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糸満市のあゆみ

ページID:0001294 更新日:2022年12月1日更新 印刷ページ表示

 

  1. グスクの発展と南山の興亡
  2. 近世の間切・村
  3. 市域の再編
  4. 行政の変遷
  5. 糸満のマチの発展
  6. 糸満の漁業の発展
  7. 門中と門中墓
  8. 沖縄戦
  9. 瓦礫の中から郷土の復興
  10. 1町3村のころ
  11. 合併,新糸満町の誕生
  12. 市制施行、祖国復帰
  13. 第4次埋立と新たな展開
  14. 21世紀を展望して

グスクの発展と南山の興亡

画像:糸満市の歩み

糸満市には、現在38か所のグスクが確認されている。『おもろさうし』によれば「くめすよのぬし」や「いしやらよのぬし」、「やまきたらすさへ」、「やまくすくたたみきよ」、「ふくしおわるよのぬし」、「まかひおわるよのぬし」、「あはこんの大や」などといった有力者たちが、各地にグスクを築いて群雄割拠していた。中でも「しものよのぬし」は、最も有力な支配者であったようである。

字大里にある南山城には、大里按司をはじめとする承察度・汪応祖・他魯毎と続いた南山王統がおり、その支配は「しもしましり」と呼ばれた兼城・大里・真壁の範囲から、次第に豊見城・喜屋武・摩文仁・東風平・具志頭・玉城・知念・佐敷・島添大里にまで及んだ。そして、沖縄本島を中山・南山・北山と呼ばれた3つの勢力が覇を競う三山鼎立時代には、承察度は中山に次いで1380年に中国に朝貢し、進貢貿易を展開した。

「大さとは さとからる、かでしかわ みづからる」と歌われた嘉手志川(カディシガー)は、その豊かな水量で南山城下の田畑を潤し、南山繁栄の基盤をなしていた。しかし、他魯毎はこの川と佐敷の小按司(尚巴志)の持つ金屏風とを交換し、臣下の信望を失い、ついには巴志によって滅ぼされたという。

近世の間切・村

古琉球の時代の区画図の画像
画像:古琉球の時代の区画図

糸満市域を構成する行政区画は、古くは「しもしましり」・「きやめ」・「まふに」と称されていた。「しもしましり」は、いつしか島尻兼城・島尻大里・島尻真加比の三つの間切に分割され、島尻大里間切りは1667年に高嶺間切と改称し、島尻兼城間切は兼城間切に、島尻真加比間切は真壁間切と改称した。

近世を通じては、兼城・高嶺・真壁・喜屋武・摩文仁の五間切である。それぞれの間切には、間切を領する按司地頭と総地頭の両総地頭と村を領する脇地頭が任じられていた。総地頭らは、首里や那覇に居住し、間切や村を支配した。間切や村の行政を実際に担うのは、地頭代を頂点に夫地頭やさばくり(首里大屋子・大掟・南風掟・西掟)、村掟らで、総務・納税・糖業・農務・林務・治安等の職務を分掌していた。

市域の再編

薩摩藩調整図の画像
画像:薩摩藩調整図

市域の村々は、17世紀後半の間切境界の見直しによって大きく変化した。兼城間切は豊見城間切から武富・波平・阿波根の3か村を編入し、中城・崎中城の2か村を高嶺間切へ、伊敷・新垣の2か村を真壁間切へ出して、武富・波平・阿波根・賀数・座波・潮平・兼城・照屋・糸満の9か村となった。高嶺間切は古波蔵・名城・糸洲の3か村を真壁間切へ出し、兼城間切から中城・崎中城の2か村を編入し、「わたりきな」・「げる」・神里・「くびり」・中間の5か村を近くの村に併合して、与座・屋古(後に大里)・国吉・真栄里の4か村となった。真壁間切は兼城間切から新垣・伊敷の2か村を、高嶺間切から古波蔵(後に小波蔵)・名城・糸洲の3か村をそれぞれ編入し、喜納・中間の2か村を近くの村に統合して、真壁・「あがるい」(後に宇江城)・前平(後に真栄平)・新垣・伊敷・名城・小波蔵・安里・糸洲の9か村となった。喜屋武間切は「さき」村を廃して、喜屋武・福地・山城・束辺名・上里の5か村となった。摩文仁間切は摩文仁・小渡・米次(後に米須)・石原・伊礼の5か村である。

行政の変遷

糸満のマチのにぎわいの画像
画像:糸満のマチのにぎわい

明治政府は廃藩置県の前段として、1872年(明治5)9月14日に琉球藩を設置した。そして、1879年(明治12)4月4日には、琉球藩を廃しさらに沖縄県を設置したことを布告した。しかし、各間切での事務は旧慣のままとされた。

1897年(明治30)に間切島吏員規程が発布されたことにより、従来の間切番所は間切役場に改称され、地頭代以下の役人は廃止され、間切長・収入役・書記及び村頭等が新たに任命された。

1908年(明治41)4月1日に施行された沖縄県及島嶼町村制によって、糸満は兼城間切の一村から分離し、町制を布いて沖縄県で唯一の「町」が誕生した。各間切は村制を布いて、兼城間切は兼城村に、高嶺間切は高嶺村に、真壁間切は真壁村に、喜屋武間切は喜屋武村に、摩文仁間切は摩文仁村に改称した。

