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中東ウォッチ

フセイン処刑の意味

2007年01月09日

編集委員・川上泰徳

 2006年は12月30日のフセイン元大統領の死刑執行というショッキングなイラク発のニュースで締めくくりとなった。直後に、携帯電話のカメラで処刑の様子を収めた画像が、インターネット経由で流れた。元大統領が「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)とイスラム教の聖典の言葉を唱えた後、「ガタン」という鋭い音で絞首台の床が開く瞬間が映っている生々しい内容だ。映像は絞首台の上から撮ったものと、下から撮ったものもあるが、処刑の後、暗がりのなかでロープが付いたままの元大統領の顔を執拗に、それもかなり近くから映した画像も含まれている。

写真インターネットで流れたフセイン元大統領処刑の映像(イラキヤテレビから)

 映像の残酷さとともに、処刑の直前に立会人の中から、「地獄へ落ちろ」という罵声が元大統領に浴びせられたことが、元大統領が所属するスンニ派の怒りを掻き立てている。さらに世界を驚かせたのは、大統領の処刑の直前に、コーランが唱えられた後、「ムクタダ、ムクタダ、ムクタダ」と、シーア派の反米強硬派の指導者ムクタダ・サドル師の名前が、3回にわたって連呼されたことだ。

 サドル師はマフディー軍という民兵を抱え、イラク戦争後、激しい反米攻撃を行った強硬派のシーア派指導者である。2005年12月の総選挙にシーア派の統一名簿に参加し、ハキーム師が率いるイスラム革命最高評議会(SCIRI)やジャファリ前首相やマリキ現首相が属するダワ党と並んで、主要勢力のひとつとなった。特にシーア派内ではマフディー軍とSCIRIの民兵のバドル軍は、シーア派聖地ナジャフの攻防で衝突したこともあり、敵対する関係だ。シーア派統一連合の首相候補の選出で、ダワ党の候補とSCIRIの候補が競った時に、サドル師派はダワ党を押した。

 サドル師派が政治的に復権したばかりではない。マフディー軍は米軍占領下で反米蜂起を繰り返していたころは、シーア派の中でも「無法者」視されていた。いまではシーア派住民にとって守護者として頼られる存在にさえなっている。さらに昨年2月に、イラク中部のサーマッラにあるシーア派聖地のモスクが爆破される事件が転機となった。スンニ派とシーア派の衝突が激化し、報復合戦になった。マフディー軍がスンニ派地区を攻撃したシーア派の主力であったことは言うまでもないが、対立の状況が強まるにつれて、シーア派の民衆は頼りにならない治安部隊よりもマフディー軍に地域の警備や危険分子の排除で頼るようになる。新年早々のイラクのアッザマン紙のインターネット版を読んでいると、バグダッドでシーア派住民が集まるサドルシティーでは、マフディー軍は地域の警備のために、15歳から45歳までの男性を強制召集し始めたというニュースが出ていた。

 フセイン元大統領の処刑という場に、サドル師派の関係者がいたことは、米国のイラク政策の失敗とともに、同派が現在のシーア派主導政権の中核にいるということを象徴している。シーア派住民の多くは、憎いサダム・フセインに「地獄に落ちろ」の言葉が投げつけられたことに喝采を挙げたことだろう。「ムクタダ」への連呼とあわせて、サドル師派にとっては大きな宣伝効果があったはずだ。

 問題は、なぜ、マリキ政権は米国の反対を押し切ってまで、フセイン元大統領の性急な死刑執行を行ったかである。

 結局、元大統領が裁判で問われたのは、82年に大統領暗殺未遂事件があったシーア派の村で約150人の村人を処刑した罪だけとなった。88年にイラク北部のクルド人の町ハラブジャに化学兵器を使用して住民5000人を虐殺した事件や、91年の湾岸戦争後にイラク南部のシーア派による大規模な蜂起を軍事弾圧して10万人とも言われる住民を虐殺した事件、さらには90年夏のクウェート侵攻など、歴史的な“犯罪”は起訴もされず、真相が明らかにされる機会は永遠に失われてしまった。

 政治的に重要な意味を持つはずのフセイン元大統領が、いとも簡単に処刑されてしまったのは、言葉の繰り返しではあるが、フセイン元大統領が政治的に重要な意味を持つ時代を、完全に過去に葬ろうとする意図である。シーア派にとっては、フセイン元大統領に象徴されるスンニ派主導の旧バース体制との決別と言ってもいいだろう。つまり、現在、政権を主導しているシーア派が、旧バース党勢力と妥協して、スンニ派との暴力的な混乱を収拾するような選択はないことを、元大統領の処刑で明確に宣言したことになる。

