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中利夫さん追悼 おだやかな職人肌の野球人がいちどだけ見せた「くやしさの証し」監督解任から20年すぎていた【中日】

2023年10月15日 05時45分

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 中日ドラゴンズで俊足巧打の中堅手として活躍し、監督も務めた中利夫(なか・としお)さんが10日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため、名古屋市内の病院で死去した。87歳。前橋市出身。通夜、葬儀は近親者で執り行った。
【追悼】
 プロ初打席はセーフティーバントを決めての内野安打。9回、代打での起用はチームのノーヒットノーラン負けを阻止する一打だったが、それがいかにも中さんらしい。
 「だって、僕はあんな球打てないもん。だからバントしただけだよ」

中利夫さん


 生涯に1度しかない初打席。しかもチームは屈辱的なピンチに追い込まれている。でも、どんな状況でも自分にできる最善を考え、実行する。極めて合理的な考えができる人だった。
 首位打者、盗塁王にも輝いているが、華やかなスター選手というより職人肌の選手として評されることが多かった。
 破れても補修しながら同じグラブを12年間使い続けた逸話は有名だ。だが、中さんは職人肌ではあったが、過去の習慣にとらわれない、自由で合理的な発想ができる職人だった。

笑顔の中利夫(右)と高木守道


 新人での春季キャンプ。魚が苦手だった中さんは、宿舎で夕食で鍋や刺し身などの代わりに肉などの別メニューを出してもらったという。当時、高卒ルーキーが並みいる諸先輩とは違うメニューを求めるのは相当な勇気がいるはずだ。でも「だって食べないとバテて練習ができないから」と本人にとっては自然なこと。ある意味、異端。それゆえ誤解も生んだ。
 監督として指揮を執った3年間のチーム順位は5、3、6位。「僕たちのころは与えられた戦力で戦うのが当たり前。だから、主力がけがしたりすると、もうどうしようもないんだよ」。それでもチームを建て直そうとミーティングを開き、緩んだ規律を引き締めようと手を尽くした。

中利夫 監督


 物事を達観したように、いつも温和な中さんが、一度だけ人間くさい一面を見せたことがある。飲めない酒を少したしなんだとき、財布から小さな紙切れを出して「これ見て」と言った。そこには「門限」「見張り」といった文字が書かれていた。
 「監督を解任されたとき、球団に言われたんだ。門限を破る選手がいないか僕が見張っていると。選手の気持ちが離れているって。でも、うそだよ。そんなこと一度もしてない」
 よほど悔しかったのだろう。でも、そんなことはおくびにも出さず、だけど、20年近くその悔しさの証しを持ち続けていたのだ。
 中さんが球界に残した幾多の成績は、いまならもっと評価されていただろう。その野球への取り組み方や考えも、低迷するチームにもっと指導してほしかった。生まれた時代が早すぎたし、逝くのも早すぎる。でも、きっと中さんは天国からいつもの穏やかな笑顔で言うのだろう。「そんなこと言っても仕方ないよ。人はいつか死ぬのだから」 (元中日担当・西沢智宏)
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