糸満のマチの発展

兼城村役場の画像
画像:兼城村役場

字糸満は、3腹あるいは7腹の親族集団にはじまり、近世の中ごろに近隣の農村から漁業を営みに移り住むものがでて、やがて13腹に増加し、明治のはじめには戸数929戸、人口5,300人余りとなって、首里・那覇に次ぐ大きな街に発展していた。

そこには、市を中心に、糸満警察署・糸満郵便局・那覇区裁判所糸満出張所(登記所)等の官衛が設置され、糸満街道や馬車軌道、県営鉄道糸満線等の交通も整備された。

糸満の漁業の発展

ジョーグヮーで出漁を待つサバニの画像
画像:ジョーグヮーで出漁を待つサバニ

糸満の伝統的な漁業は、糸満の西海岸に発達したリーフを漁場とするアンブシ(建干網)漁と呼ばれる沿岸漁業であったが、鱶釣りや鳥賊釣り、トビウオ刺し網といった沖合漁業へと展開した。1884年(明治17)にミーカガン(水中眼鏡)が考案されてからは、潜水を主体とするパンタタカーやアギヤーと称される追込網漁業へと発達していった。サバニがクリ船から剥舟に改良され、一層拍車をかけた。獲れた魚は、消費地である那覇等へ運ばれ、カミアキネー(頭上運搬による商い)で売りさばかれた。組織的な漁業経営であるアギヤーからは、多くのイチマンアンマー(糸満婦人)らがワタクサー(私財)を蓄積することができた。このことをマルクス経済学者の河上肇が「琉球糸満の個人主義的家族」として論文発表したことにより、多くの研究者らが糸満に興味を抱いて訪れるようになった。

アギヤーの発展は、近海の漁場の枯渇を招き、沖縄本島周辺から宮古・八重山へ、そして本土へと漁場を求めて展開した。また、第一次大戦後には南洋諸島・フィリピン・シンガポールへと多くの人々が出稼ぎに出かけた。

門中と門中墓

昭和10年に改修された幸地腹・赤比儀腹両門中墓の画像
画像:昭和10年に改修された幸地腹・赤比儀腹両門中墓

各字を古くから構成する人々をジーンチュ(地人)という。ジーンチュは腹とか門中と称する父系親族組織を組織し、一つの墓を共同で使用する。

糸満市内には多くの門中墓があり、沖縄最大の門中墓として知られる幸地腹・赤比儀腹両門中墓はその代表的なものである。この墓は、兄と妹の婿の子孫だけが使用する血縁共同墓である。1684年の墓碑には、上原掟親雲上の8人兄弟と金城ちくどのの3人兄弟の子孫の墓の使い分けが記されている。

創建当時から1868年(明治元)までのトーシー墓(当世墓)は一つの小さな亀甲墓であったが、近代になって子孫が広がり、年間の死者の数も増すと、1墓では洗骨までの処理に間に合わなくなり、遺体が朽ちるまでの間安置しておくためのシルヒラシ墓を1869年(明治2)と1901年(明治34)、1911(明治44)にそれぞれ1基づつ増設している。1935年(昭和10)には、トーシー墓を現在見るような大きな墓に立て替えるとともに、あと1墓のシルヒラシ墓を増設し、屋根の形も亀甲形式から破風形式の家型の墓に改修した。

沖縄戦

瓦礫と化した山巓毛周辺の画像
画像:瓦礫と化した山巓毛周辺

1944年(昭和19)10月10日に那覇を中心に大空襲を行った米軍は、翌45年に入ると激しさを加え、3月23日には沖縄本島に猛烈な爆撃を開始した。同月26日には慶良間諸島、4月1日には読谷・嘉手納の海岸から沖縄本島に上陸し、瞬く間に沖縄県下を占領していった。

80日余りに及んだ沖縄戦における戦死者は、米軍が1万人余に対し日本軍は約9万人で、県民は10数万人といわれる。

糸満市民の戦没者は、糸満町が1,446人、兼城村が1,547人、高嶺村が1,521人、真壁村が、1,979人、喜屋武村が625人、摩文仁村が1,169人の合計で8,287人である。当時の人口の約4割弱の人々が尊い命を失った。

瓦礫の中から郷土の復興

伊敷轟洞の救出の画像
画像:伊敷轟洞の救出

ガマ(洞穴)や墓などから救出された住民は、収容所時代を経て、それぞれの故郷に帰ることが許された。尊い人命を失い、多くの財産が瓦礫と化した郷里では、悲しむまもなく郷土の復興がはじまった。糸満町を中心に「糸満地区(糸満市)」が設定され、名城の米軍キャンプ跡には南部区が、米須一帯には真和志村が置かれた。特に多くの住民を失った真壁・喜屋武・摩文仁の3村は、1946年4月4日に合併して三和村を形成した。

