった。やがて初期のフィッシュマンズや一時期のチエコ・ビューティー、あるいはロッキン・タイムなどへと展開する、日本語ロックステディのはじまりと言えるかもしれない。ちなみに、広くはミュート・ビートのベーシストとして記憶されている松永孝義だが、1989年からはトマトスでも演奏している(また、一瞬だが今井秀行もドラムを叩いている)。

 松竹谷清とミュート・ビートとの共演は、1枚の素晴らしい名盤を残している。スカタライツのサックス奏者、ローランド・アルフォンソとの共演盤だ。1988年、松竹谷清はギタリストとして、ローランド・アルフォンソ+ミュート・ビートのライヴに参加していている。それが後に『ROLAND ALPHONSO meets MUTE BEAT』としてリリースされた。また、1992年にはニューヨークの伝説的なレゲエ/ダブ・レーベルのワッキーズにて、『ROLAND ALPHONSO meet GOOD BAITES with ピアニカ前田 at WACKIES NEW JERSEY』の録音にも参加している。後者は、たったの2曲の複数ヴァージョンの収録なのにも関わらず、まったく飽きさせない出来だ。
 
 この6月、松永孝義の3回忌にあわせての未発表ライヴ音源がリリースされる。2004年に、松永孝義にとって生涯で最初で最後のスタジオ録音のソロ・アルバム『The Main Man』を契機に生まれたバンド、The Main Man Special Bandによるライヴ演奏だ(ライナーノートは、こだま和文とエマーソン北村)。ちなみに、カヴァー曲の多いくだんの『The Main Man』のなかで、オリジナル曲を書いているのが松竹谷清である。
 
 写真撮影のときは、チエコ・ビューティーの『ビューティーズ・ロック・ステディ』(こだま和文がプロデュースした日本のロックステディの名作)のなかの1曲、“だいじょーぶ”を弾き方ってくれた松竹谷清は、近年は、日本語レゲエの先駆者として、地味ながらも再評価されている。今回は、清さんに、松永孝義のベースと80年代のミュート・ビート周辺について語ってもらった。

やっぱりミュートからですね。ミュート・ビートが好きで、という感じですかね。それで衝撃を受けましてね。松永は「すげえベースだな」っていうので、まずは音楽ですごく感動しまして。

今回松永孝義さんの3回忌ということで、未発表のライヴ・アルバム『QUARTER NOTE』発売がされます。今回のそのためのインタヴューということで、松竹谷清さんにお時間をいただきました。清さんは松永さんとはもちろん古いつき合いであり、松永さんの唯一のソロ・アルバム『The Main Man』のなかでも作曲されてもいます。

松竹谷清:教えた曲も含めると半分ぐらいになるかもしれないけど(笑)。

松永さんを若い世代にも知ってほしいということで今回の企画があるのですが、まず最初に松永さんがどういう方だったのかのかお話していただきたいなと思ういます。そもそもいつお知り合いになられたんでしょうか?

松竹谷:やっぱりミュートからですね。ミュート・ビートが好きで、という感じですかね。それでおお! という衝撃を受けましてね。

清さんがトマトスをやるのはちょっとあとですよね。

松竹谷:実際はミュートよりもトマトスのほうがちょっと早いんですよ。全然マイナーなんですけど。トマトスは82年ぐらいからやってるんで、トロンボーンズとかルード・フラワーとかやってる頃で。だいたい85年ぐらいだと思うんですけど、こだまとかと知り合ったりとかして、それでミュートのライヴなんかも観ていって。

スタッフ:トマトスがはじまってるのってニューウェイヴより前なんですか?

松竹谷:もうニューウェイヴだね。だから東京ロッカーズのあとだね、ミュートも俺らも。だから80年代入ってからだね。それで松永は「すげえベースだな」っていうので、まずは音楽ですごく感動しまして。で、あとでよくよく考えると、かなり前にライヴハウスで違うバンドで対バンしたこともあったんですけど。やっぱり(意識したのは)ミュート・ビートですね。86年かなあ? 85~6年、そのぐらいですね。

スタッフ:当時は〈クロコダイル〉で?

