教皇フランシスコの最初の説教

3月14日(木)午後5時からシスティーナ礼拝堂で、教皇フランシスコは、コンクラーベに参加した教皇選挙権を有する枢機卿とともに、「教会のため」のミサをささげました。このミサの中で教皇は、事前に準備した原稿なしに、朗読箇所( […]

3月14日(木)午後5時からシスティーナ礼拝堂で、教皇フランシスコは、コンクラーベに参加した教皇選挙権を有する枢機卿とともに、「教会のため」のミサをささげました。このミサの中で教皇は、事前に準備した原稿なしに、朗読箇所(イザヤ2・2-5、一ペトロ2・4-9、マタイ16・13-19)を解説しながら説教を行いました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

3月13日の教皇選出から一夜明けたこの日、教皇は午前8時にドムス・サンクタエ・マルタエを出発してサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂を訪問し、コンクラーベ開始前に宿泊していた聖職者の国際宿泊施設に立ち寄った後、バチカンに戻りました。
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 3つの朗読箇所にはある共通点があると思います。第一朗読における旅路を歩む動き。第二朗読における教会を築く動き。第三に、福音における告白の動きです。歩むこと、築くこと、告白することです。
 歩むこと。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2・5)。これこそが、神がアブラハムに告げた第一のことです。わたしの前を歩みなさい。そうすれば、あなたは非の打ちどころのない者となる。歩むこと。わたしたちの人生は旅路です。そして、立ち止まれば、物事は進みません。主のみ前を、主の光の中を、つねに歩むことです。神がご自身の約束の中でアブラハムに求めた、非の打ちどころのない態度をもって生きようと努めながら。
 築くこと。教会を築くこと。石について語られています。石は堅固さをもっています。しかしそれは、生きた石、聖霊によって油注がれた石です。主ご自身という、隅の親石の上に、キリストの花嫁である教会を築くこと。築くこと――これがわたしたちの人生のもう一つの動きです。
 第三は、告白することです。わたしたちは望みを抱くことによって、歩むことができます。わたしたちは多くのことを築くことができます。しかし、イエス・キリストを告白しなければ、物事は進みません。福祉活動を行うNGOになれるかもしれませんが、主の花嫁である教会にはなれません。歩まなければ、止まってしまいます。石の上に自分を築かなければ、何が起きるでしょうか。砂の上にお城を作って遊ぶ子どもと同じことが起きます。すべてが倒れ、堅固さを失います。イエス・キリストを告白しなければ、わたしはレオン・ブロワ(1846-1917年)の「主に祈らない人は、悪魔に祈る」ということばを思い出します。イエス・キリストを告白しなければ、悪魔の世俗性を、悪霊の世俗性を告白することになります。
 歩むこと、築くこと(建てること)、告白すること。しかし、物事はそれほど容易ではありません。歩み、築き、告白するとき、時にはつまずかされるからです。本来の歩みの動きとは違う動きがあるからです。わたしたちを後ろに引き戻す動きがあるからです。
 今日の福音ではこの後、特別な状況が述べられます。イエス・キリストを告白したペトロ自身が、イエスにこういいます。あなたはメシア、生ける神の子です。わたしはあなたに従います。しかし、十字架について話すのはよしましょう。十字架はわたしたちと関係ないことです。わたしは十字架抜きの、別の方法であなたに従います。もしわたしたちが十字架なしに歩み、十字架なしに築き、十字架なしにキリストを告白するなら、主の弟子ではなくなります。世俗的な者となります。司教、司祭、枢機卿、教皇であっても、主の弟子ではなくなるのです。
 わたしの望みはこれです。どうか皆様が、この恵みの日々の後、勇気をもって、本当に勇気をもって、主の十字架とともに、主の前を歩んでくださいますように。十字架上で流された、主の血の上に教会を築いてくださいますように。唯一の栄光である、十字架につけられたキリストを告白してくださいますように。そうすれば、教会は前進するでしょう。
 わたしたちの母である聖母の祈りによって、聖霊がわたしたちに、歩み、築き、十字架につけられたイエス・キリストを告白する恵みを与えてくださいますように。アーメン。

 

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