戦後いち早く学校教育も再開し、陸上競技や野球などのスポーツが荒廃した民心を引き立てるために盛んに行われた。

1町3村のころ

港の浚渫でできた漁港西側埋立の画像
画像:港の浚渫でできた漁港西側埋立

1950年代は、市域の1町3村で本格的な郷土の復興に力が注がれた。各字の復興にともない、多くの戦没者の遺骨が収集され、各地に次々と慰霊塔が建立されていった。

1952年には琉球政府が創立し、政治・教育・農水産業など生活環境の基盤整備が進められた。糸満地先の埋立事業や港の整備で離島航路が設置され、一時は県下で最も商工業の発展が目立つところとなっていた。

戦後まもなく建てられた茅葺校舎が次々とコンクリートの新校舎に立て替えられたり、各字で親子ラジオが整備されて町村や農協の広報活動も活発になるなど、戦後沖縄の世替わりの時期であった。

合併,新糸満町の誕生

三和村役所から糸満町役所三和支所へ看板掛替式の画像
画像:三和村役所から糸満町役所三和支所へ看板掛替式

糸満町・兼城村・高嶺村及び三和村はともに行財政力に乏しく、面積・人口・産業、その他の事情に照らしても自治運営に適切な規模とはいえなかった。そこで、行政運営が合理的かつ能率的に、しかも財政力の強化を図るとともに文化的産業都市の建設を目指し、1961年10月1日には糸満町・兼城村・高嶺村及び三和村を廃止して、新たな糸満町が誕生した。

糸満漁港北側の川尻地先埋立事業や(第1次埋立)や糸満漁港の浚渫にともなう消防西側埋立事業(第2次埋立)が竣工し、市域の拡大が図られていった。

合併5年目には町予算が100万ドルの大台を突破し、ようやく町政が軌道に乗り出した。また、高等弁務官資金によって琉米文化会館や各字の公民館が建設されるなど、社会資本の整備が着実に進められた。

市制施行、祖国復帰

交通方法変更前の糸満ロータリーの画像
画像:交通方法変更前の糸満ロータリー

産業の振興と諸施設の充実、住民生活の向上を図るため、合併10周年を迎えた1971年(昭和46)12月1日には市制を施行して、新たに糸満市としてスタートとした。

戦後27年間米軍の施政権下にあった沖縄は、1972年(昭和47)5月15日には本土復帰を成し遂げ、新生沖縄県となった。通貨もドルから円へ替わり、県民生活も大きく変化した。翌73年(昭和48)には若夏国体、さらに2年後の1975年(昭和50)の夏には国際海洋博覧会が開催されるなど、県民全体が沸いた。

一方、市民生活も向上し、生産意欲も高まり、産業まつり等が拡大充実され、さとうきび価格貫徹農民大会も初めて開かれた。また、新糸満漁港修築工事と公有水面埋立事業(第4次埋立)も着々と進められた。

1977年(昭和52)には戦没者の33年忌法要慰霊祭が厳かに行われ、一つの区切りがなされた。それから、翌78年(昭和53)7月30日には県下一斉に交通方法が変更され、これまで右側通行であったのから左側通行になり、ロータリー周辺の街の様子も大きく変化した。

第4次埋立と新たな展開

整備が進む西崎町の画像
画像:整備が進む西崎町

1980年(昭和55)5月22日、糸満市土地開発公社へ潮平地先公有水面埋立事業(第4次埋立)の免許が交付された。満4年の長い年月と総工費360億円をかけて、総面積268ヘクタールという大規模な埋立地が、1984年(昭和59)6月19日に竣工した。そこには、水産食品加工団地や中小企業団地などを誘致し、分譲住宅・公営住宅・教育施設・運動公園等が配置され、文化的な新しい街「西崎町」が誕生した。

1987年(昭和62)の海邦国体では、西崎球場や総合体育館を主会場に軟式野球とバドミントン大会が開かれた。

豊かになった暮らしの中から、平和や健康、環境問題等を考える気運も高まり、「ひかりとみどりといのりのまち」糸満として、新しい街づくりが展開された。

21世紀を展望して

新庁舎完成予想図(南面)の画像
画像:新庁舎完成予想図(南面)

第4次埋立事業によって誕生した「西崎町」を中心に、商業活動や文化活動が大きく展開する中、1990年(平成2)と翌91年(同3)には沖水ナインが全国高等学校野球大会での2年連続の準優勝は、市民に大きな夢と希望をもたらした。

沖縄戦で消失した緑を回復し、「みどり」に包まれた豊かで潤いに満ちた環境を創出する「第44回全国植樹祭」が、天皇・皇后両陛下をお迎えして1993年(平成5)4月25日に開催され、沖縄戦終焉の地「糸満市」が全国に注目されるにいたった。また、同年12月1日には平和都市宣言と戦時中の学童疎開が縁で宮崎県都農町との姉妹都市提携調印が行われた。1995年(平成7)6月23日には、国籍、軍人・非軍人を問わず、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」が建立されるなど、摩文仁を中心に世界の恒久平和を祈念する拠点の整備が進められている。

そして、南浜公有水面埋立事業をはじめ、新庁舎や市民会館の建設、国営地下ダム事業等の21世紀を展望した新たな街づくりが動きだしている。