 もともとは戦後のイラク体制で、旧バース勢力を排除したのは、米国である。旧政権幹部とともにバース党の幹部、さらにフセイン体制を支えた旧政権の治安・情報機関の関係者を完全に排除した。旧政権の治安と秩序を支えてきた機構を排除すれば、混乱するのは当然であり、米国にはイラク占領に全く準備がなく、場当たり的だったことや、軍事力にたいする過信があったことなどとあわせて、致命的な失敗となった。

 米軍が04年6月に占領を終わらせ、主権委譲の相手として選んだアラウィ暫定政府首相は、治安回復のために、旧治安・情報関係者など、旧政権関係者を復活させ、自らの権力基盤の強化に使うことで、態勢の立て直しを図ろうとした。アラウィ氏はシーア派の世俗派で、自らが元バース党幹部だったが、フセイン態勢の下で亡命を強いられた。その立場は、反フセイン体制ではあったが、反バース体制ではなく、治安や行政の立て直しのためには、旧バース党人脈の復活が必要だと考えていた。

 アラウィ氏は国内のスンニ派の取り込みに成功して、さらに周辺アラブ諸国の支持も得た。その後、米国も、アルカイダを封じ込めるために、旧政権勢力が主力のスンニ派武装勢力への政治参加を求める方針に代わってきた。特に、ハリルザード米大使が駐バグダッド大使に就任してから、その傾向は強まり、シーア派にはハリルザード大使を「スンニ派の手先」と反発する声もでた。

 今回のフセイン元大統領の処刑で、最も打撃をうけたのは、スンニ派勢力や旧政権勢力との政治的な駆け引き材料として、元大統領を使おうとしていた米国や、アラウィ氏であろう。シーア派政権は、元大統領がそのような取引材に使われる機会をつぶすために処刑を早めたのだ。

 フセイン処刑で、明らかになった米国とシーア派政権の食い違いは、出口戦略を探る段階にはいった米国のイラク政策に、暗い影を投げかけることになろう。シーア派政権は旧バース党人脈の復活をゆるすような形で、混乱を収拾する意図は一切なく、あくまで旧体制を力で清算し、シーア派優位の上での秩序の再構築を貫徹するつもりだろう。シーア派は「フセインを処刑すればスンニ派は反発し、状況はさらに悪化する」という世界の危惧や心配に、耳を貸すはずもないのだ。状況悪化は、折り込み済みである。

 イラクで政権を主導するシーア派が、あくまで自力で新秩序の構築をめさして動いている時に、米国には何ができるだろうか。イラクのシーア派の背後にはイランの軍事的、政治的、財政的な影響力があり、イラクでシーア派が覇権を確立することは、スンニ派主導のサウジアラビアなど湾岸アラブ諸国やヨルダンにとっては大きな脅威だ。

 米国には、そのような秩序を受け入れることはできないだろうが、それをつぶすことも出来ない。米国にできることは、そのようなイラク・シーア派に対して関与し続けることである。強大なシーア派を前に米国が支えてきたアラウィ氏や、米国との協調を取り始めたスンニ派勢力を支え続ける意味もある。引くに引けない状況ということになる。

 ブッシュ政権が新たに発表する新イラク政策は2万人程度の米軍増派になると報じられている。混乱収拾のために、旧バース党関係者の政権復帰を求める項目も含むという。何のための2万人増派なのか。イラクの混乱を止めるためには焼け石に水である。意味があるとすれば、米国が逃げ腰になっているという印象を打ち消すことだろう。つまり、イラクに関与しつづけるという政治的な意思を示すための2万人増派である。


プロフィール

川上 泰徳(かわかみ・やすのり)
 朝日新聞編集委員。長崎県生まれ。大阪外語大アラビア語卒。高知、横浜両支局、学芸部、外報部を経て、94年から98年まで中東アフリカ総局(カイロ)に駐在。2001年春から02年秋までエルサレム支局長、その後、カイロに移り、中東アフリカ総局長。03年秋からバグダッド支局長を兼務。今年4月から現職。著書に『イラク零年』(朝日新聞社)。パレスチナ報道で、02年度ボーン・上田記念国際記者賞。

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