松竹谷:うん、〈クロコダイル〉とかですね。あと六本木のインクスティックですね。

ミュートもトマトスも、お互いそれぞれ作品を発表された頃ですね。

松竹谷:ミュートが出したのとだいたい同じ時期なんですよ。ミュートが出したのも、86年、87年……『TRA』のカセットが86年で、ファーストの『FLOWER』が87年じゃない。トマトスも87年なんで。一緒ぐらいなんです。まあうちはインディでしたけどね。

その頃パンク/ニューウェイヴがあって、と同時にレゲエがありました。清さんは、じゃがたらやミュート・ビート、S-KENといった、のちの東京ソイソースに繋がるコミュニティのひとりだったわけですけれど、その当時のバンド間の関係っていうのはどんな感じだったんでしょう?

松竹谷:ちょっとこう……俺らはちょっと違うよっていう意識だけは持ってたかもしれないですね(笑)。ツッぱって。あの頃やっぱりイギリスに目が行ってたと思うので。イギリスのクラブ・シーンや音楽が変わっていくっていうのと、俺らも同じところにいるような気持ちでやってたと思いますね。要は、クラッシュにしてもレゲエに影響を受けて変わったり、いろいろあるでしょう。リップ、リグ&パニックとか、あとはファンクとかね。レゲエとかサルサとかアフリカの音楽とかがこう、ぐしゃぐしゃっとなってきた時期だったんで。僕らも同じ気持ちがありましたね。

ちなみに清さんご本人のそれまでのバックボーンっていうのは?

松竹谷:アメリカの黒人音楽ですね。ブルース/ロックンロールですね。しかも、プレスリーのように、違う文化のフィルターがかかって、化学反応が起きているものが好きです。何て言うんだろう……ワープ感というか、そういうようなイメージなんで、僕のなかの音楽って。そのものをやるっていうじゃなく。自分が持ってるものじゃなくて、何かのところに行ってヘンな化学変化が起きたような感じで。根っこはロックンロールやブルースがあったところで、っていうね。この前イエローマンがたまたま日本でツアーしてまして、サポートでバッキングしたんですけど、同世代なので、持っているものは同じというか。アメリカからの影響がレゲエという形で出ていくという。どんなジャンルもそういうのがあっていいと思うので。

トマトスの靴のジャケット(「ROCK-A-BLUE BEAT」)、よく覚えています。ミュート・ビートの『FLOWER』もそうですけど、ああいうのがひとつのメッセージというか。レゲエみたいなものがたんに輸入音楽ではなく、のちに日本に根付いていくきっかけになったんだと思います。

松竹谷:そうですよね、ええ。ありがとうございます。だってねえ、世界中でその国の言葉で歌ってるじゃないですか。いろんなものの影響を受けて。それがグルーヴにすごく影響があるんでね。それが面白いですよ。

ちなみに清さんはレゲエみたいなものはどこから入ったんですか?

松竹谷:ボブ・マーリーとかジミー・クリフとか初期のも好きだったんですが、80年代前後に古いスカやロック・ステディのレコードが若干買えるようになりまして。トリオでトロージャン・ストーリー出たり。あれがまず大きくて。80年代頭の当時は「あのレコード屋に〈スタジオ・ワン〉のレコードが何枚入るぞ」ってスカフレのメンバーとかミュートのメンバーで取り合ってましたよ。早く行って買わないとない、っていう。「ウッドストックに10枚入る」だの……。

はははは。そういうなかでミュート・ビートを通じて松永さんとお会いすると。清さんから見てミュート・ビートというのはどういうバンドでしょう?

松竹谷:いや、もうあのひとたちはワン・アンド・オンリーなんでね。早い話、演奏は素晴らしいですけど、ぶっちゃけて言っちゃうとオーガスタス・パブロの80年代前後のサウンドにかなり近いアレンジとかもしてる。でもこだまの演奏は、日本でないと成り立たないものになってるっていうのが、一番僕がグッときたところですね。日本でないと成り立たないレゲエだっていう。

それはメロディであったり?

松竹谷:メロディであったりですね。でも同じようなトラックの作り方してても……同じような叩き方やベースの弾き方してても、にじみ出てくるものがあって、それがすごく大きかったです。

スタッフ:暗いアルバムってヨーロッパやイギリスでもあるけど、ああいうマイナーな曲が入ってるってないですよね。暗いっていうと違うかもしれないですけど。

松竹谷:いや、暗くていいんじゃない(笑)?

取材:野田努(2014年6月18日)

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